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「私とあなたのあいだ いま、この国で生きるということ」を読んで

温又柔×木村友祐の共著「私とあなたのあいだ」が明石書店から刊行された。
芥川賞候補にもなった気鋭の小説家ふたりが交わす言葉の数々。書店では文芸書の棚に並べる店が多いように思うけれど、内容からするとこの本は社会学や現代思想の棚でも良いように思う。
なんせ副題が『いま、この国で生きるということ』だ。
コロナ禍で浮き彫りとなった政府の無能さや、日本学術会議問題をはじめとした民主主義の意義が根底から危ぶまれるいまの日本において、この副題が問う意味は重い。


さて本書は、ふたりが交わす往復書簡から構成されている。
文学・価値観・モラル・アイデンティティ・性・SNS…触れるテーマは実に幅広い。そしてその根底には何か一本筋の通った“怒り”がある。

特に、台湾・台北市生まれで、3歳から日本で暮らしている温さんは、ガイコクジンとして・女性として、いわばマイノリティ側を生きている。
先進国から遅れをとる口先だけのこの国で、日常から不愉快な思いを強いられることは決して少なくないだろう。子どもの頃から日本語を話し、ニッポンジンと同じように生活しているけれど、この国で選挙権はない。街頭でのヘイトスピーチに耳をふさぎ、SNSに飛び交う罵詈雑言の一つ一つに胸を痛めることは想像に難くない。

『考えてみれば、一部の人びとが私を日本人だと認めないように、私自身もまた、日本という国家に自分自身を重ねて考えることはめったにありません。たとえば、自分も日本人であるという、ただそれだけの理由で、海外で活躍する日本人を我が事のように誇りを感じる、といったような、国家と自分自身を同一視する感覚が希薄なのです。
(中略)日本か台湾か、の次元ではなく、私は“国家”というものそのものに懐疑心があるのでしょう。なぜなら私は、言ってみれば、どちらの“国”からもズレているから。』

近頃、テレビをつけると、自国の文化や民族性を褒め称える番組を目にすることが時折ある。まるで他国が“間違い”で、自国が“正しい”かのようなその構図には、呆れを通り越して吐き気がする。また、新型コロナ対策について問われた副総理が「うちの国は民度のレベルが違う」と発言し、批判が起きたのは記憶に新しい。
充満する“日本スゴイ”のディストピア。こうした発言や演出の積み重ねが無意識のうちに“分断”に加担しているカラクリを理解できないのであれば、この国に明るい未来など待っているはずがない。
『外交とはすなわち国際関係を再構築する努力である。』とは小熊英二さんのことば。


一方で、青森県八戸市生まれの木村さんは、日本人で選挙権を持ち、何不自由なく男社会を生きてきたマジョリティ側である(今これを書いている私もその一人だ)。
その手紙から語られる怒りは、マジョリティ側の持つべき責任と自戒をさらけ出した、“告白”とも呼ぶべき内容だ。
外国人労働者受け入れをめぐるアジア諸国への日本の対応、女性の容姿に対する自身の男性性、生活保護への厳しいバッシングや蔓延る自己責任論。

『様々な排除や差別の根は、底の方でつながっていると思っています。
(中略)社会的に成功して富を持つ者が偉くて、そうでない者が蔑まれるというぼくらが内面化した見方、価値観には、何も根拠がないということです。そう、根拠がない。』

マジョリティは、マイノリティの声に耳を傾ける責任がある、と木村さんは何度も書く。
声を上げ続ける必要がある人々のために、マジョリティもまたその苦しみを共有し、現実から目を背けてはいけないのだ。

高橋源一郎さんのことばを借りるなら、『誰かの自由を犠牲にして、自分たちだけが自由になることはできない。』


国籍も、性別も違う両者のあいだに、大きく横たわる“溝”。その溝はどのようにしたら埋まるのか。本書の中盤、覚悟を決めた温さんからの手紙を、最後に引用したい。

『木村さんにとっての私が、自分の“外部”に存在する“他者”であるように、私にとっての木村さんもまた、自分とはべつの立場をもってこの社会に生きている“他者”です。白状すれば、その意識をもって木村さんとむきあう覚悟が私には少々足りなかったのかもしれません。これまでの私はどちらかといえば、“同志”としての痛みや悲しみ、とりわけ怒りをわかちあえる仲間として、木村さんに同意や共感ばかりを求めていた気がします。
けれども私ももっと、木村さんと自分は“ちがう”のだということを意識したうえで木村さんとむきあったほうが、より精密に自分たちの視点を交差させることができるのではないか、とようやく思い至りました。いや、“ちがう”ことを意識しない限り、視点を交差させることなど不可能だと気づかされたといったほうがより正確でしょうか。』

決して交わることのない、決定的な“ちがい”。
国籍も性別も違う両者のあいだに大きく横たわる溝は、容易く埋められるものではない。
けなし合うのではなく、受け入れる。他者を、赦す。
そこにあるのは否定ではなく、肯定である。

差別・排除・分断…NOから始まる“ヘイト的思想”がいま世界中に広がっている。
NOからは何も生まれない。そこに真の“生産性”はない。
まっとうな社会を取り戻すために。世界に、想像力と敬意と信頼を。
素晴らしい本だった。

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