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とりとめのないこと2023/01/20

 僕は石原の目を掠めるように、女の顔と岡田の顔とを見較べた。いつも薄紅ににおっている岡田の顔は、確に一入赤く染まった。そして彼は偶然帽を動かすらしく粧って、帽の庇に手を掛けた。女の顔は石のように凝っていた。そして美しくみはった目の底には、無限の残惜しさが含まれているようであった。
森鴎外 『雁』

奥ゆかしい女、恋するお玉の岡田との最後のとき。

こうした「慎ましさ、奥ゆかしさ」を感じる情景や心情、人柄の描写が、いまの文学には、皆無かもしれない。

儚い=散りぬる桜の淡い花びら、あるいは銀杏や紅葉の落ち葉、葉のすっかり落ちた木々から芽吹く準備をする固く小さな蕾、深く静かな雪の夜。

こういうのが好きだけれど、現代文学だと

儚い=《虚》

となって、起承転結がくっきりとして、極端な描写しかない。あるいは、非常に表面的な感傷。そして、各々の登場人物たちの外見や仕草のみが異様に細かく描かれている。

読み手に海や森、草原、花、季節の空気や匂いから心情を推し量らせるといった「奥ゆかしい余白が無い。
そして、背筋をしゃんと伸ばして読みたいと思う文学が見当たらない。
非常に消耗的なものしか見当たらなくなり、こうした芸術の質は保たれなくなってしまうのではないだろうか。

また、戦後、GHQの「指導」のもとでかな遣いや漢字を簡略化したのも如何なものかと思う。
かな使いや漢字の視覚的な効果というのは読む際に効果絶大だと思うのは僕だけだろうか。

映像と音声によって短時間で解が得られないと《無価値》なものにすら変わりかねない流れがあまり好きになれない。「想像力の弱体化」を礼讃しているようにすら見えてしまう。
逆に言えば、最近の現代文学で海外でも翻訳されるようなものは、起承転結がくっきりしており、《キャラクター》のあらゆるものが映像化しやすいのだろうか。
オーディブル向けなのかなとすら思えてくる作家さんたちも僕の中には何人かいる。
彼らは現代社会で問題に上げなければならない事柄をしっかりと提示もしており、否定ばかりな目線ではない。
けれども、やはり、郷愁や五感に訴える文体から仄かな愛を感じ取ったりといった緩やかさが僕には感じ取れず、文章の音の響きや手触りが無味乾燥的なのだ。

ところで、文章の音の響きや手触りといえば、個人的には、耳に訴えかけてくる泉鏡花があげられる。
泉鏡花は漢字に強いこだわりがあって僕はとても好きな作家だ。
しかしながら、最近では、鏡花の文章を現代語に訳して普及しようとされていたりもする。
これは鏡花への冒涜のようにすら思えてならない。
けれども、紫式部などのほんとうの古語を読めるか?となると難しく、僕は瀬戸内寂聴さんの現代語訳で読んでいた。

時代によって、言葉が変わるのはしかたがないことだろう。日本語はそのスピードが他の言語よりも圧倒的に速いように思う。
明治維新や終戦後の伝統や文化への姿勢により「お上」から「こうだ」となると、古いものを新しいものでなきが如くに上書きしていったように思う。いまの風景は、刹那的に見えることが多い。むかしとあらゆるものが無機質で消耗的ないまとでは、時間の流れる速さが違い、実利主義が当たり前の思考とされ、ちいさな優しさが踏みつけられていくのだろうか。
そんなのはいやだなぁ、と思えども、僕もその一端を握っている現代人に他ならない。

散りぬとも香をだにのこせ梅の花恋しきときの思い出にせむ
古今集

古今集のこの和歌を詠んだ無名の歌人の日本の風景を僕は感じたい。

さて、雁の話に戻そう。
全集で読んだり近代文学名著復刻版でよんだりした。ケースにきちんと入れられて、きちんと装丁された本こそが「本」だと思わされる。
とりわけ雁の装丁は美しく、ケースから取り出すと背筋をしゃんとして読まねば、と思わずにいられない。そうした装丁に見合う鴎外のしっかりとした文体と余白の多さは彼の文章を普遍にしてもいる。
史伝も全集にあるが、須賀敦子さんではないけれども、僕が読む日はくるのだろうか。

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