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スプートニクの恋人

はじめに

小説は時々静寂/沈黙-余白の中で「虚構と現実の境界がいかに曖昧であるか」という世界の深淵を提示する。それが哲学には成し得ず小説にこそ成し得ることだ─と僕は考える。

このことについてはイタリア人作家、アントニオ・タブッキが『供述によるとペレイラは……』で作品の中で訴えてもいる。

僕は久しぶりに村上春樹の作品『スプートニクの恋人』を再読した。

スプートニクとは周知のとおり、旧ソ連が打ち上げた人工衛星スプートニクである。

『レキシントンの幽霊』、『アンダーグラウンド』を刊行後、本作品は1999年に刊行された。

本作品の感想を論じる前に『アンダーグラウンド』の性質を述べておかねばならない。

社会的問題となった、オウム真理教の地下鉄サリン事件被害者を村上春樹は丹念に聞き込み、1990年代の若者たちの実存と社会風潮を浮き彫りにしようとノンフィクションに挑んだ。

このノンフィクションはノンフィクション界隈でかなり批判されたようだが、それはさておき、『アンダーグラウンド』刊行前後で春樹は変わった。

少なくとも、僕はそう思っている。

僕の好きな筋トレを村上春樹で語るハルキスト、西インドを旅する友人筋沢さんの投稿にコメントをした。すると、彼は素敵な、そしてとてつもなく僕の心に響く、返信をしてくださった。

「宗教は人間、神秘性は自然」

僕は彼のこの表現を、ある種真理に近い、とその時感じた。

人間というのは非常に繊細で脆い。自然は儚いけれども、強く、そして、自立しており、環境に馴染もうとし、共生をめざすと言っても過言ではない。
二項対立的だが、人間も本来はそのようにして生きていたはずだ。

しかしながら、産業革命以降、そして、インターネットの普及以降、世界は繋がりすぎて、互いにどうしようもない不条理を暴力的に埋めようともしてきた。

繋がりすぎる前、ゲーテやカントらが生きていた時代に「不条理」という概念がはたしてあっただろうか?

僕はいささか疑問である。

『スプートニクの恋人』で村上春樹は不条理の象徴のひとつ「恋」を素材にし、『アンダーグラウンド』を経て「人間にとって神とは何なのか」をもしかしたら、ひとつの疑問として作品中に提示しているかもしれない。

僕は人間が事象を観測するときのひとつの観測視点、神≒二項対立的な事物をフラットに観る視点、について着眼して読んでみた。

観測者

人工衛星スプートニクの中から地球を観る犬を観る誰か。
あちら側のすみれとミュウからこちら側のすみれとミュウを観る誰か。
あちら側の僕とすみれとミュウを観るこちら側の僕とにんじん───あちら側とこちら側をフラットに観るとき、観測者はそれぞれのズレを感じ取るかもしれない。

「すみれ」の名の由来を語り手はモーツァルトの歌曲「すみれ」(ゲーテ詩)からだと言う。

牧草地に咲く一本のすみれ
ひっそりと誰にも知られず
可愛いすみれ
そこへ若い羊飼いの少女が
軽やかな足どりで元気よく
歌いながら近づいてくる
ああ すみれは思った
もしも自分がこの世で一番美しい花だったら
ああ ほんのわずかな間だけでも
あの少女に摘み取られ 抱きしめてもらえる
ああ ほんの15分だけでも
ああ それなのに ああ!
やってきた少女は
すみれに気が付かず
哀れなスミレを踏みつぶしてしまった

すみれは力尽きたが 
本望だった
あの人に踏まれて死ねるのだから!
※モーツァルトは更に以下2行を追加
哀れなすみれ
可愛いすみれ
『すみれ』ゲーテ

理不尽な事を受け止めるゲーテのすみれと春樹のすみれ。

物語は「僕」視点、「すみれ」視点、そして三人称的なすみれ視点、最後に「僕」視点と帰着しながら進んでいく。

太陽系第3惑星において《絶対》的な観測は常に《相対》的だ。

宗教では超越者、つまり《神》と呼ばれる者の視点が《絶対》的観測者の視点かもしれない。
例えば、キリスト教なら《主》、イスラム教なら《アラー》などなど。

神話なら《太陽》とか。

「そうした超越論的なものは考えてもしょうがない」
これはカントが言っていたことだから僕よりは信憑性はあるだろう。

書き上げられてしまったあとの物語の中での《絶対》的観測者は誰か?
僕は読者それぞれが該当すると思う。
作家はエクリチュールを羽ばたかせるだけで、羽ばたくことのできたエクリチュールは、もう誰のものでもない。

読んでいる間だけ、読者それぞれの持つ柔らかい世界の中でエクリチュールは羽を休めて息をする。

「僕」は「すみれ」と「ミュウ」を創り出し、「すみれ」のエクリチュールとして彼女たちの輪郭を形造った。

「僕」の抱く不条理を「ギリシャ」という想像内の領土で概念化し、「立川」という領土でその表象を再現前化し、「にんじん」を─語ること─通して再認識したのかもしれない。

塞がらない傷≒喪失などを癒したいときは誰にでもこうしたことは起こりうる。

簡単に言うと、自己の内省とも言うかもしれない。

超越的観測者の視点があったら心を整理出来るのかもしれないし、出来ないかもしれない。

ホモ・サピエンスにはわからない。

恋人─偶発的事象を共有する共犯者たち

時々、僕の見上げる空すべてを包含する世界というのは誰かによってじっと観測されていて、僕らはアリンコみたいなものなのかも知れない、と思うときがある。

僕には僕なりに色んなことがあった。
彼女にも彼女なりに色んなことがあった。

アリンコみたいな世界の中で起こりうる事象は全てただの偶発的事象でしかない。

そんなアリンコみたいな僕と彼女が一緒になったのはひとまとまりの偶然を共有し、それらの生み出すズレ≒不条理が恋と呼ばれていつの間にか愛になっていた。

とにかくあらゆることはただの「偶発的事象」でしかない。

時の覇権主義の権利者たちや恐怖で何かを支配しようとする誰か。

彼らは生まれるべきして─必然的に─生まれたわけではない。偶然ある日、男と女が出会って子宮で細胞分裂して産道から出てきた。

誰かと共有したひとまとまりの偶然=運命と呼ばれたり、必然と呼ばれたりするもの。

これらが、他のひとまとまりの偶然と軋轢を生むこと≒不条理とも言えるかもしれない。

つまり、僕がこれらを踏まえて何を言いたいのか。

虚構を再現する夢、不在を埋める、不条理に抗う

ぼくは夢を見る。どきどきぼくにはそれがただひとつの正しい行為であるように思える。夢を見ること、夢の世界に生きること ― すみれが書いていたように。でもそれは長くはつづかない。いつか覚醒がぼくをとらえる。
『スプートニクの恋人』 村上春樹 講談社 p305

僕らは相対的にしかあらゆる事象を観測する視点しか持たず、不条理を避けて生きることは残念ながら、僕の短い経験上では、不可能に近い。

不条理がその時の倫理観で善ならば、恋だとか、英雄だとか革命だとかプラスな概念としてラベリングするし、その倫理観で悪ならマイナスな概念としてラベリングする。

僕と彼女は偶然を共有する共犯者、恋人、夫婦。

共犯者は神秘性の高い次元にあり、互いにすべてを分かち合うわけでは決してない。ある意味では、共犯者と成りきれなかった「僕」と「すみれ」は夢を虚構の領土のどこかで共有していたからなのかもしれない。

哀れな「すみれ」、哀れな「ミュウ」、哀れな「僕」
包括するどこか別次元な視点のような「にんじん」

それぞれの「不在」

孤独。
哀れなのだろうか。
「僕」は多分、《僕》と対峙するために孤独が必要だったんだろう。

共犯者であれ、全く無関係な他者であれ、個々の夢を共有することは不可能で神秘的な事だった。

ホモ・サピエンスにおける夢とは、ある種、不条理に抗うための苦肉の策かもしれない。

夢を観測するのはいわゆる《超越者》あるいは《神》と呼ばれる者だと僕らは思っていた。
最先端技術によって、おかしなゴーグルを付ける事なくそれらを覗き見ることや擬似的体験をすることも可能かもしれない。

ありとあらゆる偶発的事象は全て共有することが可能となり、差別も個体差も無くなるだろう。
いずれAIによって全ての思考は無駄なく《均一》化されたあるひとつのベクトルだけを目指し、《全員》が同じような倫理観を持ち《善》の世界だけを享受し合い、《欲望》は完全にAIによってコントロールされる日が来るかもしれない。アリンコの僕と彼女のような《共犯者》たちはいつか消える。

《平和》と《正義》の意味付けがひとつになっていよいよ《愛》の軌道はスプートニクを超えて月を超えて太陽系を逸脱し静寂に帰す。

ホモ・サピエンスがかつて《神》と呼んだもの────神秘性がすり減る、自然が失われていく現代社会。

不条理に抗う、希望

僕はここで考えるのをやめた。
愛は温かく優しく流れる血であって欲しい。
人間は自分の遺伝子を持つ小さなひとができると、自分のことよりも、そのひとの未来が理想的な世界であることを願い、自分のことよりも一生懸命になってしまう時もある。
それはきっと愛の記号であり象徴でもある「希望」と呼ばれるものかもしれない。
年がら年中、形而上学的なことを考えているわけではない。

おわりに

目の前の現実を直視して不条理を生きざるを得ないのが「今」の僕である。

形而上学の歴史は、絶対的な<自分が語るのを-聞き-たい>ということである。
『声と現象』J.デリダ

不条理と対峙するとき、ひとはエクリチュールとして言葉を羽ばたかせようとするのかもしれない。
個々の不条理から国家間の不条理、ありとあらゆる繋がりすぎたこの世界での不条理が、暴力ではなく、本来ならばそうやって言葉としては羽ばたくことができたらどんなにか素敵なことだろうか。

不条理に抗いながらも希望を抱くことが博愛の中で誰にでも公平にできる時、すみれの花の愛≒歴史の中で流れた血が報われる、と僕はぼんやりと考えている。

村上春樹はこの『スプートニクの恋人』を刊行したのち、不条理を井戸の底から照射し続け、『海辺のカフカ』を書き上げたように僕は思えてくる。

いずれにせよ、自然に立ち返ること。
「僕」がせせこましい日本から「ギリシャ」へ井戸掘りしに行くのは、そのためだったのかもしれない。そして、哲学でも小説でも成し得ない事、文章では伝えきれない静寂/沈黙-余白はゲーテやリルケのような詩人に任せれば良い。

タブッキのような不在と曖昧な境界文学作品に思えた。

旅したいなぁ。
手元に2冊あるのは、なぜだろう。

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