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とるにたらないこと2022/12/10 恋愛論①

博愛主義者

宗教は人間の歴史において、形而上学的事件のひとつだろう。

博愛、それは人間が宗教を生み出したときに付随されたものかもしれない。
私はカトリック教徒でもあり、宗教なくして愛は語れない、と考える。
また、愛というのは語るのではなく、信仰と同義とも思う。

それゆえに、これは愛を語るのではなく、私の業を語るに近いかもしれない。

私はいくつかの恋愛論を持つ。
そのひとつは非常に辛辣なもので、独我論的だ。

しかしながら、私は信仰を持つため、その規範から外れることはない。
私は弱く罪深いと認識もしている。

それを踏まえて敢えて恋愛論を考えてみるとしたら、いくつか思い浮かんだ。

この投稿はそのひとつでしかない。

生物学的見解は残酷だが、年齢によって子孫繁栄のための他者へのアピールは衰えてゆく。

若ければアピール強度は高く、老いていれば低い。

年齢とともに、肌のみずみずしさが損なわれるのはホルモン分泌や様々な生の機能が衰えていくからでもある。生殖活動期間を過ぎたあたりでそうなっていくことは自然の摂理だと考える。
そしてその制限があるからこその種の繁栄だとも考える。

子孫繁栄のためのアピールができなければ、自然界では淘汰されてもいく。

私の恋愛論はそこに依拠する。

それとは別に、一応、文明人の私は、倫理と信仰を持つため、それを凌駕する愛論がある。

子孫繁栄のためには、いずれも必要ない。

ただ、ひたすらに、みずみずしさと匂いたつエロスを追求できればそれで良く、私はそこにあらゆる差異を持ち込みたくない。

言い換えれば、互いにエロスを享受しあえるかどうか(互いに互いの美に共鳴しあえるかどうか)、同性であろうがなかろうが、私の子孫を私との性交で残せるかどうか。
そして残せたかどうかは、結果論でしかなく、どうでもよい。
仮に残せたとしたら、私は私と性交した対象と子孫に全てを捧げたい。
そこには老若男女民族動植物のあらゆる差異は無関係なのだ。

エロスを滲ませなくなるほどにカサついていたくない。
生物的に淘汰されるのを早めてしまう気がするから。
エロスは生への賛歌そのものであり、そこが潤いの場でなければ私はエロティシズムを感じられない。

私は文明人の端くれだから、人為的不条理や自然界の掟・淘汰=暴力に徹底的に抗おうとし、何者でもないことを思い知らされる。

それが良いのか悪いのか考えたこともなければ、愛の質を加味したこともない。

偶然にも私は今の妻をパートナーとして、自然界の掟に抗うために信仰心を持つため、彼女以外とのいわゆる恋愛をもう考えない。

信仰とはヒトを縛り、自然でなくし、博愛を見出すものかもしれない。

信仰なきひとはそれぞれにそうした倫理規範が別の形であるのだろう。
けれども、私には、そうした規範は非常に日和見的に映るときがある。

人為的不条理による流血は人間の生み出した「宗教」、すなわち、博愛によって止めることも可能だと思いたい。

自然界の掟による流血は、私の範疇ではない。
それは主がお決めになり、私はそれを受け入れるだけだ。

愛について語るとき、信仰を考える。
上辺だけでなく、苦境にたつものに寄り添える力を兼ね備えていなければ語ることは虚に帰すとも思う。
寄り添う力こそがどのような信仰であれ求められる。

恋愛について

スタンダールが好きだけれと、恋愛論の4パターンで《情熱的恋愛》こそがホンモノだみたいなことを言っていた気がする。
情熱的恋愛
趣味的恋愛
肉体的恋愛
虚栄的恋愛

私は4パターンともホンモノだろうし虚でもあると考える。
恋愛の対象が常に女である必要もない。

前述したとおり、私は《恋愛》なら相手が生物学的に子孫繁栄のための肉体的アピール力が私の嗜好にマッチしていることが大前提である。
その対象から外れる存在者に対して愛が溢れたら分けてもあげる。
純粋に愛するということに近い。
それは何も恋愛対象だけに限定されない。

純粋に愛することは、隔たりへの同意である。
自分の愛する者との間にある隔たりを何より尊重することだ。
『重力と恩寵』 シモーヌ・ヴェイユ

なんのはなしですか

スタンダールのクダリからは読み返してみると、クソほどどうでもいいことと言えばどうでも良い気がする。
普段そんなことを考えない。
考えたこともない。
これまで可愛いなーと思えるひとと出会えた回数なんてたかが知れてる。

これから先のことなんて誰にもわからない。
私はつまるところただのホモ・サピエンスだからこそ、倫理規範が私は必要ですってだけかもしれない。

そもそも、年齢と状況による
年齢が合っていて可愛くてエロかったら恋愛の対象になる可能性もある。
いずれでもなければ全く対象にならないかもしれない。

既婚者なら律するべきで私は不倫に関しては不寛容である。
勘違いの元になるから男女の友情というのも不寛容だ。
「男女の友情が〜」というのは懐疑的だ。
勘違いをさせるリスクを考慮していないと思うためである。
「その配慮がお互いにできたとして」なんてのは論外で甘い。
しかしながら例外もある。
一旦付き合って、別れた相手や性愛的魅力が互いに感じないなら友人になれる。
これはあくまでも「私の場合」である。

年齢と容姿と置かれた状況は重要なファクターである。
特に、年齢と容姿、これは、あくまで、生物学的子孫繁栄のための遺伝子🧬に組み込まれているのだから抗えない。
ただそれだけのことだろう。

生物として、経年による生へのエネルギーが衰退していくのは当たり前であり、そのエネルギー量が多ければ惹かれるし、少なければ惹かれない。
これは性差ではなく、ヒトとしての総体的エネルギー量=生命力と情熱の総和だ。
エネルギー量が少ない場合には惹かれない。
エネルギー量が多ければ惹かれる。
情熱がなければいわゆる性愛の対象へとは発展しない。
これが経年変化するのは誰しも避けて通れない。

そうしたことはあくまで、「私の場合には」であり、個人個人違うだろう。

なんのはなしですか

え、それだけかよ、みたいなとこがあるけど、そうなのだ。
この種の話題は、博愛について考えられないなら、愛について考えたところで、私の業しか露呈しないから私には1ミリもいい事がない😔
しかしながら、博愛について考えるなら、考えることの価値が大きく変わる。

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