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最終章の向こう側 第一話

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 麦わら帽子を被った柔らかそうな表情をした少女の油絵。しばらく僕はリビングに飾ってある絵を眺めていた。僕も妻のシモーヌ仮称もその絵を気に入っていた。絵は偶然、シモーヌが知り合った川嶋さんから譲り受けたものだった。川嶋さんは新鋭の日本画家で辻堂にアトリエを構えていた。そのアトリエでは古本屋も併設していたが、昨年、亡くなられた。譲り受けた絵は川嶋さんの描いたものではなく、川嶋さんの知人の画家が描いたものらしい。作者の名前を僕は気にしたことがない。その絵の光彩のタッチが少女の特徴を浮かび上がらせているように思えた。僕は少女の明るさと同時に少女の中に存在するどこか不安定さ、思春期特有の危うさを感じ、時々、その絵の少女自身のことを考えたりした。



 絵の向かい側に出窓があり、そこにおかれた濁った金魚鉢の中では尾腐れ病の金魚が泳ぐ。金魚も金魚鉢ごとシモーヌが川嶋さんから譲ってもらった。出窓の外側には傷だらけのナイチンゲールが佇む。金魚とナイチンゲールは恋をしているから、ナイチンゲールが毎晩逢いにやってくる。月が登るとやってきて、太陽が登ると激痛からの悲鳴のような鳴き声をあげて飛び立つ。僕にしか聞こえない叫びが静かに朝を告げる。真夜中の間中、絵の中の少女は、ナイチンゲールと金魚を包んであちら側の世界線へ連れて行ってあげた。そこなら2人は思う存分にお互いを確かめ合える。



 僕は、真夏の昼の高層ビルのエレベーターの中にいた。そのままどこにも辿り着けない気がした。25階で止まった時も僕はずっと金魚とナイチンゲールと絵のことを考えていて、危うく降り損ねるところだった。ドアが締まりかけて、慌てて外に出た。そこには廊下が真っ直ぐに伸びる乾いた冷房の空気の中、全て白で統一された世界が広がっていた。壁も、四つほどの会議室のドアも、天井も床も、誰もいないカウンターの向こう側も白だった。10年前、17歳のとき、2ヶ月居た閉鎖病棟を思い起こさせた。誰もいないカウンターで、僕は彼女を待った。
「こんにちは、山下さんですよね?」
後ろで女の人の声がして振り向くと、品の良さそうな白のワンピースを着た年齢不詳の女性が僕に微笑んでくれている。
「あ、こんにちは。ぼんやりしてました。あまりにも白くて」
「初めて来られる方は皆さんそう仰ります」
女性の声は彼女の中から分離してどこか遠い国のラジオみたいに聞こえた。
ハジメテ コラレルカタハ ミナサン ソウオッシャリマス
「どうかされました?さっそくパーティションを造作していただきたい部屋へご案内させて頂いてよろしいでしょうか?」

 途方もなく長い廊下を歩いた。コツコツというヒールの音だけが響いていた。廊下の突き当たりの大きな観音開きの白いドアの前で立ち止まった。女性は1週間ほど前に工務店に電話をしてきた宮本さん本人だった。宮本さんは手短に説明し始めた。
 油絵画家であること、両親の遺産でこのビルを受け継いだこと。偶然、目にした湘南の家づくりという雑誌で僕の古民家からテナントまでリフォームを手がけている記事を読んだこと、工期のこと、注意事項など話はじめていた。横浜のビルのワンフロア改築のために、湘南の僕の工務店にわざわざ電話してくるなんて、何かしらの事情があるのか、たまたまなのか、少し気になっていた。20階から25階まで借り上げているとのこと、改築フロアは画廊にする予定であること、朝は10時から作業して欲しいこと、夜は5時には片付けてさっき乗ってきた業務用エレベーターで帰って欲しいこと、何かあったら遠慮なく受付カウンターで呼び鈴を鳴らして欲しいこと、工期は明日から九月一杯までにできるか見てほしいということ。

「えーっと、パーティション設置だけですよね?1ヶ月もかからんと思いますけど」
「少し込み入った事情がありまして、この仕事で山下さんを拘束してしまいますし、金額はそれなりにお支払い致します」
宮本さんの提示した額は破格の額だった。
「変な事件の後始末とかじゃないですよね?」
「いえ、違います。御心配なさらず。あのね……、辻堂の元古本屋のリフォームがとても素敵でした。こんな感性の方ならきっと素敵なものにしてくれると思ってお電話させていただきました。ですから、空間を表現する場として山下さんの感性を大事に全てお任せいたしますし、それなりにお支払いいたします」
「あ、はぁ……。」
芸術とは程遠い生活をしている僕にはよく飲み込めなかった。

 改装工事をしたいという部屋は、だだっ広い何も置かれていない白い空間が広がっていた。窓の向こうにはみなとみらいの観覧車が見える。
「この部屋全体に絵を飾れるパーティションをいくつか設置したいのと、できれば部屋の隅に和の空間が欲しいんです。窓際で六畳分くらいの。今日はそのために見てもらうだけで構わないので」
「なら、少し見させてもらいますね」
僕がそう言うと、宮本さんは、帰り際にカウンターに寄るようにと言い残し、部屋を出て行った。宮本さんの仕草や顔立ちがあまりにも儚気で品のある様子とこのフロアの白全体が、思春期病棟という閉鎖病棟を思い出させた。

 17歳のとき、突然、神戸で仕事中にパニックになった。冗談かのように、僕は誰とも話せなくなった。誰かに追いかけられる、監視されているだとかそんな妄想に取り憑かれて、塞ぎ込んでいった。気付いた時には明石のとある病院の閉鎖病棟にいた。僕は独房に近い個室に閉じ込められ、1日のうち昼飯のときだけ団欒室に行くことが許された。ある日、団欒室でテレビを見ながら食事していると、薄茶色の長いサラサラした髪の女の子が話しかけてきた。
「名前、なんていうの?」
「サルトル仮称」
「山下サルトル仮称?変な名前。わたし藤田カオル、カオルンて呼ばれてる」
カオルンはそう言って、僕の目をじっと見ながら僕の絵を描いてくれると言ってきた。誰かと話すのは半年ぶりくらいで、今思えば僕は何となくその日から妄想が途切れ途切れになってくれた気がする。当時付き合っていたカナちゃんもお見舞いに来てくれていた。
次の日から毎日午前中、カオルンは僕を団欒室に呼び出し、椅子に座らせ白いキャンバスに焦げ茶色のコンテでデッサンを開始した。
カオルンに真剣に注意深く僕は観察された。僕の目、口元、鼻筋を「描きやすい形だ」、とカオルンは褒めてくれた。
集中して僕を描くカオルンの顔はどことなく儚気だった。
「カオルンは学校いかんの?」
「え?わたし20歳やよ。サルトルは?」
「俺、17、夜間通ってて昼は大工見習いしてる。クビになるかもだけど。入院したし」
「クビにはならないんじゃないかな?」
カオルンのおかげなのか、毎日規則正しく午前中じっと窓の外を見ていたら、次第にパニックな僕は消えていった。モコちゃんという左腕に凄まじい自傷痕のある女の子、サキちゃんという、いつも団欒室のゴミ箱に蹴りを入れるレイプされて鬱になった女の子やカナヤンという仕事で鬱になった男の子とも知り合った。カナヤンは僕にいつも真面目になりすぎると良くないから、と言っていた。彼は知り合って1週間後に病棟のトイレで首を吊って死んだ。ほとんどが思春期の少年少女たちだった。彼らの話はいつかまた別の時に話す。とにかくみんな人一倍傷つきやすく優しかった。
 カオルンの言う通り、2ヶ月後、クビにならず、前と同じように仕事も高校も通うことになった。カオルンの描いてくれた絵が完成したのかわからないまま退院し、僕らはそれから数年会うこともなかった。もっとも、退院前に主治医からは、病棟で知り合った人間関係はあまり考えないように、と言われてもいた。その間に僕はカナちゃんにもフラれた。偶然、神戸でカオルンと再会した。カオルンはひとりではなくて、まだ一歳にもならない空くんという息子を抱いていた。未婚のまま出産し、ひとりで育てているらしい。ある日、託児所に空くんを預け、僕らは映画館で「君の名は。」を観た。帰り際にカオルンが、僕を見つめて、絵が完成したら未来で見せてあげるから、と不思議なことを言ったのを覚えている。数ヶ月後、真夜中にカオルンから何度か着信があった。翌日掛け直したが繋がらず、僕は、そのままカオルンのことを思い出さなかった。風の便りでその後、カオルンが空から地面に飛び降りたことを知った。空くんは空くんの父親に引き取られたらしい。描いてくれた僕の絵もどうなったのか二度と知ることは出来なくなってしまった。

「山下さん、今週末までに簡単な設計図というか、平面図のようなものできそうですか?」
宮本さんが僕の白の思い出を蜃気楼の向こう側に追い出し、僕をこちら側に戻した。
「多分できると思います。宮本さんの絵を飾られるんです?」
「わたしの絵の時もありますでしょうし、娘の絵の時もあるでしょうね。まだはっきりとは決めておりませんが」
「娘さんも絵を描かれてるんですか。芸術一家っていいっすね。僕にも絵を描く知人がいたんですけど昔。画家さんとかではないです。何故か思い出していました。何かのご縁かも知れませんね。図面引いて、来週月曜日にお伺いいたします」

 GーSHOCKに目をやると、既に夕方5時を回っている。
窓一面に夏のオレンジが広がり、暗くなった白の空間で僕と宮本さんの影が伸びていた。

 夕暮れの中、ビルの外へ出た。アスファルトには夏の残骸のようなセミが所々に落ちていた。

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