『〈個〉の誕生』 坂口ふみ
この投稿全体の概要
昨今の時事ニュース、紛争や戦争のみならず、僕自身含めて現代において、個の尊厳、自己含めてひととの愛に対して希薄になっていないか?
疑問に思うことが増えたように思う。
ひとが人力では決して集めきれないようなビッグデータのマイニング、それらをAIやDXに活かすことよって、ありとあらゆることがコンピュータによってシステム化され、《個》を求めなくなってきてもいたり、一部の社会風潮が「あたりまえ」とされたり、カテゴライズの細分化が進む一方で全体的な均一化を求められていたり。
もう一度、《個》について立ち返ってみたい。
これはそんな僕の拙いとりとめのない想いと坂口ふみさんの本を家族と読んだ感想である。
はじめに
これはカトリック祈祷書 祈りの友の扉ページに寄せられているイザヤ書の言葉である。
お祈りのときに、いつも
「天にまします、われらの父よ、中略、父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」
とする。
もとはウーシアという位格の実体を表すギリシア語が抽象的で明確な存在概念(ヒュポスタシス:基体、アリストテレスが発展させ、のちにカルケドン公会議でピュシスとの差異について論争となる)と神学的概念(ペルソナ:ヒュポスタシスのラテン語だが、ロゴスの受肉)というふたつの性質を持つようになり、
・ウーシア 神の実体
・ヒュポスタシス 神の位格 ギリシア語
・ペルソナ 神の位格 ラテン語
という三つの概念を表す言葉について西方と東方教会で議論されるようになった。
※三位一体については後述のカトリックにおける三位一体をご覧ください。ローマ・カトリック教会と東方正教会で異なります。そのほか異端的な団体については知り得ません。また、信徒では最も大事な教義でありながら最も難しい三位一体。
以下がわかりやすい説明に思う為引用させていただきますが、後述の教皇さまの信仰宣言と合わせてご覧ください。
カトリックの信仰宣言から
神の民の信仰宣言(カトリック祈祷書「祈りの友」)では
唯一の神
愛の神
三位一体
救い主イエズス・キリスト
聖霊
聖母マリア
原罪
聖体・ミサ聖祭
神の国
永遠の生命
聖徒の交わり
これらが、第2バチカン公会議を反映して、1968年6月30日
教皇パウロ6世さまによってカトリックでは宣言されている。
カトリックの長い歴史の中でのキリスト教義について、僕は僅かにしか知らなかった。また、分離した正教会の教義やそのいきさつの詳細などもあまり知らなかった。
ただただ、近づけない光の中に住む神は、有りて有るもので愛そのものであり、地上では信仰という暗さのうちに、死後には永遠の光のうちになされる、という、愛の神を僕は信じている。
信徒でなければ三位一体についてあまり知らないところであろう。
カトリックにおける三位一体
救い主イエズス・キリスト
キリスト教義論争と存在論
さて、話はすこしカトリック祈祷書から離れる。
僕はこの2週間ほど、家族と少しずつ、坂口ふみさんの『〈個〉の誕生』という本を読んでいた。
信徒でなくとも、東西ヨーロッパとその周縁各国の歴史や文化、ひいては文学を知る上でも、キリスト教がそれらの背景に横たわる以上、宗教を知るというのは、とても有意義であるとも思う。
周知のとおり、キリスト教にはいくつか宗派があり、
ローマ・カトリック教会を母体とするカトリック、ルターら宗教改革以降分派したプロテスタントなどと、そしてロシア正教会やギリシア正教会などの正教会などがある。
四つの公会議
もとはひとつのキリスト教であったが、西暦4世紀おわり~6世紀ごろにかけて、キリスト教義を確立させるためのいくつかの公会議の流れのなかで、ローマ・カトリックと正教会に分かれていった。本書では四つの公会議にフォーカスをしている。合理的ラテン思想とギリシャ系の本性をペルソナの内容として捉えるヒュポスタシスとにピュシス(本性)がいくつか分かれていったりしたことからも考え方の違いあるいは翻訳違いからなのか、フィリオクェ問題(父、子の序列に関する議論1054年)として上がり、東西に教会が分裂した所以でもあろう。
キリスト教義のなかで、とくにこの4世紀~6世紀の公会議で議題とされたのが、前述の三位一体とイエス様のペルソナ(位格)についての単性/両性説(神性か人性か)についてなどであろう。
イエス・キリストは人なのか神なのか?
2000年近く論争するこのプロセスの中で、キリスト教義論争はイエスさまの、存在論的な、個の構造を確立させようとし、西欧思想の存在論、思想哲学─文化にいたるまで、ありとあらゆる影響を与えた。
ビザンツ的構造とヒュポスタシス=ペルソナ
4世紀おわり~6世紀というと、ローマ帝国の衰退と初期ビザンツ帝国がヨーロッパを支配していた時期でもある。
さまざまな民族の争いのなかで、「皇帝の宗教」や「神に選ばれし皇帝」とすることで政治と宗教が強く互いに利用し合っていたのは想像に難くない。
皇帝が洗礼を受けたりしているフレスコ画がのこされているのは見たことがあるのではないだろうか?
こうした構造を社会学者ベックさんは「ビザンツ的構造」(≒政治化されたオルトドクシー (ベック1974年講演にて))と名付け、ソ連支配においてもこの「ビザンツ的構造」が見受けられていた、としている。
これはかなりネガティブな表現方法での名づけでもある。
これに対して、本書の著者である坂口ふみさんは、かなりフラットな視線で、この時期のいくつかの公会議で議論された三位一体とペルソナについてつぶさによく調べられて丁寧に書かれている。
そして、そのフラットな視線からなのか、東西教会を配慮してくれているからなのか、イエスさまの両性説に立脚するペルソナを「ヒュポスタシス=ペルソナ」と呼んでもいる。
四つの極めて重要な公会議以来、三位一体論から、イエスさまのペルソナ構造までを考え抜き、ヒュポスタシス=ペルソナとしたキリスト教的存在論がのちの西洋の存在論へと繋がってゆく。
ビザンツ・インパクト
本書に描かれている初期ビザンツ帝国とキリスト教義論争のことから、イエスさまの個、ペルソナ構造を議題にするということは、意識的に個のなかの〈個〉を当時の大思想家たちが、ありとあらゆる英知を結集して、考えぬき、既存の思想や文化を乗り越え、〈個〉の概念を初めて真剣に考え、ひとつの捉え方として定着させようとした血と汗と涙の結晶のようにも思えた。
とくに、個への関心のネオプラトニズムと個への愛のキリスト教義へと変化していったことは大きい。
これはキリスト教の信仰の有無によらず、著者の言うとおり、既存の考え方にたいしてアンチテーゼとして何かを勇気をもって打ち立てていくときの確かに支えになりうる歴史が残した大きな業績であり、初期ビザンツでのキリスト教義論争はのちのヨーロッパの文明に多大な影響を及ぼしていると言えよう。
この影響のことを坂口ふみさんは「ビザンツ・インパクト」と名付けた。彼女の名付けたものに彼女自身が讃歌していることは、歴史に敬意を払っている哲学者の方であることを垣間見れた。
おわりに
赦しについて
良書であった。信徒でないと、三位一体や位格についてもしかしたらわかりにくいかもしれないとは思った。そしてそれも含めて、キリスト教義を語る上で、聖書に立ち戻っての言及に欠けている点が気になった。
隣人愛や三位一体などもちろん大事なキリスト教の教義だが、僕は個人的にゆるしの秘跡(告解)についても言及してほしかった。
何故かというと、ひとというのは愛されたい、というのは大きくとも、だれかを、あるいはじぶんをゆるすというのがなかなか難しいからである。
そして、ひとはとても弱くもろいため、宗教というひとつの概念にすがるようにして必死に歴史を積み重ねてきた過去もある。
いま、無神論であったり、宗教に無関心であったりするのは、宗教という概念に頼ることなく、強く生きれることがあるかもしれない。
ある種幻想でもある俗的な富ー貨幣さえあれば、富さえあれば、自然科学の発展にともなう衣食住の困ることはない。
すぐになんでも、助け合うことも少なく、ひとりで手にはいる。
愛について考えることや誰かを犠牲にしてしまったことへの罪の意識、互いにゆるしあうということ───こうした、幼稚とも捉われるであろう僕のつたないことかもしれないが、ことへの希薄さが嫉妬や憎しみや復讐や支配、といった俗的な欲望を増大させている時代にきてしまっているように思う。
フラットな視線でみつめる坂口さんは、つぎのように本書で書いている。
この空洞化は先進国各国でおこっていることではないだろうか?
これに対して、ロシアのドストエフスキーやトルストイといった文学者たちの表現に独特の人間存在の在り方を問うものがのこされていたりする。
※本書p134など参照してください。
もちろん、そうした独特の人間観がその後の全体主義国家への協力や我慢へと繋がったかどうかは留意すべき点かもしれない。
また、いまの時事問題を見つめる上でそこに長い歴史と宗教が横たわることを忘れてはならないと思うのだ。日本人は宗教と名のつくものにあえて避けて通ったり、考えることを迂回する傾向にみえることに僕だけだろうか?著者もそこを疑問視してもいた。
そうした諸々のことを著者が極めて水平な視線で丁寧にキリスト教義論争と個の誕生を見つめていたのがとても印象に残った。
人間のカテゴライズ、何かと何かを区別するという機能は大事でもある。自分とそれ以外。そして自分のありのままの姿や、帰属する場での役割に対する労働が、他者に認められることは、人種性差問わず承認されることも非常に大事なことである。しかしながら、その機能が嫉妬や支配といった負の方向へ走ると、他者との共生を考慮しない欲望の遂行に繋がりはしないだろうか?
その端的な例はいくつかあるだろう。
人種差別、性差別、それらを上から均一化を迫る同調圧力、支配的侵略行為や排除や統一。
こうしたカテゴライズの特化はひとえに文明やテクノロジーの発展に従って一層細分化されたり深い溝を生み出しているような錯覚を覚える。
これについてはまたいずれどこかで洞察したいと思う。
とくに、戦争。絶え間なく続く。あらゆる紛争や戦争のなかで、つぎに進むにはやはり、稚拙かもしれないけれど、お互い愛と赦しがないといけない。とても簡単なことなのに利権をなぜ考慮するのだ?いきなりバチン!とするのではなく、ねえねえこうしてほしい/こうしたい、と互いを認め合って歩み寄り、ごめんね、いいよゆるしてあげる、となり、身近なあらゆるものを愛することがとても大事なことに思う。
日本における個の尊厳
ところで、当たり前のような権利───個の尊厳と尊重。日本にいると、それは当たり前、と思うかもしれない。
けれども、日本にいると、《私》より《私たち》が重視される。
「みんなの雰囲気に合わせて」とか。
公共の尊重>個人の尊重
なぜなのか、僕は勉強不足でわからない。
負の捉え方のみではもちろんない。
ヨーロッパやその周縁よりも、文化が安定していた、ということの証拠でもあるように思うのだ。
安定している、ということは非常に重要なことであり、それがなければ他者を思いやる余力が生まれにくいと思う。
しかしながら、明治維新以降、廃仏毀釈に見られるように文化を暴力的に西欧のものに塗り替えていき、ついには、近年の日本人の倫理鈍化は、前述のとおり、日本の「私たち」>「私」の構図から個の尊厳に対して曖昧であることや他者への無関心やメディアの倫理のあやふやさが見え隠れしているように思える。子どもたちを取り巻くいじめ問題や発言の倫理のなさまでさまざまな社会的に考え取り組まないとならない問題など、これらには根底に他者を差別することや尊厳を軽視することが含まれていたりもする。
性差、人種などさまざまな差別は区別から生まれてくる。
区別について真剣に考えることで差異に対して曖昧にするのではなく、共存のための相互理解が他国に追いつくのではないだろうか。
過去、何千年と個について確保しようとしてきた。個、孤絶ではない孤に立ち向かってひとりひとりでしっかりと踏みしめ生きる力、共存のための思いやりや助け合いと個の尊厳を忘れてはいけない。
ロゴス
言葉とは、ロゴスとは愛を交流させるためではないだろうか?
じぶんなりに必死になって言葉を集めて考えて、考え抜いてそれらを熱を持って、真心を込めて───誠意と敬意を持って───言葉で互いに共生の道を模索してこそ、文明人なのではなかろうか。
それは有機体でしかなし得ないと思うのだ。
有機体の個の稠密な集合体が連続した歴史の流れを作るさまは光の粒子と波の性質に似ている。
連続の証としてのデデキント切断にあたるのは裁きではなく、愛だと思いたい。
イエスさまが両性(イエスさまのペルソナ:神性と人性をあわせもつ)であるように。
信仰とは、弱いもののためにあるかもしれぬが、弱くとも強く、強くとも弱い。
ぼんやりといまそのように思う。
冒頭のイザヤ49-16
見よ 私はあなたを手のひらに刻んだ
に戻りたい。
神はその身体に《私》を刻まれている、それは、常に《私》とともにある、ロゴスは常に《私》とともにある、ならば書いたものは《私》あるいは魂そのものだろう。
投稿の結論
哲学するというのは思いやりや愛のためだと思うのだ。考え抜くことを哲学とするならば、あるいはそれを時として宗教や思想と呼ぶかもしれぬが、五感を使いながら言葉で考えるしかないのが人間という弱い動物に与えられた生きる力、愛する力ではなかろうか。そうして、その力を持っていれば、誰かから押し付けられる義務ではなく、義務ではない義務を遂行することで、互いの個の尊厳というものを自然と考えて行動できるように思う。
AかBかではないのだ。
ひとびとが他者を善悪によってジャッジすることにフォーカスするのではなく、個々の愛の上に立っているかどうか、人間だけではない、あらゆる動植物との共存のための愛の上に立って、どうであろうか?ということが、試される、ということを僕は言いたい。
これは、信仰の有無ではなく、《思いやり》と《愛するものへの信念》があるかどうかでも変わってくるかもしれない。
僕は言葉の持つ力、すなわち、考えぬく人間の力は、決して欲望のためではなく、愛と赦しのためにあると信じたい。赦すというのはとても難しいとしても。
希求
区別によって裁くことを差別として。ひとを裁くということの愚かしさ、それによる暴力の連鎖。
僕ひとりではどうしようもないけれども、それでもいますぐやめてほしいと願わない日がない。
真っ先にその犠牲になるのは子どもや弱い立場のひとたちだ。
どうか、世界中で子どもたちや抑圧されているひとたち、不自由なひとたちが笑顔で過ごせて、希望が彼らのためにありますように、そして、そのための自由、個の尊厳があたりまえとなりますように……。
愛とゆるしのうちに、全き人であろうとしていたい。
あとがきのようなもの
あなたの小さな手のひらを見つめておててのしわをなぞりながら、指先に接吻する。
眠るあなたはきっと今日を知ることはないでしょう。
あなたが空に向かって声を上げるために泣いたとき
あなたが私をじっとみつめてくれたとき
あなたが嬉しくて笑ったとき
あなたがわたしの胸で穏やかにあらゆるはじめてのものに触れたとき
あなたがたくましく立ち上がって歩いたとき
あなたがはじめて言葉にして私を呼んだとき
あなたがはじめて絵を描いたとき
あなたがはじめて悔しくて泣いたとき
私はあなたのそばにいた。
私は小さな手のひらの温かな温もりを
いまもこれからもずっと胸にしまっています。
あなたが困難に立ち向かうとき
あなたがひとりぼっちに思うとき
あなたが誰かに傷つけられたとき
あなたが誰かを傷つけたとき
私はあなたの小さな手のひらを握りしめて
あなた自身のたくましい一歩を踏み出せるまで
いつもあなたのそばにいます。
私は無償の愛を育むことを小さな人から教えられている。
そしてそれによって私が救われていたことを。
愛には区別というものはない。
区別がないからこそ分け隔てなくなんびとも
、魂が塵と化すまで、永遠に愛することができる。
愛は困難のなかで命がけで育ててゆくものかもしれない。
愛は言葉であり、春の穏やかな暖かさであり、夏の激しさ、秋の夕暮れ、冬の厳しさでもあり、貧しきひとへの光であり、貧しきひとにしか探求できぬものかもしれない。
子どもに教えてもらったこのかけがえのない愛。
それは私だけではなく、誰にでもあるものだろう。
ひとは決してひとりぼっちでは生まれない。
愛が小さなひとの中に周りにいつもある。
無くなってしまったら
全力で誰かを愛してあげるといい。
誰かを愛することを忘れたら
必死になって思い出せばいい。
けれどその思い出すための愛された記憶がなかったら、どうしたらよいのか。
誰かひとりでもいい。
強く愛されていたらその記憶は残る。
誰かを強く愛するというのは、そのための道程だろう。
いただいたサポート費用は散文を書く活動費用(本の購入)やビール代にさせていただきます。