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『〈個〉の誕生』 坂口ふみ

この投稿全体の概要

昨今の時事ニュース、紛争や戦争のみならず、僕自身含めて現代において、個の尊厳、自己含めてひととの愛に対して希薄になっていないか?
疑問に思うことが増えたように思う。
ひとが人力では決して集めきれないようなビッグデータのマイニング、それらをAIやDXに活かすことよって、ありとあらゆることがコンピュータによってシステム化され、《個》を求めなくなってきてもいたり、一部の社会風潮が「あたりまえ」とされたり、カテゴライズの細分化が進む一方で全体的な均一化を求められていたり。
もう一度、《個》について立ち返ってみたい。
これはそんな僕の拙いとりとめのない想いと坂口ふみさんの本を家族と読んだ感想である。

誰かにとってのあたりまえは他の誰かにとってのあたりまえではない、かもしれません。
育つ背景や日常的に過ごす空間によって、そしてそれらの空間が持つ歴史や文化によって、僕もあなたも考え方や感じ方が違います。
同じ空間にいても各々に違うのは、その人それぞれが持つ気質、性格や習慣───個性と呼ばれるものの一部から起因することのでしょう。
個性の強い僕はたびたび子どもの頃から僕自身の個性、見た目や考え方で揶揄されることに悩んだりしてきました。
日本に住む以上、このことから僕の娘が同じように悩むこともあるかもしれません。
そんな僕が子どもの頃から、とても感じていたことは、「私」より「私たち」を非常に重視するということです。少しでも外れると、いじめの対象になりやすい傾向もあります。
「違ってあたりまえ」があたりまえではない。
「違わないようにしないといけない」
あたりまえ、ということを排除し尽くしてしまうと、今度は社会的にも上手くいかなかったり、ひとりぼっちになってしまったりします。
共存しながらも、各々の個性を認めたり、個を大事にすることは、簡単そうでなかなか難しいと感じることがあります。
それでも、個を尊重しあえたら、区別というところから差別や排除や同化に至るのではなく、区別というところから、共存の道を模索したり、互いに新しい発見がし合えたり、ポジティブな方向へと物事が進むように思います。
そんな大層なことなぜこんなところで書くのか?
と僕自身疑問なんです。
でも、昨年、妻の母国とその隣国が戦争状態になり、「そんな大層なこと」を考えない日がありません。心の中にしまっておけば良いのかもしれません。でもある程度整理をするためにも書き残しておこうと思ってます。それなら誰かに読まれることを気にする必要ないだろう、とも思います。
でも、やっぱり、最近のニュースを観ていて個の尊重というのがあまりに軽視されている、と思うので、僕含めて、色々なひとたちがそのことを少しでも真摯に再考し合えたら、と思っています。
個の尊厳を見つめたいという僕の想い

はじめに

見よ 私はあなたを手のひらに刻んだ
イザヤ 49ー16

これはカトリック祈祷書 祈りの友の扉ページに寄せられているイザヤ書の言葉である。

お祈りのときに、いつも
「天にまします、われらの父よ、中略、父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」
とする。

カトリックでは「父:神」─「子:神の受肉、主イエス・キリスト、神の子であり、子の神」そして「聖霊:愛、啓示」であり、この三位一体はとても大切な信仰宣言でもある。
三つの位格はひとつであるということ

もとはウーシアという位格の実体を表すギリシア語が抽象的で明確な存在概念(ヒュポスタシス:基体、アリストテレスが発展させ、のちにカルケドン公会議でピュシスとの差異について論争となる)と神学的概念(ペルソナ:ヒュポスタシスのラテン語だが、ロゴスの受肉)というふたつの性質を持つようになり、
・ウーシア 神の実体
・ヒュポスタシス 神の位格 ギリシア語
・ペルソナ 神の位格 ラテン語

という三つの概念を表す言葉について西方と東方教会で議論されるようになった。

※三位一体については後述のカトリックにおける三位一体をご覧ください。ローマ・カトリック教会と東方正教会で異なります。そのほか異端的な団体については知り得ません。また、信徒では最も大事な教義でありながら最も難しい三位一体。
以下がわかりやすい説明に思う為引用させていただきますが、後述の教皇さまの信仰宣言と合わせてご覧ください。

キリスト教の歴史の中で、さまざまな神学が発展していったときに、この信仰の体験は、「三位一体」という教義で体系化されました。それは、唯一の神の中に、三つの独立した「位格」があって互いに神の本質を共有している、という教義です。難しい哲学の用語を用いて、神の存在を説明しようとするものですが、根本的には私たちの原初の信仰体験に基づいています。
カトリック・イエズス会センター

カトリックの信仰宣言から

神の民の信仰宣言(カトリック祈祷書「祈りの友」)では

唯一の神
愛の神
三位一体
救い主イエズス・キリスト
聖霊
聖母マリア
原罪
聖体・ミサ聖祭
神の国
永遠の生命
聖徒の交わり

これらが、第2バチカン公会議を反映して、1968年6月30日
教皇パウロ6世さまによってカトリックでは宣言
されている。

カトリックの長い歴史の中でのキリスト教義について、僕は僅かにしか知らなかった。また、分離した正教会の教義やそのいきさつの詳細などもあまり知らなかった。

ただただ、近づけない光の中に住む神は、有りて有るもので愛そのものであり、地上では信仰という暗さのうちに、死後には永遠の光のうちになされる、という、愛の神を僕は信じている。

信徒でなければ三位一体についてあまり知らないところであろう。

カトリックにおける三位一体

唯一の心的実在である三つのペルソナを永遠に構成する相互の絆は、人間の尺度で測り得るすべてのものを無限に超える神の聖なるもっとも奥深い至福の生命を生み出す。多くの人々が、たとえ至聖なる三位一体の秘儀を知らなくても、神が唯一であることについてわたしたちとともに人々の前に証しを立てうることを、いつくしみ深い神に感謝する。
永遠に御子を産む御父と、永遠に生まれる神のことばである御子と、創られざるペルソナであり御父と御子の永遠の愛として両者から発出する聖霊を信じる。こうして、「ともに永遠で、ともに等しい」この三つの神的ペルソナの中では、完全に「唯一」である神の生命と至福が満ち溢れている。そして常に「三位一体」の中に一致が、一致の中に三位があがれられるべきである。
カトリック祈祷書 祈りの友 神の民の信仰宣言よりp26

救い主イエズス・キリスト

わたしたちは、神の子であるわたしたちの主イエズス・キリストを信じる。主は時が始まる以前に御父から生まれた永遠の御ことばであり、御父と実体をひとつにしていて、かれによって万物が創られたのである。かれは聖霊の力により処女マリアから受肉し、人となられた。したがってかれはその神性においては御父とひとしいものであり、その人性からすれば御父より下にあるが、そのふたつの本性は混同されることなく、そのただひとつのペルソナによって、唯一のおん者である。
(以下つづくが略する。)
カトリック祈祷書 祈りの友 神の民の信仰宣言よりp26

キリスト教義論争と存在論

教義論争はけっして片々たる古くさい教会と僧侶階級内部の出来事ではない。それは後の東欧と西欧という二つのヨーロッパの基盤を形成してゆく、世界史における重要なプロセスであった。
『個の誕生』坂口ふみ岩波現代文庫p50

さて、話はすこしカトリック祈祷書から離れる。
僕はこの2週間ほど、家族と少しずつ、坂口ふみさんの『〈個〉の誕生』という本を読んでいた。
信徒でなくとも、東西ヨーロッパとその周縁各国の歴史や文化、ひいては文学を知る上でも、キリスト教がそれらの背景に横たわる以上、宗教を知るというのは、とても有意義であるとも思う。
周知のとおり、キリスト教にはいくつか宗派があり、
ローマ・カトリック教会を母体とするカトリック、ルターら宗教改革以降分派したプロテスタントなどと、そしてロシア正教会やギリシア正教会などの正教会などがある。

四つの公会議

A.D.325 6月ー8月 ニカイア
同 381 5月ー7月 コンスタンチノポリス
同 451 9月ー10月 カルケドン
同 553 5月ー6月 コンスタンチノポリス
『個の誕生』坂口ふみp46

もとはひとつのキリスト教であったが、西暦4世紀おわり~6世紀ごろにかけて、キリスト教義を確立させるためのいくつかの公会議の流れのなかで、ローマ・カトリックと正教会に分かれていった。本書では四つの公会議にフォーカスをしている。合理的ラテン思想とギリシャ系の本性をペルソナの内容として捉えるヒュポスタシスとにピュシス(本性)がいくつか分かれていったりしたことからも考え方の違いあるいは翻訳違いからなのか、フィリオクェ問題(父、子の序列に関する議論1054年)として上がり、東西に教会が分裂した所以でもあろう。

キリスト教義のなかで、とくにこの4世紀~6世紀の公会議で議題とされたのが、前述の三位一体とイエス様のペルソナ(位格)についての単性/両性説(神性か人性か)についてなどであろう。

この神学(西方のフィリオクェの神学)は、本質の統一性を強調しようとして、かえって統一性と多様性を合わせ持つ三位一体の神秘的で二律背反的な意味──位格の神秘[多様性]と愛の神秘[統一性]の本質でもあり、また、その現れともなる性格──を弱めてしまった。そして教会ではキリストの「からだ」としての組織的統一、およびキリストの代理者としての教皇の君主制が優位をしめ、聖霊が約束する教会の自由と司牧の普遍的な権威は抑圧されてしまった。
『東方正教会』オリヴィエ・クレマン

イエス・キリストは人なのか神なのか?
2000年近く論争するこのプロセスの中で、キリスト教義論争はイエスさまの、存在論的な、個の構造を確立させようとし、西欧思想の存在論、思想哲学─文化にいたるまで、ありとあらゆる影響を与えた。

ビザンツ的構造とヒュポスタシス=ペルソナ

4世紀おわり~6世紀というと、ローマ帝国の衰退と初期ビザンツ帝国がヨーロッパを支配していた時期でもある。

さまざまな民族の争いのなかで、「皇帝の宗教」や「神に選ばれし皇帝」とすることで政治と宗教が強く互いに利用し合っていたのは想像に難くない。
皇帝が洗礼を受けたりしているフレスコ画がのこされているのは見たことがあるのではないだろうか?

こうした構造を社会学者ベックさんは「ビザンツ的構造」(≒政治化されたオルトドクシー (ベック1974年講演にて))と名付け、ソ連支配においてもこの「ビザンツ的構造」が見受けられていた、としている。

これはかなりネガティブな表現方法での名づけでもある。

これに対して、本書の著者である坂口ふみさんは、かなりフラットな視線で、この時期のいくつかの公会議で議論された三位一体とペルソナについてつぶさによく調べられて丁寧に書かれている。
そして、そのフラットな視線からなのか、東西教会を配慮してくれているからなのか、イエスさまの両性説に立脚するペルソナを「ヒュポスタシス=ペルソナ」と呼んでもいる。

僕は神的ペルソナ、人的ペルソナなど「ペルソナ」と統一されている言葉でしか知らなかった。
ヒュポスタシスはイエスさまの神性と人性の位格の合一であり、エフェソス公会議でこの教義が認められるとともにその重要性が確認され、キリストの人性と神性はロゴスにおいて本性とヒュポスタシス(実体、位格)に即して合一すると述べられた。
この結合については宗派によってかなり異なる解釈であり、カトリックでは合一で神的ペルソナ、人的ペルソナなど「ペルソナ」と統一されていると思うのだが、間違えていたらごめんなさい。
位格結合(ヒュポスタシスとペルソナ)について

四つの極めて重要な公会議以来、三位一体論から、イエスさまのペルソナ構造までを考え抜き、ヒュポスタシス=ペルソナとしたキリスト教的存在論がのちの西洋の存在論へと繋がってゆく。

ビザンツ・インパクト

本書に描かれている初期ビザンツ帝国とキリスト教義論争のことから、イエスさまの個、ペルソナ構造を議題にするということは、意識的に個のなかの〈個〉を当時の大思想家たちが、ありとあらゆる英知を結集して、考えぬき、既存の思想や文化を乗り越え、〈個〉の概念を初めて真剣に考え、ひとつの捉え方として定着させようとした血と汗と涙の結晶のようにも思えた。

とくに、個への関心のネオプラトニズムと個への愛のキリスト教義へと変化していったことは大きい。

これはキリスト教の信仰の有無によらず、著者の言うとおり、既存の考え方にたいしてアンチテーゼとして何かを勇気をもって打ち立てていくときの確かに支えになりうる歴史が残した大きな業績であり、初期ビザンツでのキリスト教義論争はのちのヨーロッパの文明に多大な影響を及ぼしていると言えよう。

この影響のことを坂口ふみさんは「ビザンツ・インパクト」と名付けた。彼女の名付けたものに彼女自身が讃歌していることは、歴史に敬意を払っている哲学者の方であることを垣間見れた。

おわりに 

赦しについて

良書であった。信徒でないと、三位一体や位格についてもしかしたらわかりにくいかもしれないとは思った。そしてそれも含めて、キリスト教義を語る上で、聖書に立ち戻っての言及に欠けている点が気になった。
隣人愛や三位一体などもちろん大事なキリスト教の教義だが、僕は個人的にゆるしの秘跡(告解)についても言及してほしかった。

何故かというと、ひとというのは愛されたい、というのは大きくとも、だれかを、あるいはじぶんをゆるすというのがなかなか難しいからである。
そして、ひとはとても弱くもろいため、宗教というひとつの概念にすがるようにして必死に歴史を積み重ねてきた過去もある。
いま、無神論であったり、宗教に無関心であったりするのは、宗教という概念に頼ることなく、強く生きれることがあるかもしれない。
ある種幻想でもある俗的な富ー貨幣さえあれば、富さえあれば、自然科学の発展にともなう衣食住の困ることはない。
すぐになんでも、助け合うことも少なく、ひとりで手にはいる。
愛について考えることや誰かを犠牲にしてしまったことへの罪の意識、互いにゆるしあうということ───こうした、幼稚とも捉われるであろう僕のつたないことかもしれないが、ことへの希薄さが嫉妬や憎しみや復讐や支配、といった俗的な欲望を増大させている時代にきてしまっているように思う。

フラットな視線でみつめる坂口さんは、つぎのように本書で書いている。

論理性・秩序・組織というロゴス原理は西欧の強みであり、それによって「人格」「愛」「精神」というようなことが、西欧文化のもっとも大きな強みであったように思う。しかし、その場合、「愛」や「精神」は内実を失って空洞化しなかったろうか?
〈個〉の誕生 坂口ふみ 岩波現代文庫 p140

この空洞化は先進国各国でおこっていることではないだろうか?

これに対して、ロシアのドストエフスキーやトルストイといった文学者たちの表現に独特の人間存在の在り方を問うものがのこされていたりする。
※本書p134など参照してください。

もちろん、そうした独特の人間観がその後の全体主義国家への協力や我慢へと繋がったかどうかは留意すべき点かもしれない。
また、いまの時事問題を見つめる上でそこに長い歴史と宗教が横たわることを忘れてはならないと思うのだ。日本人は宗教と名のつくものにあえて避けて通ったり、考えることを迂回する傾向にみえることに僕だけだろうか?著者もそこを疑問視してもいた。

そうした諸々のことを著者が極めて水平な視線で丁寧にキリスト教義論争と個の誕生を見つめていたのがとても印象に残った。

人間のカテゴライズ、何かと何かを区別するという機能は大事でもある。自分とそれ以外。そして自分のありのままの姿や、帰属する場での役割に対する労働が、他者に認められることは、人種性差問わず承認されることも非常に大事なことである。しかしながら、その機能が嫉妬や支配といった負の方向へ走ると、他者との共生を考慮しない欲望の遂行に繋がりはしないだろうか?
その端的な例はいくつかあるだろう。
人種差別、性差別、それらを上から均一化を迫る同調圧力、支配的侵略行為や排除や統一。
こうしたカテゴライズの特化はひとえに文明やテクノロジーの発展に従って一層細分化されたり深い溝を生み出しているような錯覚を覚える。
これについてはまたいずれどこかで洞察したいと思う。

とくに、戦争。絶え間なく続く。あらゆる紛争や戦争のなかで、つぎに進むにはやはり、稚拙かもしれないけれど、お互い愛と赦しがないといけない。とても簡単なことなのに利権をなぜ考慮するのだ?いきなりバチン!とするのではなく、ねえねえこうしてほしい/こうしたい、と互いを認め合って歩み寄り、ごめんね、いいよゆるしてあげる、となり、身近なあらゆるものを愛することがとても大事なことに思う。

日本における個の尊厳

ところで、当たり前のような権利───個の尊厳と尊重。日本にいると、それは当たり前、と思うかもしれない。
けれども、日本にいると、《私》より《私たち》が重視される。

「みんなの雰囲気に合わせて」とか。

公共の尊重>個人の尊重

なぜなのか、僕は勉強不足でわからない。

負の捉え方のみではもちろんない。
ヨーロッパやその周縁よりも、文化が安定していた、ということの証拠でもあるように思うのだ。
安定している、ということは非常に重要なことであり、それがなければ他者を思いやる余力が生まれにくいと思う。

しかしながら、明治維新以降、廃仏毀釈に見られるように文化を暴力的に西欧のものに塗り替えていき、ついには、近年の日本人の倫理鈍化は、前述のとおり、日本の「私たち」>「私」の構図から個の尊厳に対して曖昧であることや他者への無関心やメディアの倫理のあやふやさが見え隠れしているように思える。子どもたちを取り巻くいじめ問題や発言の倫理のなさまでさまざまな社会的に考え取り組まないとならない問題など、これらには根底に他者を差別することや尊厳を軽視することが含まれていたりもする。
性差、人種などさまざまな差別は区別から生まれてくる。
区別について真剣に考えることで差異に対して曖昧にするのではなく、共存のための相互理解が他国に追いつくのではないだろうか。

過去、何千年と個について確保しようとしてきた。個、孤絶ではない孤に立ち向かってひとりひとりでしっかりと踏みしめ生きる力、共存のための思いやりや助け合いと個の尊厳を忘れてはいけない。

ロゴス

はじめに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった。
言葉のうちに命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書

言葉とは、ロゴスとは愛を交流させるためではないだろうか?
じぶんなりに必死になって言葉を集めて考えて、考え抜いてそれらを熱を持って、真心を込めて───誠意と敬意を持って───言葉で互いに共生の道を模索してこそ、文明人なのではなかろうか。
それは有機体でしかなし得ないと思うのだ。
有機体の個の稠密な集合体が連続した歴史の流れを作るさまは光の粒子と波の性質に似ている。
連続の証としてのデデキント切断にあたるのは裁きではなく、愛だと思いたい。
イエスさまが両性(イエスさまのペルソナ:神性と人性をあわせもつ)であるように。
信仰とは、弱いもののためにあるかもしれぬが、弱くとも強く、強くとも弱い。
ぼんやりといまそのように思う。

冒頭のイザヤ49-16
見よ 私はあなたを手のひらに刻んだ
に戻りたい。
神はその身体に《私》を刻まれている、それは、常に《私》とともにある、ロゴスは常に《私》とともにある、ならば書いたものは《私》あるいは魂そのものだろう。

テキストAI、ChatGPTがここ最近話題でnoteでもAPIを利用し始めたようだ。
しかしながら、こうした熱、真心、誠意、敬意というのはAIには到達なかなかし得ない点ではないだろうか?
受け取り手があくまで人間の場合には、となってしまう日がくるのだろうか……。ロゴスが神ならば、AIのアルゴリズムが神となってしまう。アルゴリズムと我と通信システムが新しい三位一体になったら完全にミシェル・ウエルベック『素粒子』の話もディストピアでなくなる。
余談

投稿の結論

哲学するというのは思いやりや愛のためだと思うのだ。考え抜くことを哲学とするならば、あるいはそれを時として宗教や思想と呼ぶかもしれぬが、五感を使いながら言葉で考えるしかないのが人間という弱い動物に与えられた生きる力、愛する力ではなかろうか。そうして、その力を持っていれば、誰かから押し付けられる義務ではなく、義務ではない義務を遂行することで、互いの個の尊厳というものを自然と考えて行動できるように思う。
AかBかではないのだ。
ひとびとが他者を善悪によってジャッジすることにフォーカスするのではなく、個々の愛の上に立っているかどうか、人間だけではない、あらゆる動植物との共存のための愛の上に立って、どうであろうか?ということが、試される、ということを僕は言いたい。
これは、信仰の有無ではなく、《思いやり》《愛するものへの信念》があるかどうかでも変わってくるかもしれない。

僕は言葉の持つ力、すなわち、考えぬく人間の力は、決して欲望のためではなく、愛と赦しのためにあると信じたい。赦すというのはとても難しいとしても。

心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである。
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである。
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。
山上の説教 マタイによる福音書5章3~10節

希求

区別によって裁くことを差別として。ひとを裁くということの愚かしさ、それによる暴力の連鎖。
僕ひとりではどうしようもないけれども、それでもいますぐやめてほしいと願わない日がない。
真っ先にその犠牲になるのは子どもや弱い立場のひとたちだ。
どうか、世界中で子どもたちや抑圧されているひとたち、不自由なひとたちが笑顔で過ごせて、希望が彼らのためにありますように、そして、そのための自由、個の尊厳があたりまえとなりますように……。

愛とゆるしのうちに、全き人であろうとしていたい。

 本書を家族と話ながら読めて良かった。宗教の信仰によらず、多くの方々が本書に触れられたら、どんなに素敵だろう。
 ギリシア語からラテン語に翻訳された際に起こった問題はさまざまなことを想起させたりもする。権力によって風化させられてゆく事実──昨今だと翻訳伝播とは異なるがモリカケの赤江さんのことなどはこの表現に当てはまる気がする──同じ言葉が社会風潮によって意味が異なりはじめて忘れ去られたり、変貌したり。翻訳伝播による言葉のシミュラークルのような動的変化は──デリダ的にいうと差延なのかわからぬが──それによって東西ローマ、東西ヨーロッパに別れていく過程に、平家物語の冒頭を思い起こしたりもさせられる。翻訳ではなく、原著をあたることの意義がここにも見出せて、僕は翻訳に頼ることの自戒にもなった。なかなか「原著をあたる」というのはハードルが高い。
 本書を哲学や歴史だけで読もうとすると用語や哲学者や神学者たちの名前に惑わされてしまうかもしれない。信徒でなくとも聖書をきちんと開いて読むことが大切だと個人的に思う。フランシスコ会聖書にはきちんと注釈が細かく載っている。それを含めて読みじぶんの頭で考え抜く。それによって、本書のみならず、他の近年に至るまでの歴史や西欧思想家や文学者たちの探ろうとした存在論や超越について理解も深まり、個々に何か物事を考える際の深さも増すかもしれない。ひいては、地政学のみでは透かして見えてこない背景がくっきりとしてくるとともに、身近な問題での視点のひとつが加わるかもしれない。
古い書物を読むことは過去を慈しみそこに存在した事象を記憶から掘り起こし風化させず、そして、いまを愛すること。じぶん自身や身近なひとたちを愛すること。実践して、いまを一生懸命生きるしかない。じぶんを見放さなず、生を全うしないといけない。
生を全うすることを奪う権利は誰にもない。
正義を振りかざすのは虚栄でしかない。
あらゆる戦争に反対する。
僕への自戒、聖書を読み勉強することとカトリック教会の日曜学校やミサで神父さまのお話を伺うことの大切さ
本書はひとりでは読むことがなかったかもしれません。きっかけはSさんがぽつりとこの本について呟いていたことでした。
Sさん、ありがとうございます。

親身になって文章の推敲を見てくださったMさん、まだまだ僕の能力不足のため完成とは程遠い想いの文章ですが、時間を見繕って修正してゆきます。
Mさんの日常が穏やかであることを夫婦で願ってます。ありがとうございます。

また、根気強く一緒に読んでくれた妻、ありがとう。
謝辞

あとがきのようなもの

あなたの小さな手のひらを見つめておててのしわをなぞりながら、指先に接吻する。
眠るあなたはきっと今日を知ることはないでしょう。
あなたが空に向かって声を上げるために泣いたとき
あなたが私をじっとみつめてくれたとき
あなたが嬉しくて笑ったとき
あなたがわたしの胸で穏やかにあらゆるはじめてのものに触れたとき
あなたがたくましく立ち上がって歩いたとき
あなたがはじめて言葉にして私を呼んだとき
あなたがはじめて絵を描いたとき
あなたがはじめて悔しくて泣いたとき
私はあなたのそばにいた。
私は小さな手のひらの温かな温もりを
いまもこれからもずっと胸にしまっています。
あなたが困難に立ち向かうとき
あなたがひとりぼっちに思うとき
あなたが誰かに傷つけられたとき
あなたが誰かを傷つけたとき
私はあなたの小さな手のひらを握りしめて
あなた自身のたくましい一歩を踏み出せるまで
いつもあなたのそばにいます。

私は無償の愛を育むことを小さな人から教えられている。
そしてそれによって私が救われていたことを。

愛には区別というものはない。
区別がないからこそ分け隔てなくなんびとも
、魂が塵と化すまで、永遠に愛することができる。
愛は困難のなかで命がけで育ててゆくものかもしれない。

愛は言葉であり、春の穏やかな暖かさであり、夏の激しさ、秋の夕暮れ、冬の厳しさでもあり、貧しきひとへの光であり、貧しきひとにしか探求できぬものかもしれない。

子どもに教えてもらったこのかけがえのない愛。
それは私だけではなく、誰にでもあるものだろう。
ひとは決してひとりぼっちでは生まれない。
愛が小さなひとの中に周りにいつもある。

無くなってしまったら
全力で誰かを愛してあげるといい。
誰かを愛することを忘れたら
必死になって思い出せばいい。

けれどその思い出すための愛された記憶がなかったら、どうしたらよいのか。

誰かひとりでもいい。
強く愛されていたらその記憶は残る。
誰かを強く愛するというのは、そのための道程だろう。

小さな手のひらを見つめる真夜中、僕はそのように思う。
親になって我が子から教えてもらう日々

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