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一日一篇須賀敦子から『チェザレの家』

今日の一日一篇須賀敦子は、非常に興味深く読めた一篇、須賀敦子全集第三巻に収録されている、『チェザレの家』だった。

僅か数ページに文章を書く上での大事な気付きを得たのでnoteに残しておきたくなった。

須賀敦子さんの洗練されたセンスは言うまでもなく、素晴らしいものがある。
特に、文章の始め方は素晴らしい。
例えばこうである。

会ったこともない人のところで、おまえ、よく泊めてもらったわねえ。人みしりがきつかった母に話したら、きっとそういってあきれたにちがいない。
須賀敦子全集第三巻『チェザレの家』p281

『チェザレの家』はこのようにして始まる。
ギンズブルグの親しい友人だったチェザレの家に泊まった著者。身体に合わない硬いベッドで眠り目覚める。
誰かに起こされるまでベッドから出るべきではない、と思うほど印象的な滞在だった。

という内容だ。
この一篇の本題は評論家チェザレと作家ナタリア・ギンズブルグの文章についてである。

日常や思い出の記憶の中の映像を切り取る力というのだろうか。
そこから起点にするのではなく、本題があって出だしがそのためにある。

エッセイ的なものを書くとき、誰もが日常あったことや思い出の一コマと《今》の思考や感情を繋げていくと思うのだけれど、ややもすると支離滅裂に、僕は陥りやすい。

本題に沿って論文形式で
概要
考察
帰結
の単純な三段論法でいけば間違いない。

ここに肉付けしていくための過去の日常エピソードが出てくると思う。
しかし、そのエピソードが本題からかけ離れていると、支離滅裂で的を得ていない、ただひたすら冗長的な文章になってしまう。

「言葉/文章が〇〇(例えば綺麗とかの形容詞)」というのと「文章の流れが〇〇」というのとでは違う。

僕が好きになる作家は大抵、ノスタルジーを兼ね備えていて音楽的リズムとテンポを保つ。
アントニオ・タブッキ、ジョゼ・サラマーゴ、ガルシア・マルケスらがわかりやすいかもしれない。そして彼らはとても情熱的でいくつになっても人だけではなく、何かに恋をしていてみずみずしい。

僕の心を鷲掴みにする言葉や文章は情熱的かつノスタルジアでラテンな音楽性を醸し出している。

だけど、それだけではなく、当たり前と言えば当たり前なのだが、ストリームがはじめから終わりまで一貫している。
そして、ものの中心をガッと掴んでそこに向かって読み手を引き摺り込んでいく力が凄まじい。
詩人は特に中心の掴み方が半端ない。

本質的なことは見ることを学ぶことだ
考えずに見ることを
見ているときに見ることを学ぶことだ
見ているときに考えたり
考えているときに見たりしないで
『新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー780)』
フェルナン・ペソア

僕は時々、ストリームが右往左往してしまう。
そのくせ、知り得た言葉を必死に探してなんとか綺麗で体裁よくしようとする。

とくにこの言葉で体裁よくするというのは良くない、とずっと思ってもいる。

汚くても思ったことをずばっと書いたらいいのにできない。
それをやると、誰かを傷付けるかもしれないと思うからだ。

僕は内面的に病んでもいるのかもしれないけれど、ドス黒い。
ドス黒さが渦巻いていて、その中心には非常に壊れやすい結晶がある。

それを少しでも傷付けてきたと思ったら、ドス黒い何か黒のイロニー的な言葉が一気に噴出してハリネズミの針みたいにして外へ向かって刃を向けていく。

性格悪すぎ、だとか、根暗だとか何と思われても構わないけど、実際、僕は根暗だ。

平野啓一郎さんの『本心』で登場人物の藤原先生が「小説家は優しくないといけない」といった類いのことを話すシーンがある。
まさにそうであり、僕みたいに根暗でドス黒い何かが渦巻いて屈折した奴は本当は書いちゃいけないのかもしれない。

どう綺麗な言葉を使っても、刃を向けてるか自己顕示欲の塊を差し出しているかのどれかにしかならない。そういうのは、読み返すと、ただの自慢だけでなく、どことなく人を小馬鹿にして大上段から物事を斜めに見ているいやらしさを感じる。
そのいやらしさは性描写以上に反吐が出るほどいやらしくて脳天をかち割りたくなるしそれ以降の文章全てが茶番劇でしかない気がしてくる。

本題がそうした誰かを傷つけたいだとか上に立ちたいだとかなら仕方ない。
でもそうじゃないなら、肉付けするエピソードやさらにそれらを肉付けする言葉は慎重にかつ勇気を持って書かないといけない。

そうした、ごく当たり前のようなことを評論家チェザレやギンズブルグの引用から再認識した。

「こういった〈なぞらえ〉は、この詩人が小説にたいして抱いている郷愁(イメージ)をあらわし、とりもなおさず、それはまた、生活そのものや、じぶん自身を、あの魔法の光にあてたいという夢をあらわし、さらに、まるで肌を太陽で灼くように、じぶんをその光にさらす夢なのだ」

さらに、序文の書き手は、ナタリアの彼女が世に出るきっかけとなった)自伝的作品 について彼女自身が書いた、「小説はすでに書かれていた、それに存在をあたえるためには、それにかたちと肉を与えるためには、それ〔すでに書かれているもの)を〈道具として使〉えばいいのだということを、私はさとった」というコメントを引用する。 そして、いう。作者は、それまで小説は書くものだと信じていた。が、あるとき 「読むように」書け ばいいのだと考えつき、それが彼女のあたらしい文体の発見につながったのだろう。

緑の枝をひろげた本の樹木に気をとられて魔法の森に入ってしまうおとぎ話の旅人のように、読者は、知らぬまにギンズブルグ論の中核にさそいこまれていることに気づき、 さらにナタリアが「読むように」小説を書いたのとおなじように、チェザレの評論も、これを模した手法で書かれていることに気づく。
須賀敦子敦子全集第三巻 p288

この一節を読んで、チェザレやギンズブルグが須賀敦子さんに大きく影響を与えているような、そんな気がした。

僕は人間性をもっと円熟させなきゃいけない。
それにいつも感性豊かでありたいし、タブッキみたいにあらゆるものに情熱を持って愛していたい。つまり生き生きと生きていたい。

黒のイロニーに覆われてるままの未熟さなら下書きのままにしておかないといけないのかもしれない。

でも真似したいなぁ。

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