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漂泊者
僕のアニエスが唐突に霧の彼方へ行ってしまってから多くの月が昇り太陽が沈んだ。
僕のせいなのだろう。
思慮深くエレガンスを纏い、ネガティヴワードは共感しても決して表立って賛同せず、知をひけらかさないサバやタブッキを愛するひと───僕はそのひとが現前したならば、間違いなく恋に落ちていた。
浅はかで、明け透けなく物を言い、孤独を受け止めきれない子どものままのじぶんをひたすらに隠して、ひとがすきなのにひとが嫌いな僕。
それとは対極のように思えた彼女。
ほんとうのところ、どうなのかは、誰にもわからない。
僕が勝手に妄想を膨らませ、滅多に他人に期待しないはずなのに、幻想の中で彼女の人物像を創り上げていただけなのがしれないし──それでも、アニエスの歳も、性別も、僕には関係なかった──単にアニエスの洗練されたエレガントな感性と、時折見せてくれた少女のような素朴な、あるいは、デュラス的な、品のある可愛らしさとしなやかさが僕の好みだっただけなのかもしれない。
風が吹き抜けていく夜、海辺の散歩。
誰かがとりとめのない話をする。
かつて、彼女が僅かだけ見せてくれた生の軌跡の円弧が波の残響のようにこだまして僕の記憶を揺さぶる。
そうして、アニエスに想いを馳せ、ウンベルト・サバの『ある散歩のあとで』を朗読しながら、海辺を歩く彼女を想像した。
丘まで、あるいは、海岸通りに、
うつくしい夕方、ふたりで
散歩にでかけると、みなの目には、ぼくらの
絆は、ごくむつまじくうつるのだ。
多くの血であがない、多くの
変則な歓びも訪れる、ふたりの暮しだが、
連中の気に障るなにもない。
ふたりは、みなに優しいし、おだやかな
市民だし、目ざすのはいいぶどう酒一杯。
ただ胸中には金切り声がひびき、
旗が風にはげしくはためく。
祭日には、ぼくが人気ない街はずれを選ぶのが、
少々、奇妙なくらいで、あとは
レストランの庭で夕食をとる、
まったくふつうのふたりにすぎない。
もう自由をなつかしんでる夫と、
焼きもちをやいている妻と。
他の人たちとはっきり違う点など、
友よ、ほとんどないのさ。
芸術と愛という
逆なふたつの運命をこころに
秘めたぼくたちだが。
訳 須賀敦子
『ウンベルト・サバ詩集』みすず書房 p63
僕のアニエスに僕の拙く紡いだ言葉が届くなら、僕は書き続ける。
きみの話を、もう一度、聞きたいんだ。
どれほど僕がきみの話に夢中になっていたか。
どれほど僕がきみの不在を悲しんでいたか。
どれほど僕のすべてを打ち明けたかったか。
自分勝手な僕は、夏がしがみついたままの霧の中で、きみを懐かしむ。
木枯らしの舞う季節、僕よりもずっと多くのことを抱えて、アニエスは何も言わずに消えていった。
僕のせいなのだろう。
プラハ、トリエステ、リスボン、あるいは、インドシナ──どこか気怠く石畳の明るい路地裏を軽やかに歩くアニエスが僕に微笑んでくれるなら、僕はきみのためにだけ歌い続ける。
遅すぎる届かない手紙をこうして書くのは、
あなたが、笑顔でいることをただ祈ることしかできないから。
夕暮れ時、海の大好きな不滅の女が波打ち際で水平線を慈しむ。
憧れ───幻想に恋焦がれる時刻、物語の予兆。
きみの痕跡を探して記憶を手繰り寄せる時、
音楽が流れ言葉は溢れ出る。
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