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主体性とは何か?

著者 J.P.サルトル

ローマ講演での記録である。

サルトルは講演の冒頭から、マルクス主義的分析の中心に主体性を据え、主体性が失った活力を取り戻させようという意欲を明確に示している。同時に、ルカーチにたいする厳しい批判をも展開している。

「意識を社会の全体性と関係させることによって、発見できる思想や感情がある。それは、ある一定の生活状態のうちで人びとが、この状態や、この状態から生じる利害を、直接行動とのかかわりにおいて、また――この利害に対応する――社会全体の構造とのかかわりにおいて完全に理解することがもしできていたならば、彼らがもちえたであろう思想や感情である。つまり、彼らの客観的な状態に即した思想などである」
「階級意識」ルカーチ 

ルカーチは客観的可能性という観念を用いて、俗流マルクス主義者を非難することとなる。

メルロ゠ポンティは、サルトルをきわめて激しく批判した著作において、ルカーチのこのテーゼを好意的に扱い、称賛し、さらには、ルカーチは論争相手に抗して、「主体性を随伴現象にしてしまうことなしに歴史に合体させるようなマルクス主義」を堅持しようとしたとまで言う。

サルトルは〈非-知〉と〈なるべきである〉という2点から論じていく。

「即自存在は〈潜勢においてある〉ことはできないし、〈潜勢(力能)をもつ〉こともできない。即自は、その同一性の絶対的充実においてそれがあるところのものである。雲は〈潜勢における雨〉ではない。それはそれ自体としては若干量の水蒸気であり、その水蒸気は、一定の温度や一定の気圧において、厳密にそれがあるところのものである。即自は現勢においてある」
「存在と無」J.P.サルトル


したがって、世界に可能的なものがあるためには、自らの力により自分自身の可能性である存在、つまり対自存在、すなわち意識によって、可能的なものが世界に導入される必要がある。

本講演において、主体性の唯物論的な身分規定を定義するとき、サルトルが〈非-知〉、すなわち前反省的自己意識と、〈なるべきである〉とのあいだの関係を明らかにすることに腐心していることは、たいへん示唆的である。

ルカーチの主体性をあらかじめ決定された過程の目撃者という役割に閉じ込める観念論を主意主義的観念論と批判する。

意志が自由との関係性において二次的なものであり、存在と無において、

意志に価値を大きく与えることは自由を犠牲にしてしか行えない


と結論づけており、主意主義は空虚なものであるのは自明である。

人間にとって主体性にはいくつか次元があり、主体性とはそれら次元の全体化であるとしている。
そしてそれらを認識することなく再全体化されねばならないとしている。

「社会的実在〔現実〕は、機械ではなく、機械を操り、給料をもらい、結婚し、子どもをもつ人のことです。言い換えると、人は、労働者であれブルジョワであれ、おのれの社会的存在になるべきであるということです。そして、人は、まずは主体的な仕方で、おのれの社会的存在になるべきであるということです。」
主体性とは何か? J.P.サルトル


サルトルは、現代にも通ずる階級闘争ではなく、社会構造や目には見えない新たな階級意識の本性や機能を把握することの重要性を訴えているように思える。

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