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系の消失

そらばかりを見上げていた。
桜の木の枝に蕾が固くなっているのをみつけて、その先に一段と紅く香る梅が咲いていることに気が付いた。

人はいさ 心もしらず
ふるさとは
花ぞむかしの 香ににほひける

紀貫之

『古今和歌集』巻一・春歌上 42
『小倉百人一首』35

ひとの心は移ろえど
私の懐かしい場所で
梅の花は昔と変わらぬ香りを漂わせる

僕はどこまでも昇り、春の塵が遠ざかる。

定点の塵から離れると、僕が今どこにいるのかわからなくなりそうになった。それはまるで、座標の全ての基準を消失したかのようだった───系の消失。

世俗的な愛、と、つぶやく。
唐突に車の助手席のガラス窓に映り込む鷲鼻の女の子のフラグメントや泣きながら眠る丸く尖った鼻の妻が遥か彼方で揺れている。

妻の国が戦争になり、友人や家族との分断だけでなく、彼女自身が落ち込んでいた。どうしてか、飛べない白鳥とその白鳥を数年見守ったおじさんの話を聞いたのを思い出して、妻に見せたくなり、去年家族で田尻池へと向かった。多分、僕が見たかったのだろう。
飛べない白鳥は妻ではなくて、僕自身に重ね合わせていただけかもしれない。

その半年後の秋、僕はまたその土地に出張がてら訪れた。亡くなって八年経って、ようやく、そこに眠る友人の墓参りをした。
そうすれば、座標を定めることの意義のように、過去として定義づけられ、上手く処理できると思った。

僕がこんなふうに過去の感傷に浸ると時間が止まる。すると、砂漠の座標が定まり、安心し、さらさらと時々風に吹かれてゆく砂の音が一定のリズムで流れてくる。いつの間にかハドリアヌス帝が愛した廃墟の都市で僕はコンパスを片手にたゆたう。水のない湖のほとりで女の子の影が僕に手を振る。

「ここにいたの?」
「もう何年も前からここにいるのよ」
「そうだったね、ここに居るのはきみひとりなの?」
「わからない」

女の子の影は花の香りがした。

「きみは梅の香りがする」
「あなたっておかしなこと言うのね」

コンパスは北西をさし示していた。僕は自然とコンパスのさし示す方角へと視線をずらして砂丘の丘に多くの瓦礫の影があるのをみとめた。

「あそこはなに?」
「戦争があったのよ、もうずっと前からだけれどね、見ない方がいい」
「ふうん……、どうして?」
「あそこだけじゃない、いろんなところにあるの、見えなかった?」

湖まで歩くあいだにあんな影があったかどうか記憶になかった。

「見えなかったな。あまりにも遠くて、見えなかったのかもしれない」
「見えるものだけ見てたらいいのよ」
「うん」

神々は消え去り、キリストがまだいなかった神の空白の時代、ローマ五賢帝のひとり、ハドリアヌス帝は暮れゆく夕陽を浴びながら黄昏てゆく水の反射の光の中で輝かしい過去を回想していた。彼の溺愛した美しい少年はその反射から生まれたフラグメントにすぎないのかもしれない───僕はもはや光を反射する水のない湖を憐れんだ。

「僕が見たいものしか見えなかったのは水がないからかもしれない」
「周りを見る知恵も機会も余裕もなかったのよ、いまのあなたは足もとを見てないから水が見えない」

僕はあたりを見まわした。
轟音の影、地面が割れた影、空腹のまま横たわる子どもの影、踏みつけられたミミズのような老人影、冷笑の影、権力者の影、血糊のような色のそれらの影たちが僕の全方位に散らばっていて、僕を責めるように声にならない声で喚き出す。

絶叫しながら僕が足元にうずくまろうとして地面を見ると、伽藍堂の漆黒の暗闇だけがどこまでも広がった。

「それは夢よ」

誰かが僕にそう言い、僕はもう一度顔を上げてあたりを見まわした。

水の反射させた木の影と空の雲。
僕は頭を思い切り上に向けてそらを見上げた。
桜の木の枝に蕾が固くなっているのをみつけて、その先に一段と紅く香る梅が咲いていることに気が付いた。

定点を見失って、僕は再び世界に放り出された。
白い月が僕とは関係なく周る世界。

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