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飛びたいということ

巣立ちの練習なのだろうか。
ヒヨドリの雛が一羽、アスファルトにうずくまったり、羽をバタつかせたりしていた。

車道側でいつ轢かれてもおかしくない場所でうずくまる雛。
手で触れないようにして何とか歩道の茂みへと誘導すると、ふたたび羽をバタつかせて、頭上を見ると親鳥らしき鳥が鳴いていた。

カラスや猫にやられたりする事なく、飛べるようになって欲しい。

ロシアによるウクライナ侵攻以来、妻とペア読を何冊かしてきた。
・ヒロシマの人々の物語/バタイユ
・セカンドハンドの時代/アレクシエーヴィチ
・Man’s search for meaning/frankl
・エミール/ルソー
・社会契約論/ルソー
・個の誕生/坂口ふみ

いまは責任と判断/アーレントを読んでいるようだ。

あまり思想書に興味のあるひとではなかったが、一生懸命に読んでいるみたいだ。

アーレントといえば、
労働:生命維持の営み
仕事:耐久性のある使い捨てではないものによる創造
行動:他者とのコミュニケーション
の三つのアクティブVita Activa活動的生によって、人間らしく積極的に活動し、人間の条件として規定しようとする試みを論じた。

「〈活動的生活〉とは、なにごとかを行なうことに積極的に係わっている場合の人間生活のことである」
『人間の条件』アーレント著 ちくま学芸文庫

こうした活動の上でも、ひとは常にあらゆる事象の選択の自由に囚われており、瞬間瞬間、判断して意思決定を下し、選択していく。

アーレントはそうした判断において、常に言葉によって自己で考え判断しそれによって培う倫理道徳をカントに依拠して提言もしていたように思う。僕は天邪鬼なため、自己決定であれ、「〇〇すべき」というのは常にリスクを伴うと考えるため、アーレントひいてはカントには全て賛同はしない。

昨今の日本国内におけるアーレント・リバイバルはなぜなのか?
日本国内における倫理観が、それこそアーレントではないけれど、崩壊しているからなのだろうか?あるいは日本の、あるいは世界的にビッグデータに釣られる全体主義傾向や右化傾向にあるのだろうか?

日本だけではなく、インターネットという形而上学的事件と言っても過言でないテクノロジーの発展により、現代人は倫理を軽視してはいないだろうか?

経済活動、政治、国際関係など、全てにおいて今や欲望の資本主義ありきで、SDGsが語られてもいる。

ヒューマニズムとは、自然への畏怖を忘れた人間の傲慢の現れでもあるが、そこには恐怖をものともせすに立ち向かう勇気と温かい血があるだろう。

意思決定する際に習慣のみならず、《感情》を無意識のうちに優先しようとするのが人間の人間たらしめんところのひとつでもあるように思う。

習慣と感情のセットに対抗するあるいは歯止めのような倫理に考えがちだが、己の習慣そのものが変化したら、考え方に変化が現れて、倫理観も自ら変えていける。

理性と感情の狭間で常に揺れ、葛藤しながら自己欺瞞に陥ることなくいま置かれている状況のなかて、いまできることをコツコツとしていこう。

しかしながら、その為の土壌として、健康と愛する力がなければならない。
この愛する力というのは、愛されてこそ力が芽生えて育っても行く。

愛されたことのない雛は巣立ちすら出来ずに死を迎えるのではなかろうか?
じぶんの力で立ち、羽ばたくための訓練で巣から落ちたとして。
何度も何度もうずくまりながら、羽ばたこうとする雛を親鳥が鳴きながら旋回するのを見て、僕が邪魔しちゃいけない、と思った。

「飛びたい」という気持ちを忘れなければ、いつか飛べるかもしれない。
飛べるかもしれないという希望を胸に逞しく、さまざまなことに対峙しているひとと雛が重なった。

「普通、この種の情感は、むしろ嫌われる。ひとりの女を情熱的に求める男は、その女のために、しかも、情熱にもかかわらず情熱的になっているのである。人は、恋愛や、嫉妬や、憎悪などの作り上げた偏見を、あらゆる手段を弄して証明しようとするような、感情的推論には信をおかない。固執観念症と呼ばれるものや、情熱による錯乱などは信頼しない。」

『ユダヤ人 (岩波新書)』サルトル著

その情熱は本当に己の情熱か?──脱自のための思考。

しかしながら、我々は人間だからこそ、本来性のみで生をくぐりぬけていけるわけではなかろう。時には非・本来な場面があったっていい。

#nowar

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#日常を大事に

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