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村上春樹を読めなくなった

はじめに


 この文章はハルキストでありアンチでもある僕のとるにたらない独り言だ。あらかじめくそまじめの精神でクソほどどうでもいい自慢をしておくと、僕は世界一村上春樹をわかってるという妄想と傲慢で気狂いじみた思いがあるくらいにハルキストだ。あと何度も書いているけれど海辺のカフカまでは今でも好きだし、短編も好きであることに変わりはない。

ノルウェイの森との出会い


 先日2022年2月1日(月)21:00〜BS NHKで村上春樹のノルウェイの森を特集した番組を妻、父、祖父らと家族で観ていた。番組では作家にとってノルウェイの森がいかに大事な作品であるか伝えられていた。僕にとっても、ノルウェイの森は大事な作品かも知れない。村上春樹の著作で1番最初に読んだ作品だったからだ。16歳の時、当時付き合っていた女の子が僕とは比べものにならないほど読書好きな子だった。その彼女がある日、僕にノルウェイの森をプレゼントしてくれた。そこから村上春樹の作品を追いかけて、当時刊行されていたものをほぼ読んだ。また、今でも彼の短編は時々読み返す。
 しばらく追いかけているうちに、僕はアントニオ・タブッキを知り、タブッキに傾倒したり、サルトル、カミュといったフランス文学や哲学に傾倒して行った。そして村上春樹が全く受け付けられなくなった。
 それでも、10代後半らしい想い出と村上春樹を追いかけていた時期が被る事もあって、時々、村上春樹の作品を思い出すし、何かを書いていると、注意深くなっていなければ、村上春樹の文体に近づいていく。

読めなくなった原因


 全く受け付けられなくなってしまった1番大きな理由は、ひとつに僕がもう少年ではなくなってしまったこと。もうひとつには、サルトルらに傾倒し、作家といえどもやはり社会的責任を自ら負い、首尾一貫して、行動することを期待するようになったことがあげられる。あれだけの物を書いている才能ある作家だから勿論何も考えずアナーキズムに浸っているわけでもなさそうだが、とにかく彼は、少なくとも、国内では、自身の考えを曖昧にしている。また、選挙でも投票をしていない。しかし、菅政権のとき、少し意見を述べていた。正直なところ、これまで投票をしてこなかったのなら何も言う資格はない。
 こうした首尾一貫性のなさに僕は村上春樹を読めないというのもある。また作品を通して彼の中での死というのが、何処となく自死的に描かれていたりする点も、死生観の希薄さを冗長するかのように思えてくる。主人公が自己にはとても敏感な割に他者に興味が示せない、孤絶した現代の我々そのものに見えてくる。だから大抵は主人公の喪失感から始まり、「過去」の自分を探し、想い出を引きずり、再生したのかどうかすら疑問に残る再生のしかたで、終わるといった一連の流れしか見いだせない。1Q84からはそこに申し訳程度に、「希望」の象徴のように子どもが生まれるパターンだ。だからもういいかなと見切りをつけてしまっている。
 勿論、彼のテクストに現れる独特のリズム感や比喩は天性のものであり、また夏目漱石のように感情の還元化を読み手に与える点は素晴らしいものがある。
 騎士団長殺しにおいては、彼のこれまでの集大成であると僕は感じた。オイディプスを受容体にバタイユの「内的体験」の刑苦のようにドン・ジョバンニがモチーフになったり、フィッツジェラルドのギャッツビーもどきに思わされたり、時には重奏感からカラマーゾフの兄弟を彷彿させたり、最後にはサルトル「嘔吐」を思い出させるようにして、自身を作り上げに主人公は成長する。様々なパロディが散りばめられているようにも思えたし、村上節も健在でとても面白かったことは確かだ。それでもやはり、ノルウェイの森のときからの建増しにしか思えない部分が大きく、楽しめた反面、期待し過ぎてガッカリもした。
 ひとつ言えるのは、彼は確実にサルトルを読んでいる。それなりに哲学者たちの本もヘーゲルが出てくる作品もあるから読んでいるのだろう。そして1Q84を読む限りでは反マルキシズムなのだろう。しかし彼自身は一向にそうしたことを語らない。小説家と哲学者は違うかもしれないが、まだ平野啓一郎の方が春樹との力量は置いておいて、作家として自身の意見を公にしている分何かと期待できる気がしてしまうのだ。僕の中で村上春樹=モラトリアムとアナーキズムの象徴的作家になってしまっている。

現代の日本文学


 現代の日本文学をあまり読めていない。読んだのは東野圭吾、中村文則、川上三映子、平野啓一郎、辻村深月、原田マハくらいかもしれない。特に本屋大賞には興味が全く湧かない。町田その子ファンの方たちには悪いが、どうしても立ち読みすら無理だ。それなら太宰治が好きな妻には悪いが、僕の嫌いな太宰治を読んだ方がよっぽど時間潰しとしては有意義に思える。太宰治の作品は僕にとっては消耗的だとは思えないからだ(これはひとえに僕が中二病だからというのが関係しているかもしれないが)。しかし、最近の作家の作品は消耗的に「寄り添ってくれる」系にしか思えない。なぜ消耗的に「寄り添ってくれる」系が求められるのか?それほどまでに、弱っている人々が多いのか、弱っている人々をサポートし合いながら他者との関わりを見出し、力強く生きる希望というのが見当たらない。要するに、希望が見当たらない風潮なのだ。それはバイタリティやハングリー精神の「欠如」にも見えてくる。寄り添ってもらいたい時、山本有三の「路傍の石」を読み返して不条理の中を強く生き抜く吾一少年は必要とされない。それを現代日本文学が悪い意味でよく体現しているように思えてならない。とりわけ、死生観の希薄さと超個人主義の中での孤絶感が目につく。村上春樹は現代日本文学において、世界でも大衆文学ジャンルで頂点に君臨する。そして彼のある時期までの作品は傍観者的であり、消耗的でもある。そうした感覚を覚えつつ、村上春樹が好きな自分があまり好きになれない。けれど、村上春樹が好きなのだ。僕の中には、どっちの立場でも自己欺瞞という不思議な意識の裂け目がある。

生の一部としての死の存在


 そうした様々な個人的な思いから、僕は村上春樹がもう読めない。けれど、番組で、「生の一部としての死の存在」ということを強調していた。この点においては、僕はー非常に彼の熱狂的ファンでもありアンチでもある僕でもー共感を覚える。何故ならば、僕の死生観は生の連続の延長線上に死がありりそれは自身であれ、他者はもってのほかだが、全うせねばならず、分断することはならぬというのがあるからでもある。分断することは「生きる」責務から責任逃れし、他者へその代償を押し付けることと等しい。また、生を讃歌したもののみが生の延長線上にある死を受け入れる資格があると僕は考えている。最近ハマっているバタイユ的に言えば、死に至るまでの生の讃歌がエロティシズムであり、沈黙であり太陽への叫びなのだ。
 学生運動のあった1968年、そしてそれらが社会風潮となってしまった1970年。それ以降、恐らく、学生たちというのは村上春樹の主人公のように何かに抵抗、反抗するということはなくなり、従順に服従し、多数決に迎合するだけの主体性を持たないようになっていったのではないだろうか?それと同時に、死生観の希薄さ、利潤と効率を追求するだけの倫理なき資本主義経済によって、労働者たちは消耗的に使われるだけ、超絶個人主義で、他者との関わりがなくなり、孤絶だったりと、どんどん精神的に追い詰められやすい環境が負のスパイラルで出来上がってきているようにも思える。ミシェル・ウエルベックの「セロトニン」の世界そのものかもしれない。

現代の日本の国力衰退と教育


 ノルウェイの森が刊行された当時、まだ日本には活気が残されてもいたようだ。番組で流れていた学生たちの活気が信じられず、思わず一緒に見ていた祖父に、本当にこんな風にみんなやっていたのか?と聞いてしまったほどだ。35年経った今、どうだろうか?例えば、身近な問題でもあるコロナ禍でのウッドショック。高度経済成長期に日本政府は林業を保護しなかったツケとして、国産木材を生産出荷するサプライチェーンが現在放置されたまま機能しない。それに加えて、タンカー不足、高く買ってくれる他の国への生産国からの輸出で日本に売らない傾向。建設業の相変わらずな激しいダンピングや、何十年と変わらない労働環境の悪さ、コスト削減という名目で安全性の軽視、建売やローコストの背景には買い叩かれる職人の労働賃金、何十年やっていても僅か数万程度の収入増。言い出したらキリがないが、それによって我々世代以下は誰も建設業界に魅力を感じない。そして激しい人手不足で頼みの綱は海外実習生の方々。法の整備を進めずに海外実習生を呼び込むという国の失策に近しい施策。誰から見ても民主主義のリーダー力の欠如と国力の衰退はもはや先進国とは言えないレベルであろう。
 ここまでに至っても、自分自身以外の痛みは知った事じゃない、という傍観者的に構えることがスマートとされ、「それはおかしい」という声を上げると「左寄り」と日本人特有のすぐにレッテルを貼る、貼られるのがオチだ。そのように教育も反抗的人間をできる限り作り出さないように巧妙になされている。最近「AI監獄 ウイグル」ジェフリー・ケイン著 というルポタージュを読んでいる。ウイグル自治区が世界でもっとも高度な監視ディストピア社会である様子がレポートされている。しかし、日本はそうしたテクノロジーに依存することなく、長きにわたる徹底した「教育」のおかげて従順かつ画一的思想に統一されかけているように見える。

 番組の中で村上春樹の友人らが村上春樹は
「「あちら側」と「こちら側」の両方を見て、「こちら側」の中にも「あちら側」がある」
というスタンスだと言う。
裏を返せば傍観者であり、僕の直面する現実と比較すると、アナーキズムとも言い難いただのノンポリにさえ見えてきてしまう。そして、こうした日本の「従順で服従させられてることにすら気付きにくい」現代の我々の象徴的な作家にすら思える時がある。

おわりに


 僕はハルキストである。つまり、あまり言いたくないが、村上春樹の熱烈なファンでもあるのだ。村上春樹には期待できないのは分かっていても、どこかで期待してしまう。もう少し愛の再生を大衆文学の頂点に立つ作家として、社会的な春樹の在り方をはっきり提示し牽引してくれるような、生きる希望に満ちた作品を次こそ刊行して欲しいと。

 僕自身には何ができるんだろうか。いつもどこかで燻る。いずれにせよ、これは楽観的で悲観的な僕の独り言にすぎない。

 草原でワタナベ君が直子を思い出そうとしたように、僕もノルウェイの森をくれた子との会話や表情を思い出そうとしてみた。ワタナベ君とは違い、そこに喪失感は今はない。僕は楽観的なのだ。

だから「私は太陽である」と書いたとたん、私は完全な勃起に見舞われる。なぜならば、繋辞の動詞entre は、愛の熱狂を運ぶ伝達手段なのだから。
『太陽肛門』ジョルジュ・バタイユ


ハレルヤ!

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