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My Foolish Heart

時はあっという間に過ぎ去っていく。
二週間ほど前、出張先の北陸で僕は The Coast of Chicago Stuart Dybek(邦題シカゴ育ち )を読んでいた。
須賀敦子全集第4巻 でこの書評を須賀敦子さんがされてもいる。
東欧からの移民が集まる少し昔の50年代〜60年代くらいのシカゴでのひとと街とのとりとめのない話が、可笑しみと郷愁に溢れていて、寒い外の張り詰めた空気をほんの少し和らげてくれた。

ビル・エバンスのMy foolish heartが聴きたくなり、iPhoneを取り出した。

僕の好きなイタリア文学作家タブッキとはまた別のアメリカらしい郷愁だが、青空というよりも曇りや雨の日の夕暮れ時を彷彿させる短編集だ。
けれどタブッキ同様に、時と場の記憶が音楽的建築をしているのが偶然にも共通点のように思えてならない。

本というのは不思議なもので、書物がひとをその書に手招きするのかもしれない。
もちろん、趣向というのも関係あるのだろうけれども。

ダイベックのこの短編集は灰色のコンクリートでできた、けれども決して無機質ではない、ジャズとともに集合住宅を彷彿させてくる。

《時間》というのは熱力学的にいうなら、エネルギーのエントロピー増大の方向と同じ向きに、つまり、過去から未来という流れは《変化》をひとが《時間》という概念にしただけのものでもある。

個人の内にある記憶そのものも環境や状況によって変化していく。
生まれ育った街並み、空気、鳥の騒がしい朝、潮風や青草の香り、建物や部屋の中の香り、季節──そうしたものの記憶というのは少しずつ変化していく。
数十年前の記憶というのが曖昧になっていくように。
それでも確かにその場や時代にあった事実というのは、新聞記事や歴史の本などに残されていたり、街並みや建造物にシミのように残されていたりもする。

“Not an ordinary silence of absence and emptiness, but a pure silence beyond daydream and memory, as intense as the music it replaced, which, like music, had the power to change whoever listened.”
意訳
不在と空虚という普通の静寂ではなく、白昼夢や記憶を超えた純粋な静寂、それに取って代わる音楽と同じくらい強烈で、音楽のように聞く者を変える力を持っていた。
The Coast of Chicago: Stories by Stuart Dybek

けれども最も記憶を喚起させるのは、音楽と小説かもしれない。
長く残る小説の条件のようなものに、その書物が書かれた時代背景というのが流れていることが挙げられる気がする。
時代背景が感じられること≒ひとつの普遍性の大事な条件のように思う。

分譲住宅地用に開けた土地にかなり画一的な舗装され切った広い道路と均一的な建売住宅、唐突に突然現れる大型ショッピングセンター、歩行者がひとりもいない。音のない空とどんよりした天気──北陸の風景。

おそらく、もっと山の近くまで行けば田舎町が広がっているのかもしれない。

街並みの伝統文化というのがどこに残されているのか見出しづらかったのが否めない。

それでも、そんな片田舎を少し歩くと、やはり河川があり、河川敷の川の流れはそう簡単には変わらないようで、古い橋があったりもする。安全性から言えばいつか架けなおさなければならないのかもしれないけれど。そのような古くから変わらない土地を見て故郷を思い出せたりもする。

もしくは、その大型ショッピングセンターが潰れなければ、「あゝ子どもの頃によく買い物に来たな」となるだろう。

けれどショッピングセンターではなく、河川というのは何故か、僕の故郷ではないのに、僕は僕の故郷の川を少し想い描いたりさせられた。

僕の故郷は鳥の騒がしい声がする場所だから、自然の中にいると、おそらくもっとそうしたことは僕の場合多いかもしれない。

街にはそのように個性がある、あった。
いまは、どこもかしこも同じような風景でやや無機質で高度経済成長前後でだいぶ変化したはずなのだけれど、あまりに均一化方向へと向かったせいか、パラドックス的だが、まるで変化がないような、《時間》が死んでしまったように思えるときがある。

この本はシカゴの街の個性と時代背景がしっかりと残されており、そのせいか、人物たちが浮き彫りになっていて、とても良かった。

ウエルベック の地図と領土 で無機質なコンクリートの廃墟にいきいきと植物たちが育っている場面がある。超少子高齢化の進む地方のショッピングセンターの建つ土地というのは将来が単なるディストピアではなく、少し遠い未来の現実に、そのような光景が広がっていてもおかしくない気がする──同性婚がどうこうではなく、今いる子どもたちへのしっかりとした支援、賃金値上げ、海外実習生の方たちのきちんと法整備のうえでの労働環境改善、税金の見直し、地方の活性化と教育や文化の在り方。その先の海外からの彼らの定住移住者たちによって少子化含め国力の衰退をすこしでも食い止めるきっかけになったりするのではないだろうか。これらは何十年と先送りしてきた山積みの直近の問題だろう。

そのようなことをぼんやりと考えていたら、あっという間に1時間が過ぎていた。
僕はドーナツを頬張り、コーヒーで喉に流し込んで、ビル・エバンスを聴きながら店をあとにした。ところどころアスファルトに残された雪は硬い氷となりまばらな街灯を反射していた。

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