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陽炎──ナイチンゲールの金魚

 寂れた街だった──田舎の小さな駅で下車したのは僕だけで、改札口を出てアスファルトの広がるロータリーに出ると照り返しの熱気が身体を包み込んだ。ひとどおりのない手垢の付いた寂れた田舎の何処にでもある街だった。忘れ去られた何かの象徴のような時計塔がタクシー乗り場の真ん中に鎮座し、針は午後一時を示していた。タクシーは一台もない。僕は少し先にある地下道に目が止まり、「春山駅─仙石池行きバス乗り場」という看板が地下道入り口に掲げられていることに気付いた。そのときちょうどせむしの老人が地下道へと歩いていくのが見えた。僕は誘われるかのようにトンネルをくぐっていた。外の明るい陽射しから、薄暗く少しひんやりとしたトンネルの中はコントラストのせいでより一層黒を本当の黒にしている。十メートル間隔に灯された役立たずの蛍光灯が僅かに老人の丸まった背に光を怠惰に投げかけることで、僕はかろうじて、この地下道は出口があるのだ、と当たり前の馬鹿げた現実を認識できていた。地下道自体は入り口から出口まで、おそらく三分くらいだった。それにもかかわらず、その時は、老人がまるで虚構の世界へと僕を連れ去ろうとしている死者の案内人のようにすら思えたほどに、地下道が長く感じられた。死者の案内人、あるいは死者への案内人。どちらでも構わない。地下道を抜けて、もしも、あたりが夜になったとしたら、彼は間違いなく、死者の案内人だ。けれども、そんなことは妄想に過ぎないと確信するのに、そう時間はかからなかった。唐突に眩しい白の世界が眼前に広がって、老人が少し先にあるバス停のベンチに座るのが見えたからだ。
 そうして駅の南口に出て五分もしないうちに、「春山駅─仙石池行き」と電光掲示するバスがやって来た。時間というのは過ぎ去るまでは永遠のように長く、過ぎ去ってしまうとその時間のあまりの短さ、あるいは無為に過ごした長さに驚くことがある。前者は変化量が激しく、後者は乏しい場合が殆どかもしれない。老人が乗り、僕があとに続く。「あんた、見かけん顔やね」と老人が僕に話しかけて来たけれど、僕はただ会釈しただけだった。田舎というのはどこもいまだにこんな風に見知らぬひとが話しかけてくるのだろうか?
「これ、仙石池行きやけど、あっとるん?あんた行くとこ」
と、畳み掛けてくる。渋々、僕は「あ、ええ。大丈夫です」と答えた。
「誰か知り合いおるんか?」と更に質問してきた。「いえ。間違えて春山駅で降りたので、ついでに散歩がてらと思って乗っただけです」と適当に誤魔化した。

 あと何回、この世界を訪れて、このやり取りを繰り返すのだろう──そう考えていると、瞼の奥でバスの光景は唐突に青草のたなびく池のほとりの風景に変わっていた。風がこうして見えるのは陽炎のせいだろうか。楕円形の池の端っこに申し訳程度の橋があり、僕はそこを歩く。いつもそこを歩いて、墓の入り口がこの橋を引き返して少しぐるっと池の周りを歩かないといけないことに気がつくのだ。そうして次から次へと見えてくる景色に集中していき、やがてあの老人がどこで降りたのか、それとも終着点で降りたのか、それとも、結局、降りなかったのか考え始める。2014年のある日、何かを言おうとしたまま、僕をこの偽善と悪意に満ちた世界に置き去りにして、地平線の彼方へと飛び去った鳥を僕は捜しに来たはずだった。渡り鳥が夏の一瞬、世界に取り残されたかのようなこの寂れた街の外れにある池に降り立つ──それを教えてくれたのはあの老人だったはずだ、と遠い記憶でこだまのように繰り返し確認する。どこかで出逢ったことがあるかどうかなんて考える暇もない。今思えば、あれは曽祖父だったのかもしれない。1915年に生まれた曽祖父は、陸軍の学校を卒業し、職業軍人として満州に着任した。2014年に一羽の鳥を見失い、その虚な眼は曽祖父が同年九十九歳で亡くなったとき、涙を浮かべるでもなく、ただ、彼の存在が不在へと変わっただけであることをぼんやりと直感的に理解し納得し安堵もしていた。もう真夜中に悪夢にうなされる彼の唸り声や奇声を聞かないことは、彼にとっての平穏の訪れを意味していると思えたのだろう。晩年から突然、彼はそれまで硬く閉ざしていた口をカラカラにしながら僕らに満州や中国でのことを話し出し、1945年の終戦前後の武蔵野を語り、目を閉じる。それが語りの終わりであることを僕らは知っていた。何度も同じ話を聞かされ、僕は少し飽きてもいた。ただ、彼の愛した軍馬の「アオ」の話になると、いつも僕はアオの死に際を目を輝かせながら聴き入っていた。
 一枚の鳥の羽がどこからともなく舞い落ち、僕の風景は墓になる。あたりはすっぽりと藍色のそらに吸い込まれ、ただ黄色っぽい白い月が丸く頭上に浮かぶ。鈴虫とカエルが交互にあちこちで静寂の声で鳴いて、老人がランタンを掲げて、僕と同じくらいの歳の子を照らす。横顔は、まっすぐに天を仰ぎ見て、少し微笑みながらまた俯くと、長いまつ毛が頬に影を作る。僕はその子の《名前》を思い出そうとして、瞼の奥でいつも、もどかしさを感じるのだ。僕が《名前》を思い出せなかったから夢から醒めるのだ。僕が《名前》を付けて、呼んであげさえすれば、消えることもないのに、いつも、僕は思い出そうとしかしない。やがて土に落ちていた羽は鳥になる。そうして、思考──鳥が僕に伝えようとしたことについて──の終りがやって来る。

誰にもわかってもらう必要なんて無い。
僕は、誰かに、わかって、もらいたい訳じゃない。
変わり者で、気が狂っていて、男とも、女とも、ミミズとも、萎れた汚らしい花とも寝れる。浅黒い肌、真っ直ぐじゃない髪、平べったい眼、厚いだけの唇と太陽に向けてパックリと割れた前頭葉から勃起した神経。誰かに優しくしてあげていたい。ただそれだけなのに、シュメール人の発明した暦が労働を産み落とし、貨幣が神経を麻痺させて右目で監視し左目で暴れて右手で押さえつけて左手で脳が飛び散り原型を留めないほどに殴り続ける。勝つためには支配しないといけない。力のないものや変わり者は何をしでかすかわからないから支配するか、あるいは支配されていないと皆不安になるのだ。理解するのは面倒で、理解されるように細切れにして雑にまとめないと誰も理解しない。理解しようがしまいが、理解されようがされまいが、誰かを傷つけようが傷つけられようが、親しみ深い空間が破壊され有機体が無機物に変えられようとも、そんな事に世界は無関心で無慈悲に回り、太陽は膨張し続ける。

僕は可笑しくなって笑って、笑って、笑って、笑って笑い続けた。世界の深淵に向かう重力そのもののように僕の渇いた音のない笑い声が響き渡り中心が見えてくる。

誰かが名前を呼んでくれるまで、
目を閉じていたい。
目、を、閉じて、いたいんだ。

天使がやって来て、「アスファルトに寝そべって、干からびたミミズみたいになって車に轢かれて、やがてそれはただの滲みになるの」──そう僕に言うと、彼女は粗大ゴミのような僕を虚構から引きずり出して、僕らはナイチンゲールと尾腐れ病の金魚になった。

ナイチンゲールが悲しまないように神さまにお祈りし、ありとあらゆる名前を付けてあげた。名前を付けること、呼び合うことの高尚さ。すべては陽炎として消えていくのに、僕は《固有の生あるいは死》にしたかったから愛を込めて名前を付けてあげた。

それは夢よ

瞼の向こう側で懐かしい声がした。五十億年目がやって来たのだ──太陽が膨張し地球をすっかり飲み込む瞬間、灼熱の白い世界で、僕はかつて海のあったはずの渇いた砂漠に、鳥の亡骸を抱きしめて立ちすくむ。

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