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ルサンチマンに片足突っ込んだ
Instagramの趣味アカウントお休み
これはかなりネガティブな駄文。
よく、ここからは、というクリックするまで記事が見えないのありますよね?read moreみたいな。あれが使えたら、使いたいくらい、駄文。
Instagramの趣味アカウントを楽しんでいたけれど、少しお休みにした。
Twitterは元々、新刊情報やnoteや読書メーター連携や海外ニュースと地震速報用であまりアプリ自体開かない。
趣味兼日常垢として開設し、使用感
はじめは美人妻自慢をしようという他人にとっては、見る価値も時間も無駄かもしれないような稚拙な目的だった。
そもそも、俺にとっては、妻は宇宙一やる事なす事が可愛いらしく、何しても可愛い!!!
家族自慢を兼ねた趣味垢を一年半ほど続けてみた。
その間、創作される方々とコミュニケーションが生まれた。
何度か、彼らの提示してくれたお題に沿って物語を創作しあっていた。
そして結果、独りよがりな苛々と自己欺瞞を覚え、カクヨムでひっそりと続けるように。
俺の欠点が助長されたストーリー
まず、俺のあげるストーリーが死ぬほどウザい。
筋トレジム風景でフォロワー減
呼ばれてもいないのにハッシュタグとメンション付けあってるのが何だか羨ましく、勝手に参加しはじめた。
たまに主催にガンスルーされるも、俺はひとり満足し、反比例的に、ひとり、またひとり、とフォロワーさんは減る。
そりゃそうだ。読書アカウントっぽい投稿で上裸半身晒して「ジムです!」+bgmにうるさいラップ、そりゃ減るでしょう。
筋トレ垢なら違ったかも知れない。
アブローラー事件もあった。
正確には事件ではないかも知れないが、俺的には、反省の意味で、俺やっちまったな感。
「アブローラーで俺は腹筋鍛えたことはなくて、レッグレイズとかダンベルベンチかフライしていたらついた。ついたというか、ぶっちゃけ、減量がキーだと勝手に思ってもいる」
言わなきゃいいのに、思ったままにこれまたハッシュタグで言って、ドン引きされる。
空気をガン無視の俺。
ユルくマイペースで楽しんでいらっしゃる中、人によってはウザいof the ウザいかも知れない。
でも本当にそうなのだ。食事制限と減量がかなり重要な気がする。俺は素人だから間違えてるかもしれない。
デリカシーとは?
最後にスルーされたのは、コーヒー作ったら美人妻に飲まれて減っていた、とかいうのを筋トレと無関係なのに筋トレのハッシュタグつけて惚気てたやつだ。
コーヒー味見してる妻、可愛いかったからヨシ。
今まで筋トレを数年やってきて、誰かに自慢したことがなかった。筋肉自慢したい、見られたい、とも思ったことがなかった。そもそも、職的にビール腹でもマッチョ多い。
でも、いざストーリーにあげたりしてみると、反応がもらえたりして、勝手に俺は喜んでいた。
こうして、振り返ると、めっちゃウザがられとったやろうな、と思うけど、俺はかなり面白かった。
昆虫探しで蚕に夢中になる
蝶々は苦手だけど、それ以外は普通に男の子はみんな好きでしょう。
勝手にこれも参加した。
気づけば妻に嫌がられるくらいにYouTubeで昆虫飼育の動画を漁るまでになっていた。
昆虫の苦手な妻には相当ウザがられた。
でも、かわゆいのだ。
何がって?
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これも、ハッシュタグの主催の方には恐らく毎回蚕か自宅の秋田犬のケンちゃん、あるいは、カナヘビ、あるいは日本トカゲのどれかのみでウザさMAXかもしれない。
なんかもっと珍しいやつ探せよ、と。
残念ながらセミはまだ居なかったのが心残りだ。
はっきり言って、昆虫探しとか20年ぶりに近いのでは?
図鑑的なストーリーで初めて知る動植物。
俺の中で、蛾がキモいから可愛いへ変わったのは彼らのお陰でもある。
これも面白かった。というか、ハッシュタグ付けるために虫を探していた。
本の読み合い
投稿された本の感想を拝読して、「俺は別の意見持ってるから、聞いて聞いて!」と、内心めちゃくちゃやる気満々に頑張って同じ本読んで、感想をどちゃくそまじめに書いたりした。
何しろ俺の周りに本を読むことが好きな人間といえば祖父くらいで、話すと東大紛争のことか経済のことになる。
祖父に本の感想や創作を聞かせたこともある。
コーザリティが弱い
文章と文章のストリームがしっかりしてない
トドメは
文章を書き慣れていない感じがする
そこまで書いてコピペされたら馬鹿げてる
などなど。
かなり辛口の批評がもらえるため、見せるのをやめた。
決して俺の方が良い感想書ける!とかそんなつもりは毛頭なく、俺の感想も読んでコメント欲しいにゃん☆
とおもっただけなのだ。
ただの構ってちゃんでキモい俺。
と、何度か我に返りつつ、冗長な駄文を押し付けるかの如く投稿。
挙句、俺の好きな思想家たちを無理やり読んでもらったり、ぶっちゃけ、今だから言うと、サルトルはニーチェ、ヤスパース、フッサールらを大雑把にでも読んでないと、ちんぷんかんぷんかも知れない。
けれど、読んでくれた方々には、そのことを最後まで言えなかった。
それでも、彼らのお陰で、座右の書とまでになった、バタイユの『太陽肛門』や『有罪者』などバタイユに関してはほとんど読めた。『内的体験』や『エロティシズム』。バタイユを好きになれた。
タブッキも、何度目?くらいに再読しできて、いざ紹介したい!というスタンスで書くとあまり見えてこなかった魅力や感想が俺の中で再発見できた。
俺の周りにいないだけで、結構まだ読書好きな人たちもいるのか、と嬉しくもなったりした。
タブッキとシーズー犬と秋田犬に関してはハッシュタグを検索しまくっていたと思う。
俺のおすすめリールに表示されていたのは大量のシーズーか秋田犬。
こういうのはSNSの利点かも知れない。
本にまつわる写真をふたつ投稿したら自撮りか他撮り。
3回に1回、俺のドヤ顔。
なかなか楽しくやっていたはずだった。
それで俺はどうなったか
でも、ここまで読んでくれた奇特な読者諸君ならとっくに気づいてくれているであろう。
要するに、俺には自己満足+ナルシスト+自己顕示欲が拍車をかけてきただけの時間、とも言えるのだ。
そもそも、27歳、妻子持ち、理屈っぽくウザそうな男の読書の長い感想を誰か読んでハッピーになれるんだろうか?
他のひとはみんないいねとコメントが短いキャプションにつく。俺はめっちゃ頑張って書いても、なんで、意見もらえないんだろう?と悩んだりもしかけた。
妻はちなみに、「〇〇のは目が痛くなるし、頭痛くなる気がするから読まない、アハハ」
である。
俺はなんだかんだで、妻が読むかもしれない、と思い、ところどころに、妻のことも挟んだ。
挙句、妻を笑わせようとして短い創作も書いた。
彼女に怒られたことはあっても、面白いと言われたことは一度もない。
自撮りに至っては、妻くらいだ。キャッキャ笑って面白がってくれていたのは。
本屋大賞系
そして、たまに流れてくる俺があまり興味持てない本屋大賞系の本。
しかしイイネと思ってないのにイイネする自己欺瞞。
俺はいいね欲しい訳ではなくて、意見交換がしたいのに、気づくと、自分も意見を持たない内容にいいねしていくようになった。
単純に俺が意見を持てなかったら、いいねしなきゃいいね。
2022年2月下旬
そこへ来て、2月の妻の祖国時事問題。
2月25日、俺はバタイユの『ヒロシマの人びとの物語』と『魔法使いの弟子』を再び手に取ってずっと読んでいた。
あれから毎日色々と勉強させられた。
両国の歴史、地政学に軍事力、思想。
他の国での紛争や難民、子どもたちの状況。
何度か妻と妻の友人たちとデモに参加もした。
ハッシュタグにはnowar。
そうした事について真剣に問題意識を持って、読書する人たちはわずかながらいらっしゃった。
無論、それが本当に真剣なのかどうかなんて、SNSからじゃわからない。
それでも、ああ、こういう事に興味持って書く人もいるんやなと、どことなく勇気づけられたりもした。
身近な人のことでこうした時事問題に触れると価値観は変わる。
けれど、当事者意識がなかったり、触れたくない人だって当然いるのだ。
これは時事問題だけでなく、選挙のことでもそう。
時々、じゃあ、何のためにそんなに沢山本を読んでるんですか?と聞きたくなった。
隣の国のジェノサイドもそう。
身近なところで悲惨な現状が起こっていても、「自分には何もできない。写真は撮るし、本を読むし、美味い食事、肉もサプリメントも摂るけど、自分には何もできません」
ってなるのかな、と流れてくるキラキラを見て思ったりもした。言わないだけで色々やってたりするかもしれない。あるいは、言ってるだけで何もしてないかもしれない。しかしそんなのはわからない。
デモ参加者の妻の友人らは
国に帰ればどうなるかわからない。
知ってもらうだけでも勇気づけられる。
そう言ってくれた。
こういう内側から声をあげれない、外側から声を上げるしかないというのは、紛争地域や抑圧された国々では多いと思う。
妻の祖国だけでなく、東アジアー東南アジアもそういう地域はたくさんまだある。
アフリカだってそうだろう。
デモ参加と寄付はできる時出来ない時あるが、ハッシュタグをつけてSNSに投稿して、知ってもらえたらとも願いながら、投稿を続けた。
しかし、メンタル的にやられているひとがずっとそうした情勢不安定な時事ネタ投稿ばかりを押し付けられてきたら、どうだろうか?
俺が投稿すると誰かが知ってくれたり、逆に嫌な気分になるかも知れない。
差出人は宛先を選べない。
振り回される俺
こうして、俺は、かなりネガティブな感覚や自己欺瞞に陥りかけ、それでも自己顕示欲だけはいっぱしに育った。
ある投稿でかなりそうしたことに対して批判的な強めの言葉を見かけた。
ちょうど、ウザい惚気ストーリーをスルーされ、落ち込んでいたのもあり、「これ、俺に言っとるやんけ」と受け止めて、メンタルはずぶ濡れに。
つまるところ、「俺の信念みたいなものをSNSに夢中になり始めた事によって、忘れかけたからどうでもよい事に振り回されかけていた」ということかもしれない。
無駄な時間とも言えなくもないけれど、それなりに楽しくやっていた俺の読書専用Instagram。
このまま続けていたら、アイロニカルをシニカルとニヒリズムには持っていけても、ユーモアには転換出来ないし、俺自身のユーモアが自ら削ってしまう。
心に余裕がないときはSNSはあまり良くない。
それに次から次へと一時的な刺激は加速していき、もっと、もっと、になって、くだらない自己顕示欲が俺の場合、立派になった。
俺の何気なく使う言葉や写真で見ず知らずの人が楽しくなれるならそれに越したことはないけれど、逆であったり、あるいは、俺が本来性を見失って意図しないものに魅力があると感じていると錯覚したりするのは、おかしなことだ。
もっと色々とあるが、投稿をあらかたアーカイブして、一旦、休む事にした。
本にまつわる投稿は真摯に丁寧に書いてきたつもりだ。
そこに、真摯に読んでコメントを書いてくださった方々もいらっしゃる。
なので削除はせず、アーカイブした。
突っ込んだ批評も頂けるようきちっと書きたい欲もまだある。
それをどのプラットフォームでやるのがベターなのか決めかねてもいる。
でも、意図せず他人の言葉や写真は受動的にこれ以上受け取りたくない。
自分が本当に興味ある記事や写真を自分で選んで好きなタイミングで見たい。
デジタルデトックス
自分の得た知見を誰もがアクセスできて大小社会問題から身近な問題までを一緒に考えたりする知的空間作りはしてみたい。SNSじゃなくて地域の子どもたちと。
憲法改正がいよいよ始まるかもしれない。
2014か2015年の二十歳を超えたくらいの頃、憲法改正案反対のお話をある作家の方と祖父を交えて直接お聞きする機会があった。
当時はあまり理解できないこともあったし、時間的な余裕もなかった。
その時より今は少しだけ視座も高くできつつある。
教育や海外実習生の方々の問題もかなり身近な問題でもある。
現代フランス思想よりもルソーの社会契約論を読んだりラッセルを読んだり、ヒントを自分なりに得たい。
過去50年の日本経済や政治について、きちんと調べて自分なりの意見の裏付けも欲しい。
誰かがまとめたものではなくて自力で咀嚼するには少し時間も必要だが、フレキシブルな脳にしておかないと学べないことばかりだ。
ルサンチマンに片足突っ込んだ状態は、思考を停止させかねない。ベクトルを軌道修正するまでSNSとは距離を置こうと思った。
学び、書くことは棘の道だけれど楽しい。
文章を自己表現のひとつとするなら、アリ・スミスみたいに問題提起しながら、最後はユーモアで締めくくれるようにしたい。
視座高くして考え抜いて、日々大事に生きないと。
受動的なデータに踊らされてたら信念を見失いかけやすいし、優しい文章は書けない。
ペンと紙でいいじゃん。
どこかでそんな声がした。
世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。
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