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とりとめのないこと2023/02/10 宛先のない手紙──Introducing Laura Fygi

たとえば僕のいくつかの故郷と街。

相変わらず外はしとしとと雨が降ったり止んだりしている。いつもなら鳥たちの囀りがうるさいほどなのに、今日はひっそりとしている。都内では雪が降っているようだ。海沿いのこの街はまだ雪は降っていない。

来週のある日までに仕上げないといけない木造建造物の図面と数字が映し出されたディスプレイ。意匠図を元に実施した構造計算、基礎計算は最終フェーズにきており、先週レビュー済みだった───ここまでこんな風に現実の僕の日常を書くと、本たちのことはさっぱり考えられなくなる。

だから僕は自分をコントロールするために数回休憩をとる。目をつぶる時もあれば、ひたすら歩く時もある。現場だと現場周辺の遠くを、心を無にして、見る。あるいは、ジムへ行く。

三年ほど前、ウッドショックが少しずつ顕著になりはじめたころから、建築法規内でのコストダウンのための構造をかなり厳格に考えないといけない。去年の時事問題がそこに拍車をかけてくる。意匠設計者とのあいだでコミュニケーションをよく取りながら相談するのだが、たまに上手く両者でいかなかったり、設備設計者に柱のことで色々と指摘を強く言われたりと踏んだり蹴ったりな時もあったり、それでもうまくなんとかまとまると、一段落つけて、遠くへ行きたくなる。現実は、同時進行のものがあったりしてそんなことを許してはくれない。僕の業界だけでなく、どこも似たり寄ったりだろう。そんな時は、本を読んで世界を旅する。そうして僕は散歩する。つめたい雨の午後、傘をさして赤いポストのある駅へと歩いた。

ふたつの偶然の音楽へと繋がることを僕は知らないままに、そのときは一通の手紙を持って歩いていた。戻ったらレビューの漏れがないか見ないといけない。それまでのみじかい散歩道で無数のネガフィルムから僕はあの日のスコールがどんな風だったか心の中を必死になって探していると、どこからかジャズシンガーのアルバムが流れてきた。Laura FygiのIntoroducing。ハスキーなMy Foolish Heartを聴きながら、遠ざかってゆこうとする風景たちの記憶を必死に手繰り寄せ、想い出そうとした。

ほんの数日前の子どもたちとの本屋さんでのできごとやら、家族の問題が映画のワンシーンのフラグメントのように立ちあらわれて、僕はそのネガフィルムを払いのけて、マニラの祖母の家でのフィルムを取り出した。

雑然とした部屋に子どもたちから老人までが大音量のアメリカ映画を流すテレビを食い入るように見つめる。
そこには親戚もいれば遠い近所の知らない子どもたちも居て、祖母だけが忙しく動き回る。母の弟は仕事をクビになったのか24時間そこにいて、ときどき、女の子を連れてきてもいた。
どこにでもありそうなマニラの中流以下の家庭で、数年間を過ごし、母に連れられて数ヶ月ごとにそこに戻ったりした。日本に戻ったら、日本人向けの英語教室をやろうとそのころ企んでいた母は何を考えたか、教養をつけたくて、本屋にあしげく通った。

タガログ語の本なんてない。あったとしてもかなり高価だろう。売られている本はほぼ英語の本で、母は僕を連れて立ち読みしに行く。立ち読みといっても、外にイスがいくつか出ていて、そこに座り、読み終わるまで居座る。何を彼女が読んでいたのか僕も本人も覚えていない。

うだるようなマニラ特有の暑さの中で僕はおとなしく座っていたのを覚えている。安っぽい青い背もたれと座面の折りたたみ式パイプイスを店の外に並べなおすと、おばさんが僕にアメをくれる。近所の知らないおばさんたちまでが小さかった僕によくお菓子をくれた。

日本人たちの通い詰める高層ビルが建ち並び、一本道を入ると、雑然とした僕にとって親しみ深い長屋の光景が路地いっぱいに広がる。スコールのような雨が夕方になると降る。母が慌てて僕の名前を叫びながら、本屋をあとにする。

1990年代が終わりを告げ、2000年という新しい世紀が始まった頃までをそんな風に過ごした。お菓子を探すより誰かの使い捨てた注射器が転がっているのを探したほうが早かった路地裏も、今は再開発計画が進み、少しずつ整然としていて、長屋もあまり残っていない。

冷たい雨に手をかざし、僕は赤いポストにエア・メールを投函した。



曲が終わり、Go Away Little boyが流れる。

When you are near me like this
You're much too hard to resist
So go away, little boy,
before I beg you to stay

行かないで、僕の思い出せない風景たち。

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ミランヨンデラさん、素敵なアルバムを教えてくださりありがとうございました。

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