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[全文無料公開]「怒りの火を、希望の灯へ」(灯台より特別号)から、刊行人あとがきをば。

書誌情報

タイトル:灯台より特別号「怒りの火を、希望の灯へ」

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発行形態:PDF版/紙版の2種類

価格
PDF版→500円(税込)
紙版→1000円+税

判型:A5版

目次:
王谷晶「コロナ時代の愛」
栗原康「コロナだよ —— アナキズムはパンデミック」
後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION) インタビュー 「何事もない日々」を取り戻すための、声と緩み
刊行人あとがき
(表紙イラスト:惣田紗希)
全56p

紙版には特典として表紙イラストのポストカード(葉書サイズ)がつきます。
表紙に採用されたオフホワイトのほか、オレンジ主体のものとブルー主体のものの、計3種。そのうち1種がランダムで封入されます。



以下、刊行人(関口竜平)によるあとがきです。1万字超えてます。

あとがき


 移民者ラッパーMoment Joonが「俺にはいなかった大人になる」と歌っている。
 二〇二〇年三月にリリースされたアルバム『Passport & Garcon』に収録された「Garcon In The Mirror」にある一節だ。どういった文脈で紡がれたリリックなのかは曲を聴いて理解してもらいたいのでここでは説明しないが、彼のこの言葉が、この覚悟が、いま僕の原動力となっている。というか、いまさらになって気づいたのかよ自分、という感じだ。ほんとうはもう「俺にはいなかった大人」になってなくちゃいけなかった。でも遅すぎることはない。少し言い換えよう。僕らはいつだって「いてほしかった大人」になれる。あるいは「こうありたいと思える大人」になれる。だからいつからだってはじめる。はじめていい。

 今回、執筆とインタビューを依頼した三人は、僕にとって「いてくれてよかった大人」だ。もちろん「いてくれてよかった大人」はほかにもたくさんいるが、タイトルにも設定した「怒りの火を、希望の灯に」を体現してくれるひと、しているひとは誰だろうと考えたとき、真っ先に浮かんだのがこの三人だった。いや、ほんとうのことを言うと、最初にこの本を出そうと思ったときはもっと怒りに震えていたから、「死ぬな! 怒れ!」みたいな仮タイトルを据えて原稿を依頼している。でも軸はブレてないと思う。怒ることは、というより喜怒哀楽のすべてを手放さないということが、人生においては大事なことだから。そしていまは、特に怒るということが切実な意味を持つものだと思ったから。
 理不尽な支配。横暴な権力。有形無形を問わない、あらゆる暴力。それらが蔓延る世界は、どう考えても間違っている。そしてそれらに抵抗するためには、どうしたって怒りの感情が必要になる。だけど僕たちはその怒りを手放すように強制させられているのではないか。新型コロナが流行し、政府が真摯さのかけらもない(と思える)対応を繰り返しているなかで、そのことがこれまでよりもっと顕著になったように思えたのだ。「死ぬな! 怒れ!」というのはそういった文脈から(熱々のシャワーを浴びているときに)生まれている。僕たちのことをまったく見ていない政権に対して怒りの感情をぶつけること、より「しずかな」言葉で換言するなら、批判をすること。もちろんその批判には沸々と滾るものが内包されているのだけど。
 とにかく僕はそのときとても怒っていて、そしてシャワーを浴びているせいか思考が冴え渡っていて(わかるひとにはわかると思う)、これは絶対に忘れちゃいけないやつだ、カタチにしないといけないやつだ、と必死に思考を持続させたまま自室に戻り(シャワー中の思いつきはえてして忘れがちだから)、こういう趣旨の本を作るぞ、このひとたちに原稿を依頼するぞ、と覚悟を決め、その日のうちに依頼文を書いたのだった。それが四月の半ばのこと。残念ながら「怒らなければ死ぬぞ」と思わざるを得ない状態はいまもまだつづいている。

 大事なことだから何度でも言うが、ひとは喜怒哀楽をどれかひとつだって手放してはいけないのだ。感情、生活のなかでその時々に抱く思いは、本来、何人からも侵害されてはならないものであり、奪われていいものでもない。ひととのかかわりにおいて、あるいは物事との出合いのなかで、僕たちが感じるあらゆる「何か」を大切にすること。もちろん、大切にすることのなかには「発信」することや「表明」することも含まれてないといけない。そしてそういった「ていねいなくらし」的なものを追求したり言及したりするときに省かれてしまいがちなもの、忌避されやすいものが「怒り」だ。でも僕にとっては(あえて強い表現を使うけど)怒りをぶちまけることだって「ていねいなくらし」に必要なことだし、よりしあわせな人生を送るためにそれ=「ていねい」があるというのなら、なおのこと怒りを手放すわけにはいかないと思った。僕たちのしあわせなど一切考えてないひとたちが、僕たちの生活を支配できる位置にいるからだ。あらためて説明する必要もないほどに、明白に。
 だから僕たちは声をあげないといけない。政治や社会に目を向けて、それらについて語ろうじゃないか。でもそれは、多くのひとにとっては難しいこと、高いハードルを超えないと実践できないことだということに、僕たちはほんとうは気づいている。だけど僕たちはどうしても怒ってしまう。なぜ政権を批判しないんだ、社会に関心を持たないんだ。確かにその怒りは必要なものではあるけれど、でもそれじゃ多くのひとは動かない、動けないと思った。これはダメな怒りかたなのかもしれないとも思った(より正確には、それだけじゃ足りないと思った)。僕自身がそうやって怒りつづけてきてしまったから。だからもうひとつ、別のやりかたを見つけないといけない。怒りを向ける相手はそっちではないのだし。

 じゃあどうすればひとは動くのだろうか。いや、「動いてしまう」のだろうかと考えたときに、それは「表現」だ、と思った。芸術と言い換えてもいい。とにかく僕たちは、何かすごいものに出合ったときに「動いてしまう」生きものだ。誰しもそういう体験があるだろう。本、音楽、映画、絵画、なんでもいい。何かすごいものと遭遇したあとに、「何かやらなきゃいけない気がする」と思ったり、「自分にもこういうものが作れるんじゃないか」みたいな無根拠だけど強い自信が湧いてきたりしたことが、誰しもあると思う。ないというのなら、それをいまから作るから、出合ってくれ、そして「動いてしまってくれ」と思う。
 とにかく僕は「動いてしまう」ための何かが、つまり後押しのようなものが必要だと思った。大丈夫だよ、あなたのその思いは、あなたがいま抱いた感情は、恐れることなく外に出していいものだ、誰にも否定されることなく尊重されるべきものだ、なぜならそれらはすべてあなたの「しあわせに過ごしたい」という願いのあらわれであり、そのために必要なものでもあるからだ。こんな言葉をかけられたと、意識的か無意識的かにかかわらず感じてしまう何かが必要だと思った。この本が、あるいはこの本のなかにある一節が、読者にそう思わせるものになっていることを願っている。僕がMoment Joonの曲を聴いたときにそう思ったように。そうだ、僕は「いてほしかった大人」になるんだ、と。そして「かっこいい大人」になれるんだ、と。

 僕はそうやって生まれた無根拠な自信に突き動かされてこの本を作ったし、いまはこれを書いている。だから無謀にも、あるいは無敵にも、まだまだ書きつづけようとしている。いまさらかもしれないが、これはただのあとがきなんかではない。王谷さん栗原さんの原稿と、後藤さんとの対話から何かを受け取った僕が、それを受けて新たに生み落とす思いであり、感情であり、表現だ。三本ともすごかったでしょ? こりゃなんかやらなきゃいかんぜよ!ってみんなも思ったんじゃないかな。どうだろう。とにかくここからは、この本を作り終えて思ったこと、感じたことを記していく。あとがきがいちばんすごかった、と言われることを目標にして。

 
 王谷さんは怒りをきちんと言葉にできるひとだ。そしてその怒りをユーモラスなものに変換することもできる。自分のなかに芽生えた、理不尽や横暴に対する怒りの感情を吐き出すこと。私たちは怒っている、あるいは傷ついている、そういったことを激烈に表明したり、論理的な正当性をもって批判することを、率先して実践してくれている。もちろんその怒りや批判が常に正しいとは限らないし、それらが誰かを傷つけてしまうこともあるだろう。でもそういったときに王谷さんはそれをちゃんと認めて、何がよくなかったかを考え、今後に生かそうとしている。そういった姿を(主に)Twitter上で見てきて、僕はそれがほんとうにかっこいいと思っていて、だから今回も執筆の依頼をした。
 そうして送られてきた原稿は、想像以上にシリアスなものだった。ふだん王谷さんの書くものを読んでいるひとなら感じるのではないかと思うのだが、今回、軽妙な言い回しがほとんどない。いや、登場する余地のないものになっていると言ったほうがいいか。もちろん「コロナ時代の愛」はエッセイというより小説(の設定を考案・説明しているもの)だから、その物語設定がシリアスなものであればユーモアが登場する機会も少なくなる。しかしそれにしてもここまで「苦い」ものになるとは思っていなかった。そしていまだに僕は、この「物語」あるいは「現実」をすっきりとした言葉で解釈しきれないままでいる。飲みこめないままでいる。
 だからこの段落を書き進めるのに非常に苦労している、と書いてから、そうか王谷さんもこんな感覚のなかでこれを書いたのかもしれない、と思った。愛は始まらない。ゆえに物語も始まらない。ならば僕たちはどうしたらいいのだろうか。何度でも立ち返ろうと思う。それぞれが抱いた思いや感情を手放さない、ということに。王谷さんはそれらをこの原稿のなかに描いた。それを読んだ僕たちは、それぞれが抱いた感想を、感情を、うまく言語化できないままでいる何かを、それぞれのやりかたで大切にしていくしかない。ウイルスと、システムに、食い潰されないように。

 そんな物語=現実に応答するかのように栗原さんは言う。ウイルスとシステムはこっちから食い潰してしまえ、いや自分がウイルスになってしまえ、と。栗原さんに王谷さんの原稿は見せていないから、この繋がりには驚いた。とはいえ栗原さんならそう言うよな、とも思うので、なるべくしてなった応答のようにも思える。
 栗原さんの魅力は既存の概念をぶっ壊してくれることであり、かつ、ぶっ壊していいんだと僕たちに思わせてくれるほどの破壊力を持った文章を書いてくれるところだ。アナキズム研究家であり、その実践も怠らない栗原さんの生きざまから、僕たちは根拠のない自信と無尽蔵の勇気を得ることができる。ウイルスに怯えて生きる僕たちに、むしろウイルスになれ!と言い放つ。国家という大きなシステムが要請する「自粛」「緊急事態宣言」という小さなシステムによって守られているはずの僕たちに、栗原さんはこう言う。それは強制された「生きのび」であって、おのれの生を「生きる」ことではない、と。
 もちろんシステムに従うべきときもあるだろう。しかしそのシステムが安心を提供しているとは言い難い、というかシステム側の欲望のためにシステムが濫用されているような状況において、それに従うことは何を意味するのだろうか。かつて栗原さんは「一丸となって、バラバラに生きろ」とも書いていた。この言葉を胸に刻みこんでほしい、常に意識して行動してほしい。そしてこれはきっと、やはりここに繋がってくると思う。ひとりひとりの喜怒哀楽を手放すな、ということに。
 そしてもうひとつ大事なことがある。僕たちは真面目すぎるということだ。いや、もちろん真面目なのはいいことだ。でも真面目に生きるひとほど苦しめられて、逆にズルい生きかたをしているひとほどうまい蜜を啜っているような社会に、そのズルい生きかたをしているひとたちがしようとしている、いやもうなっている。そんな社会はクソくらえだろう。だからそんな社会=システムには抵抗していい、反抗していい。そのための勇気を、栗原さんの言葉は与えてくれる。
 いや、まだぜんぜん勇気が出ません。そんなひとは栗原さんの本をたくさん読んでほしい。たとえば『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』(岩波新書)なんてのがおすすめだ。さっき引用したものもこの本からだが、これはほんとうにすごい。心の底というより身体のセンターオブジアース(?)からマグマのように熱い何かが爆発炎上し、そののち降り積もった火山灰は栄養豊かな地層となり我々の人生を実りあるものにしてしまうだろう。ちょっとなに言ってるかわからないかもしれないが、読めばわかるから読んでほしい。うぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉ~♪ タオ!

 後藤さんには最初、ほかのふたりと同様に原稿の執筆を依頼していた。しかし、このテーマならインタビュー形式にしたほうが「間口」が広がるし、関口君が届けたいと思う層のひとたちにも届きやすいと思う、という後藤さんからの提案を受けて、この形式になった。
 白状してしまうと、「マジ? インタビューするの? 画面越しとはいえ会話するってこと? 後藤さんと? どひゃあ!」となった。衝撃の展開すぎて脳が凍った。王谷さんと栗原さんにお仕事を依頼するのだって相当な勇気を必要としたが、インタビューってことは原稿のやりとりだけではない。そもそもインタビューなどしたことない! どどどどどー!と慌てふためき、慄いた。端的に言えば、ビビった。僕のなかの小型犬が得意のキャンキャン吠えをすることも忘れて尻尾をお股に吸いつかせていた。かつて学生時代には軽音楽サークルのライブでアジカンのコピバンもしたし、いまもひとりのファンとして曲を聴いたりTwitterを眺めたりしているひとと話すのだ。ふつうにやばい。うれしさよりも恐怖が勝った。失敗などできない。
 誤解のないように念のため書いておくが、王谷さんも栗原さんも僕は大好きなひとだから、失敗できないという恐怖はあった。いまもある。というか誰と仕事をするにしてもある。失礼なことをしてしまったらどうしようという不安が。しかし曲がりなりにもZINEを作ったり本を売ったりしているわけだから、原稿でのやりとりだけならその可能性はちょっとは低くなる、と思った、いや、無根拠に思いこませてがんばった。しかし、インタビューである。脳は凍ったが、代わりに脇からは水分が流れ出た。
 しかし思い出したのだ。後藤さんのエッセイ本『凍った脳みそ』(ミシマ社)にこんなエピソードが書いてあったことを。それは、アジカンの新曲を世界的なBIGアーティストの所有するスタジオでレコーディングしよう、というものだった。BIGなアーティストとはFOO FIGHTERSのことだ。音楽のことをよくわからないひとのためにも説明をしておくと、この通称フーファイのリーダーはあのNIRVANAの元ドラマー、デイヴ・グロールであり、これまでに売れたCDの数は僕の生涯の瞬きの回数よりも多いだろう。いや、これでは逆によくわからなくなってしまった。ようするに僕が後藤さんにお仕事を依頼することと同じくらいに、後藤さんも緊張や不安を抱えながら「レコーディングさせてください」と頼んだだろう、ということだ。
 きっと後藤さんもいろいろなことを考えたにちがいない。依頼文はこれでいいだろうか。失礼のない文面になっているだろうか。そもそもていねいな英語とはどういったものなのか。英語に敬語はあるのか。それらのひととして最低限のサムシングをクリアしたとして、俺たちにそのスタジオを使わせてもいいだろうと思ってもらえるだけの信頼はどうやって勝ち取ればいいのだろうか。よし、まずは自己紹介をきちんとしよう。We are Japanese rock band, ASIAN KUNG-FU GENERATION. とかでいいだろうか。いや、これではまずいぞ、だって訳したら「アジアのカンフー世代」だぞ、馬鹿にしてるとしか思えない。それなら略称はどうだろうか。俺たちはだいたいのひとに「アジカン」と呼ばれている。これならカンフー世代にはならないぞ、ということで先ほどの文面に We are called Ajikan. などと付け加えてみる。いやちょっと待てよ。もしデイヴが日本食を少々嗜むひとだったとしたら、「あじかん? なんかサバ缶みたいだな。そんなニックネームで呼ばれてる奴らなんか信頼できないぜ」と生半可な知識から思ってしまうかもしれない。いやもしかしたらデイヴは魚の加工技術について相当詳しいひとで、「アジは缶詰にするのには向かない魚だからな。そういった困難ことに挑戦するロックなバンドにちがいない」と高評価、スタジオ使用を快諾してくれるはずだ。などと考えたかどうかはわからないが、とにかく後藤さんはそのスタジオを使うことができたのだ。それにけっこうあっさりと。
 後藤さんはそういった体験を「聞いてみるシリーズ」と称し、何度も実践しているとのこと。OKが出るかどうかはわからないけど、とりあえず聞いてみる。すると意外と受け入れてくれることのほうが多い。というのが得た結論らしい。これを僕は思い出し、うん、大丈夫だな、ていうかそもそも「聞いてみる」はクリアしてるんだし(王谷さんと栗原さんへの依頼もだし)、とにかく必死にやればいいさ! と半ば開き直りながらインタビュー当日を迎えたのだった。
 
 そこで交わされた会話の中身は、記事のとおりだ。そして特に印象に残ったのは「失敗を許せる社会でありたい」という趣旨の結論に至ったことだった(実はこれは王谷さんや栗原さんの生きざまにも共通していることだと僕は思うし、ここで僕が「じゃあ僕も大丈夫だな」と感じられたことはほんとうに大事なことだと思う。だからこの本が出せたのだ)。
 僕は今回、怒りというものにフォーカスしてこの企画を立ち上げている。タイトルにもそれはあらわれている。しかしすべてを作り終えたときに感じたのは、「この本、思ったより怒ってねえな」ということだった。読者のみなさんもそう感じたかもしれない。もしかしたらちょっとガッカリしてるひともいるかもしれない。だけど、これは必然のことなのだといまは思っている。怒りの火が希望の灯に変わるとき、そこには許しがあるということなのだろう。激烈な怒りの火は、どこかで穏やかな光に変換される必要があるということか。そのことについて考えて、この本を終えることにしたい。

 社会から理不尽な支配と横暴な権力、そして腐敗した政治をなくすためには、それらに対する怒り(批判)と許しの両方が必要になる。これが結論だ。いや、正確にはそれらに対する「許し」は必要ない。しかし僕たちのなかで、明白な悪意や自分勝手な保身によってなされたそれらの行為と、単なる「失敗」が結びついてしまっている、あるいは混同されているように思える。だから僕たちに必要なのは、そのふたつをていねいに見極めることだ。そして前者には怒り(批判)を、後者には(最終的には)許しを、正確に向ける/与えるための訓練が必要になる。
 後藤さんの記事にもあるように、往々にして僕たちは失敗を恐れるが故に自分の意見を発信することを控えてしまう。政治や社会に関することだけじゃない。友人に対するちょっとした意見なんかも我慢してしまうことがよくある。そしてその原因が過剰な「失敗叩き」にあることは否めないはずだ。もちろんほかにも原因はある。でもこれが根本にあるような気がしてならない。批判すべき失敗と、そうでない失敗の見極めができていないが故に、僕たちは「怒りすぎて」しまう。そして「怒られすぎた」僕たちは、できるかぎり怒られないような行動を選ぶようになる。簡単だ。何もしなければいい。
 じゃあその見極めはどうすればできるようになるのか。基準はどのようなものなのだろうか。僕にも正解はわからない。いや、正解があってはならないとも言える。この世界のあらゆる物事はグラデーションでできているし、不変/普遍かつ唯一無二の正解などどこにもない。だから常にそれを探しつづけないといけない。その営みこそが僕たちをユートピアに連れていく。ユートピアは常に僕たちの目の前にあるから、たどり着くことはないのだけど。

 話を戻す。見極めの基準になるものをひとつ、考えてみる。怒るべきものは何か、あるいはいつまで怒りつづけるべきか。許すべきものは何か、あるいは対象がどうなれば許していいのか。そのことについて。
 やはり、そこに悪意や自分勝手な保身があるかどうかは大きいと思う。反省があるかどうか、というのも同様だ。いや、すごいシンプルなことというか、なんか当然のことすぎて拍子抜けするかもしれないけど、大切なことはえてして当たり前すぎて見失いがちなことでもあるから、一回そこに立ち戻る必要があると思う。人間誰しもが常に強くあれるわけではないし、自分を守るために悪事を働いてしまうことだってあるだろう。それが誰かを傷つけることもある。誰かの犠牲の上に自分の「逃げ」が成り立つこともある。
 それを許せない社会というのは、やはり窮屈だし、故にもっと「逃げ」を必要とするひとが増えてしまうとも思う。ダメでもいいし、逃げてもいいし、間違えてもいい。ほんとはそんな自分イヤなんです、でもどうしようもないんです。そういう「おのれとの戦い」を繰り広げているひとはたくさんいる。僕たちの「怒り」は、そういうひとたちを怖がらせるものになってはいないだろうか。悪事を働いて「へへっ」と笑っているひとには届かない怒りが、必死に己の弱さと戦っているひとに突き刺さってしまう。そんな理不尽なことがあってたまるかと思うけど、実際にはそうなのだと思う。僕たちがこれまでいろいろな不正を許しつづけてきてしまったことで、真面目なひとほど苦しめられる社会になってしまっているのだから。
 
 間違えることへの不安はいつだって僕たちにつきまとっている。それはなくなることはないし、なくなっても困るものだ。緊張感や責任のない言動だけになってしまったら社会は崩壊する。だからやはり両立させることが必要になる。できるかぎり間違いのないようにしようという意識と、まあでも誰しも間違えることはあるよねという意識を。
 この意識は今回起きた大きなうねりのなかに見えたように思える。コロナにかかわる各種政策への批判や、その混迷の最中に強行されようとしていた(している)検察庁法案改正を筆頭に各種の愚案への批判が、二〇二〇年五月の日本を動かしている。多くのひとが、有名無名にかかわらず声をあげている。そこには恐怖もあっただろう。間違えてたらどうしよう、変なこと言ってたらどうしよう。実際にそういう「叩きかた」も生まれている。よく知らないくせにツイートするな、という口の塞ぎかただ。でもそのことに対する批判もちゃんと出た。そしてそのうねりのなかには、一度指摘を受けた間違いを修正して、ブラッシュアップしてまた提示するというものも多く見られた。これはほんとうに希望だと思った。間違えなければ正解にはたどり着けない。いつか正解にたどり着くために、恥をかいたり怒られたりすることに対する恐怖に打ち勝って一歩踏み出したひとに、拍手を贈るひとがたくさんいた。これだよこれ、まさに後藤さんと話したことじゃないか!と明るい気持ちになった。何かおかしいよね、と思ったから声をあげる。より正確な知識とともに声をあげたほうがいいと思うから勉強する。そのなかでわからないことがあれば誰かに聞いてみる。少しずつ少しずつ、どこかにある「正解」に近づいていく。意見の異なるひとたちとも一緒に、よりベターなものを探していく。いやー、俺たちみんな猿だったね!と笑い合える日が来ることを願って。
 だから僕たちに必要なのは「覚悟」ともいえるかもしれない。自分と異なる主張をするひとをも許す覚悟。かつて喧嘩をしたひととも仲直りをする覚悟。もちろんそこには、不正を働く者へ怒りの声をあげる覚悟がセットで存在する必要がある。大切なことだから何度でも言う。怒りと許しはセットで、と。ついでにこれも言っておこう。自粛と補償はセットで。俺たちゃ忘れてねーぞ。

 そう考えると、もうひとつときほぐしておかないといけないことがあることに気づく。それはこの「国民のことなど一切見ていない」安倍政権を支持してしまうひとたちの不安や苦しみであり、その大元である安倍晋三が抱く不安や苦しみだ。残念ながらその理由をはっきりと提示することは、いまの僕にはできない。わかるのは、彼らも何かしらの恐怖に怯えているのだろうということだけだ。もしかしたら彼らも「間違えて怒られること」に対する恐怖から、自分の間違いを認めることができなくなっているのかもしれない。間違いや失敗を怒られるのが嫌すぎて、それらをなかったことにしようとする。公文書を改竄したり、法律そのものを変えてしまうことで、その恐怖を回避している。ということかもしれない。
 もちろんそのこと自体は許されることではない。しかし最終的なゴールは彼らを許すこと、許せるようになることだ。彼らに対して、「ようこそ! まっとうな世界へ!」と言ってあげること、そして両手で抱きしめてあげることだ。もう一度言う。いや、少し言い換える。許すために怒れ。だから激烈に怒れ。おのれの不正を認め、謝罪し、更生するまで怒れ。しかし僕たちは敵を増やすために怒るのではない。敵を叩きのめし、抹殺するために怒るのではない。まっとうに生きるひとが、生きようとするひとが、たとえ失敗したり逃げたりしてしまっても再チャレンジできる社会を作るために、僕たちは怒るのだ。だからそこには正確な見極めと、その正確な見極めによってもたらされる許しが必要だ(批判と誹謗中傷のちがいはそこにあるのかもしれない)。
 僕たちはとてつもなく困難なこと、忍耐のいることをやろうとしている。生半可な覚悟じゃできないことを成し遂げようとしている。でもそれをやるのが、諦めないのが、かっこいい大人でしょう? だから目指そうよ。安倍晋三という人間を許せる日を。彼が「あのときはすまなかった」と言える未来を。それができたら、絶対にこの社会は最高のものになっている。僕はいつか言いたい。「ようこそ安倍さん。あなたの人生はこれからはじまるんだよ」と。そしてできるだけ多くのひとに、同じことを言いたい。

 Moment Joonはこうも歌っている。

 でもまずは僕ら自身が変わろうよ
 そして日本の常識を変えるとこまで上がろうよ
 難しいって知ってるよ だからそれまでは俺が戦う
 後で一緒に言われようぜ「お前らホンマバカちゃう?」
 「TENO HIRA」(『Passport & Garcon』収録)


 僕たちひとりひとりが「俺にはいなかった大人になる」。

 そのために怒りを。そのために許しを。

 怒りの火を、希望の灯へ。
 


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