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『現代思想入門』はなぜ売れたのか


この本、発売してしばらくの間ずっとネット書店ランキングの1ページ目を維持していて不思議に思っていたのでした。現代思想が今来ているのか?それとも来ている著者なのか?何か強烈な露出があったのか?それとも誰か死んだんだっけ?などと不謹慎なことも含めて理由を考えたのですが、ちゃんと調べるほどの強い興味だったわけでもなくそのままランキングが落ち着いていくとともに忘れていった。しばらく経って、オーディオブック が発売されていたのを発見して、聴いてみた。

現代思想ブームの頃、まさに私は思春期真っ盛りでミーハーに興味を持ち、理解したい欲にあふれ、分かっている俺かっこいいというステータスを求めてノックしてみたが、入門書にも拒絶された気がして挫折。現代思想をひとくくりにした入門書は当時あったのかな、記憶はあやふやだが哲学という言葉の響きよりも、現代思想の方がかっこいいと思った。わかんないけどジャズよりモダンジャズみたいな。違うな。それぞれの論点や思想家はともかくとして、「現代思想」とくくられる何かを概念的に理解するのは自分の素養だと無理、というのがすぐに到達した結論でした。知ったかぶりの恥ずかしさも持ち合わせていない若者マインドをもってしても知ったかぶれなかったという惨敗感がありました。言葉が入ってこないどころか、拒絶されているような感じ。これはつまりこういうことだろうか?と言い換えることもできない。理解ができない。楽して解説とかまとめで知ったかぶろうとしても「は?」な結果となる。例えばwikipediaにあるデリダの紹介はこんな感じ。

一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。エクリチュール(書かれたもの、書法、書く行為)の特質、差異に着目し、脱構築(ディコンストラクション)、散種、差延等の概念などで知られる。

もちろん当時の若い脳味噌にとってこのぐらいの文章を丸暗記するのはさほど苦痛ではない。だがこれを覚えたとして何か生活にいいことがあるだろうか。これを誰にどういうシチュエーションで伝えたら知的な人間だと思ってもらえるだろうか。エクリチュールという言葉はなんかかっこいいのでどこかで使えるかな、それもないなー。

知りたい動機も意識が低いので仕方ないよね、おしまい。

で、それから約30年後に本書がベストセラーになったことで現代思想という言葉に再会し、オーディオで読んでみた。そして、感動した。とにかく難解さを理由に挫折ということにならないように配慮し尽くされている。構成もしっかり理由づけがされており目的を理解してその章を読むと確かに意識が向く。とにかく例えが数多く出てくる。難解なところはあらかじめ難解と示した上ではしょる。思想家の言い方のくせや特徴。翻訳書独特の言い回しの処理の仕方。言葉の整合性。登山やダイビングのコーチが、危険は絶対避けるようしっかりと、でも怖がってやめてしまわないよう丁寧に励ましながら生徒に向き合っていくような、そんな感じ。ちょっと、魚の骨まで全部とってあげるなんて過保護じゃない?というくらいの徹底ぶり。かつ、はしょった部分の奥行きのフォローをするために参考図書の紹介をしてくれる。

そんなわけで、現代思想の理解というよりは、このホスピタリティとも評するべき本書の入門書としてのプロ意識に興味が移ってしまった次第。一冊で二度美味しいですね。おかげで、脱落せずに読み終えることができました。もっともオーディオブック なので流していれば聴き終わるんだが。

あの頃界隈でよく出てきた言葉や概念の、背景だったり経緯だったりがふんわりと理解できて、さらに学生の頃のあんなことこんなこと、まあほとんどは赤面するような、なので封印されてきた記憶なんかも一緒に開封されてしまったりして。そりゃそうだ、現代思想知りたい、みたいな見栄や背のびからして赤面なんで紐づく記憶なんて大体同類だ。

あの頃の当事者としては、やはり絶対理解できなかっただろうけど、あの頃を経験して過去のフォルダとして客観視できるようになった今だから理解できる部分もあるかもしれない。現代思想は別にその時代を切り取る、というものではないだろうが、でも新聞の一面で事件について把握するのと、30年経って歴史の教科書に載ったのを読んだ方が客観視できる、みたいなわかり方もあるのかなあ、と。当時本書がタイムリーに出ていたらわかったかなあ、どうだろう。

最後にやっぱりわからないのは、この本、なんでこんなに売れたんだろう?あの頃挫折した団塊ジュニアが世代人口と可処分所得にものをいわせて買ってるのかな。わからん。現代思想並みに難しい。

現代思想にはあえて触れませんでした。

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