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パラダイス・ナウ

パレスチナ人監督とイスラエル人プロデューサーによって取られた自爆テロに向かうパレスチナ人の若者2人を描いた映画です。
占領区、西岸で自動車修理工として働く幼なじみのサイードとハーレド。ある日2人は念願の(ここが既に怖い。)自爆攻撃者に選ばれます。英雄となり天国に迎えられることに憧れる2人。けれど攻撃に向かう途中、2人は離れ離れになってしまいます。計画は頓挫、慌ただしくアジトを引き上げるレジスタンス(テロリストという言葉を使うのに抵抗を感じます)のメンバー達。はぐれてしまったサイードを捜すハーレド。そしてサイードに淡い思いを寄せる英雄(自爆攻撃者)の娘スーハによって揺らぐ自爆攻撃の意味。センセーショナルな内容でありながらエンターテイメント的要素を排し淡々と描くことで浮かび上がるパレスチナの現実がそこにあります。
彼らの考え方や行為を愚かと言うことは簡単です。
けれど彼らを愚かだと言えるのは私が砲撃の中に身を置いたことも、バックグラウンドとなる故国を失ったことも無いから。極限の状況で生きる為に同朋を裏切り密告者となり、同朋に処刑された父を持ったこともないから。
もちろんどんな理由、事情があろうと自爆攻撃は肯定されるものではないです。でもそこに致るまでの彼らを見て、その現実を知らない者が何を言えるでしょうか。そういう意味でも世界はこの報復の連鎖を止める術を持っていないんだと思います。
彼らを止めることができるのは父を自爆攻撃で失ったスーハだけ。海外で教育を受けたモロッコ育ちの彼女ではありますが、自爆攻撃によって愛する人を失った経験があるからこそその言葉は悲痛です。
英雄となるよりも生きていてほしかった-。
遺された者の切実な思いだと思います。そして彼女は「自爆攻撃がイスラエルに攻撃の口実を与えている、他の方法を模索するべきだ、私達はモラルの戦いをするべきだ」と語ります。そして「迎えられる天国なんてどこにも無い、そんなものは頭の中にしかない!」という悲痛な叫び。
彼女以外の誰かが言ったとしたら説得力は無かったと思います。パレスチナの置かれた状況の前ではあまりにも綺麗事だから。でも“綺麗事”を無くしてしまったら、その先には悲劇の連鎖しかない。スーハはそれを知っているからあえて口にするのではないでしょうか。
その“綺麗事”はハーレドの心には響きますが、裏切り者の息子という烙印を背負って生きてきたサイードの救いにはならなかった。彼にとってはその烙印から解放されるには自爆攻撃で自分が英雄になるしかなかった。彼は「屈辱の中で生きるよりはたとえ頭の中にしかない天国でもその天国へ、神の元へ召される方がいい」と語り、その言葉通り1人自爆攻撃へと向かいます。
彼の悲しみも憎しみも無い澄んですらいる盲信的な瞳が印象的です。
遺言のビデオを撮る時にビデオが故障したり、崇高な使命感を語りながら家族への言葉の中でいい浄水フィルタを見つけたと言わせてみたり、爆弾を巻き付けたテープを外すのがひどく痛そうだったり、細かい所でリアルさを感じます。
静かにけれど強烈に、見る者に現実を突き付ける映画。
安穏とした生活を送っている者が何を言うこともできません。それはわかっているのですが、それでも言わずにはいられません。
天国って、何。
愛する人達を置き去りにして、悲しみを植え付けて、新たな憎しみを生んでまでも追い求める価値があるものなのでしょうか。
なんとも言えない暗澹とした気持ちになる映画でした。

#映画感想文

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