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カルラのリスト

少し堅いドキュメンタリー映画、『カルラのリスト』を見ました。
旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)の検察官カルラ・デル・ポンテの活動を描いた映画です。2005年、7月から12月までのカルラの戦犯を追い続ける活動、同時にスレブレニツァの虐殺の悲劇を伝えています。
感想を言葉にするのは非常に難しいです。カルラの戦争犯罪を白日のもとに晒し彼らの罪に対して正義がなされるべきだという信念は必要だし、そうあるべきだとも思います。
ただスレブレニツァの虐殺に焦点を当て、その主犯を追うカルラ、という構図なだけに、クロアチア、セルビアを一方的に悪、と断じて見てしまう可能性も孕んでいるように思います。
民族、宗教に端を発するものだけでなく、全ての戦争、紛争にはそれぞれの正義があり、それゆえに解決は困難であると思います。どちらか一方を悪であると断じてしまえるほど単純ではない。
けれどスレブレニツァの虐殺のように民間人虐殺という裁かれるべき罪はあり、なるべくならそれは誰の目にも公平な“正義”で果たされるべきなのは確か。
カルラが立っている所は国際社会を平和的に維持するために共有されるべき“法”という概念に基づいた正義であるということを頭に置いてみなければ、独善的に映るかもしれません。
哀しみ、憎しみ、それら当然あるはずの感情に配慮しながらも確たる一線をひいて“共有されるべき法の正義”というあやふやで脆い概念をカルラという女性は強く保っているからこそできる仕事です。
個々人の感情に支配されそれぞれの正義によって人が裁かれ社会が維持できなくなるのを防ぐために、感情の問題に“法”という理性でケリをつける。乱暴に言ってしまえば法に則って裁くというのはそういうことなんじゃないかと思います。秩序の為には法は不可欠。が、その法とは本当に公平なのか、どれほど妥当なものなのか。人が定めたものである以上、法も常にそのような疑問に晒された脆いものではあると思います。
けれど“公平な正義”、というものを信じずに秩序を保てるほど人は強くない。結論が出たからといって哀しみを抱えた人達の癒しにも救いにもなるわけではありません。
でもどこかで、なにかでその哀しみに区切りを付けることを誰しも望んでいるし、カルラもそれに答えるべく精力的に活動しています。
カルラの追求する正義は戦争における人道的犯罪に対して下されるべきものだから、それは確実に正しい行いだと思うしなされるべきこと。だから罪を犯した側の正義や理論まで取り上げて描く必要性はないと思います。けれど一方的な見方をしない為にはスレブレニツァの悲劇に致るまでのボスニア紛争の概要だけでも知っておく必要はあるかもしれません。
1991~1995年の紛争なので、私はその頃中学生~高校生でした。リアルタイムに情報を見聞きし、理解できていたとは言えないながらもあらましぐらいはわかる年齢になっていました。そのおかげと言っていいかどうか、一応の予備知識を持ってこの映画をみることができ、改めて第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争と言われたボスニア紛争の悲劇を感じることができたように思います。
今ウクライナを目にしているあの頃の私と同じ年頃の子達は何を思うんだろう。
なされるべき正義とは何か。共有すべき正義とは何か。
改めて考えさせられる映画でした。

#映画感想文


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