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【100分de名著を語ろう】『存在と時間』第2回:「不安」からの逃避

こんにちは。4月12日(火)10:26です。今回のnoteでは、ハイデガーの『存在と時間』についての「100分de名著」での解説(第2回分)を確認したいと思います。まず、全4回のサブタイトルについて見ておきましょう。

第1回:「存在」とは何か(4月4日オンエア)
第2回:「不安」からの逃避(4月11日オンエア)
第3回:「本来性」を取り戻す(4月18日オンエア予定)
第4回:「存在と時間」を超えて(4月25日オンエア予定)

第1回放送分を簡単に振り返ってみましょう。

この『存在と時間』は、既知のものと見なされていた「存在」ということについて、実は何もわかっていなかった、わかっていたつもりにすぎなかったことを指摘しています。それについては、「存在者」(=現にあるもの)と「存在」(=存在そのもの)とを分けることから始めているようです。

そして、「存在」を考えるにあたっては、過去と未来に向けても存在している人間を基底として、つまり「現存在」として捉えることを問いかけています。

次に、第2回放送分に該当するテキストの見出しを以下に抽出しておきます。①から⑨の連番は、記載にあたって便宜的に割り振ったものです。

①人間を支配する「世人」とは何か
②現存在が語っているのは「世人の意見」
③「頽落」していく人間
④若きハイデガーが感じた違和感
⑤世人がもたらす無責任さ
⑥悪いのは「みんな」で、自分ではない
⑦なぜ現存在は世人に支配されてしまうのか
⑧「恐怖」と「不安」の違い
⑨本来的に生きることはできるのか

ハイデガーは、現存在(=人間)を生活世界そのものの内に捉えることを試みていますが、そうした現存在は、自分ではない「世人」を通して自分を理解しているとしています。この「世人」とは、自分ではないものであるどころか、他で誰かでさえもないものとして存在していると言います。

こうした「世人」を通して自分を理解することで、人間は、責任ある主体であることを放棄し、また逃避することになってしまいます。このことを、ハイデガーは①世間話、②好奇心、③曖昧さの三つの特徴をもった「頽落」という生き方として捉えています。こうした生き方に落ち込んでしまうのは、そうでないことへの「不安」によるとしているように思います。

番組の中では、そうした「不安」を引き受け、そこに踏みとどまることから責任を引き受けることが可能となるとされていたことが印象的でした。

        *       *       *

今回は、若干の要約めいたことを加えて「レジュメ」といたしました。ここに記載されていることにとらわれることなく、14日の会の席上では意見や感想が交わされることを期待しています。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!



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