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【杜のラボ】読書について、ぼくが語ること①

こんにちは。1月29日(土)2:44です。今日は、ぼくが読書について考えていることを、少し書いてみようと思います。おつきあいください。

仮に、「読書界」というものが存在するとしましょう。出版関係者や、図書館関係、あるいは広く読書好きの方々をひっくるめることにします。このような「読書界」の住人の間では、その外界=世間では、本が読まれなく、あるいは買われなくなったことを話題にすることが多いように思います。

しかし、ぼくの体感では、読書について、あるいは本について語り合っている人びとは、相当数いるように思っています。問題は、その読む/読まないということが、「二極化」していることなのだと思います。つまり、読む人は勝手に読むし、読まない人は、徹底的に読まない。そんな状況がまずあろうかと思います。

ぼくは、自分自身については、「控え目な」読書好きだと自認しているつもりです。自分が読んで面白いと感じた本について語ることは楽しいし、それを聴いてもらえたり、受け入れられるのはうれしいことです。とはいえ、「読みなさい」とまでは言うつもりはないし、言わないように自戒しているはずです。

翻って、出版界は、ある種の「読書(論)ブーム」であるような印象を受けています。自分たちの寄って立つところが「存亡の危機」に見舞われているのであれば、その危機感を煽り、読書は「されねばならない」こととして、祭り上げられる必要があります。ですので、流布する読書論は、読書の「効用」を謳うものが多いように思います。つまり、読書とは役に立つ、必須なものであるとして。

しかし、ぼくはここでは、読書とは、役に立つこと「だけ」を念頭に置いてされるべきものではないと書いておきたいと考えます。とは言え、楽しい「だけ」でもないのだということも、慌てて付け加えておこうと思うのです。

確かに読書は、役にも立つし、楽しくもある。しかし、それを目指すことは、ある種の転倒や倒錯なのだと思うのです。例えて言えば、呼吸や食事は、役に立つ「から」、楽しい「から」されるものではありません。また、友人もそうで、役に立つ「から」、楽しい「から」だけでつきあうものでもないはずです。

そう、つまり呼吸や食事、あるいは友人は、端的に言って、「必要」なものなのです。それと同じように、読書とは、「必要」なものであって、それ以外のものではないのだろうと、ぼくは考えます。余計なことを、つけ足す必要はないのです。必要だから「それ」を読む。それでいいのだろうと思います。

ここでは「なぜ」を、新たにつけ足すことも不要だろうと思います。つまり、読書は「なぜ」必要とされるのか。これは、問う必要のないタイプの設問だろうと考えます。

次の機会には、その「必要」な読書を、より「たしかな」ものとするための方法、つまり、読書について読んだり語ったり、書いたりすることが「望ましい」ことについて考えてみようと思います。それではまたいずれ。最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


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