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【草稿】笑いといじめ

こんにちは。

数日前、著名なインフルエンサー氏が(著名「でない」インフルエンサーがいるのかという話は、さておくこととして)、ある社会問題の改善を要望していることを嘲笑・愚弄していたかと思います。断っておきますが、ぼくはその点については、印象でしかモノを言えません(ていねいにフォローしてませんので)。

しかし、このことが炙り出してしまったのは、人は、人をバカにすることやいじめることに、快感を覚えているということなんだと思っています。今回のnoteでは、そのことを考えてみようと思います。

悲しいことですが、人は人をいじめることをやめられないと思っています。なぜかって、ずばり人はそれを「楽しい」と感じているから。笑っていられるからです。むしろ、笑いの根っこには、人をからかうどころか、蔑み、貶めることがあるとさえ考えたくなってしまいます。人は、それを学び落とさない限り(あるいは、学び直さない限り)、意識的にやめることはないと思います。アンラーンとも言うらしいです。

意外と思われるでしょうが、ぼくはそれを、ある象徴的な人物(の笑い)に結びつけて考えてみようとしています。その人とは、萩本欽一さんです。この稿では、萩本さんの笑いが、いじめそのものであったのだということを強調しておきたいと思います。

「視聴率100%男」として、庶民的な笑いの王として、一時期君臨し、讃えられてきていた萩本さんですが、その本質的な、少なくとも重要な部分は、弱者をからかい、いじめることにあったのだと、ぼくは考えています。もちろん、その功績の大きさが、それで帳消しされることはないだろうと思いますが、功罪で言えば、「罪」の部分もまた大きかったはずだと、ぼくは考えます。それはつまり、「リトル欽ちゃん」を(メディアに出ないまでも)たくさん産んだであろうこと、要するに、欽ちゃん的笑いを「マネ」た子どもたちや大人たちをたくさん産んだだろうということです。正直なところ、その一人として、他ならぬぼくがあります。

多少、具体的なことを言うと、例えば「コント55号」での坂上二郎さん、「スター誕生!」で輩出された素人スターたち、幾多の番組で「いじ」られた素人さんや「タレント」さん・・・。

萩本さんは、コント55号で坂上さんをいじめ倒したことで、「笑いが取れる」ことを、悲しいかな「学習」してしまった。視聴者も、それは「楽しく」「いい」ことだと学習してしまったのだと思います。つまり、「成功体験」として。

もう萩本さんの笑いを学んだ人たちも、かなりの年齢になってしまっているはずです。萩本さんの「いじめ」を根に持つ笑いは、むしろ「劣化」してはいないかと、ぼくは危惧していますが、ある意味では、「学び落とす」機会が訪れているのではないかと考えます。一度、考えられてもいいのではないでしょうか。


今回は以上といたします。もう少し、発展的に書ければよかったのですが、今の力では、ここまでなんでしょうね。お許しください。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまたいずれ!

10月18日追記

前日に見たEテレ「100分de名著」折口信夫『古代研究』-③を見て、芸能・笑いと、貴賎についての関係の指摘について、深く感じ入りました。上記には反映できそうにありませんが、今後の課題として受け止め、このままでの公開とすることをお許しください。


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