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ブログとnoteを、行ったり来たり。

10月上旬から、双極性障害という精神疾患(というか、脳のバグ?)のせいで、先日までヤル気が横溢していた。それはいいことじゃないかと思われるかもしれないが、実はこれ、困ったことなのである。後先考えずに、新しいことを始めたり、人と約束したりするもんだから、いろいろと反動もある。例えばベッドから起き上がれなくなるということがあるのだ。

ぼくの場合、いろいろと新しいことを始めてしまった。一番目立っているのが、はてなブログProの機能を使った、複数筆者による雑誌感覚のブログの運営だろう。これがアクセスに苦心している。はっきり言って、こちらのnoteの方がよいくらいだ。

それとnoteとの棲み分けを考えないといけないと思っている。機能やコンセプトが違うはずなのだから、書き方・書かれ方が違ってきていいはずだ。

それはさておく(さておくのか)。

実のところ、今までに何度もこの話題については取り上げてきた。もう、どんな経緯をたどってきたのか、わからなくなっている。そこで新たに、「暫定的に」ブログとnoteの棲み分けについて考え直してみたいと思う。

結論から言うと、
①共作ブログには、主として音楽や映画など、幅広いジャンルについて取り上げる。読書(=書評ないしレビュー)についても取り上げたい。
②noteでは、読書会を中心に、ぼくが手がけてきてしまったあれやこれやについて綴っていきたいと思う。

なので、共作ブログでは、やや対外的な側面を、noteでは内面的なことについて書き綴っていければいいのではないかと考えている。

そして、ここからが、たぶん重要。共作ブログ(の下書き。未公開)でも書いたことなんだけれども、ブログやnoteは、まだまだこれから熟していく余地のある「文化」であるとぼくは思っている。それはまた、読書会についても同じようなことが言えると思う。

文を書くというのは、一定のストレスがかかる、障壁の高い行為であるとは思う。しかし、それを突破して、「楽しい」というレベルに達することはできないものだろうか。それを、人に読んでもらうことが楽しいというレベル、つまり人との架け橋を築くということにはならないだろうか。

読書会も同じであろう。自分が読んで面白かった・楽しかったという点を共有する。そのことは、人と人との関係性を刷新する可能性はないだろうか。

文を読み、文を書き、それを語り合うこと。そこには、ぼくたちの言葉(=心とか精神とか)を、豊かにする契機が含まれているのではないのか。

そんなことを考えつつ、体調と相談しながら、本を読み、語り、また駄文を書き、ということを続けていきたいと思っている。なので、ある時にはブログを、ある時にはnoteを、という書き方になってしまうと思うが、そこは許されたいと願っている。



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