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【考察】『戦争は女の顔をしていない』に寄せて

8月度のEテレ「100分de名著」で取り上げられていた、アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』のオンライン読書会に22日(水)に参加いたしました。

番組用のテキストと、コミック化されたものについては読了していますが、肝心の岩波現代文庫版は、未だ20%程度を読んでいるにとどまります。しかしながら、読了を待ってからだと、今まさに感じていることを書きとどめておくことができなくなる。そのために、現時点でのことを書こうと思って、この項を書き始めた次第です。よろしければおつき合いくださいますよう、お願いいたします。

さて、この著作は独ソ戦(旧ソ連では「大祖国戦争」)に従軍した女性たちの膨大な証言をまとめたものです。そもそも、「女性」が「従軍」という時点で驚きなのですが、その一つ一つの重さに圧倒されてしまいます。

その個々の事例について取り扱うことはいたしません。ここでは、読んで受けた印象をいくつかかいつまんで紹介するに留めておこうと思っています。

1)「語り」を促す、時代の治癒者
2)歴史への参画としての「読み」
3)前代から、何を受け取って何を後代に伝え託すのか

少なくとも、これら3点について論及したいと考えています。

1)「語り」を促す、時代の治癒者

著者のアレクシエーヴィチは、この作品について、オーラル・ヒストリーではなくて「証言文学」であると述べたと聞きます。しかし、私にとっては、そうしたカテゴリー分けは、あまり重要な意味を持ってはいません。

重要なのは、アレクシエーヴィチが、それまで語られてこなかったことを、まさに「聴き出した」そのことにあると思っています。それが、なぜ可能であったのか、なぜ彼女でなければならなかったのかについては、よくよく考えられるのがよいだろうと思うのです。発話者の心の重たい扉を、なぜアレクシエーヴィチが開くことができたのでしょう。それを考えなければならない。しかもその要因は、彼女のパーソナリティに「還元」されてはならないのだとも思うのです。ここで安易に「還元」してしまっては、第2・第3の「アレクシエーヴィチ」が現れてくる余地がなくなってしまうのではないかと思うからです。

もちろん、余人の及ばない関係を発話者との間に築くことができたことは、評価がされすぎることはないだろうと思います。しかしながら、この発話の促しについては、「再現性」があってもいい。むしろ、あってほしいと思います。私たちは、アレクシエーヴィチを、卓越した個人に祭り上げることなく、そこから学ぶ必要がある。学びは可能であり、そうした「学び」について、可能性が開かれているのだと思いたいのです。

それでもなお、「アレクシエーヴィチ」とは、歴史的にただ一回だけ現出した、卓越した個人であるのかもしれません。

彼女が開いたのは、話者の心の扉だけではないような気がします。よく言われるだろうことですが、その「発話」によって、その話者当人が「癒やされる」ことはあったと思います。しかしそれは、同時にアレクシエーヴィチ当人をも癒やしただろうし、もっと言ってしまえば、彼女「たち」が癒やされることを通じて、その実癒やされたのは、「時代」そのものであったと思っています。彼女「たち」に学ぶべき点は、あまりに多く、その「学び」が達成された時に開けてくるのは、まさに「新しい時代」なのではないかと思うのです。

2)歴史への参画としての「読み」

次に考えたいのは、そうした「語り」と「聴き取り」に、「読む」ことを通じて参画することの意味についてです。その「語り」の現場に、「読む」立場として立ち会うことは、「語り」の成立に、ある意味で当事者の一人として立ち会うことにもなる。そうした意識を持つことは、可能であると言えないでしょうか。むしろ、そうした意識を促す力が、この作品にはあったのではないかと思うのです。この点については、次項とも強く関連しているので、重複してしまうかもしれませんが、その場合はお許しください。

3)前代から何を受け取り、何を後代に伝え託すのか

こうしてみてくると、私たちとは、「歴史」に押し流されるだけの存在なのではなく、その歴史の当事者として、今まさに歴史に参画「しつつある」のだということが自覚されてくる、少なくとも、その「可能性」があるのだと思います。

歴史は、何も「英雄」たちだけが築き、切り開いているものではない。むしろ、何をもって「歴史」であるとするのかが、いま改めて問い直されているのではないかとさえ思います。

確かに人間は、「物語」なくしては生きていくことはできない存在でしょう。しかし、特定の物語のうちに、回収され切ってしまうものでもない。日々新しく語り直されつつある「歴史」(それを「歴史」と言うかどうかは、もはや私の関心のうちにあるものではありません)が、ひとりひとりの「生」を、より充実させていくものであるのかどうか。一人の「語り」が拓いた地平から見えてくるものが問いかけてくるものは、そういったことなのではと、私は思えるのです。

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