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【杜のラボ】「受援力」あるいは、《弱さ》の力を磨くことについて

こんにちは。5月31日(火)05:13です。夜中は雨が降っていました。

ふいに「受援力」という言葉を思い立ちました。全くの「造語」だろうと、手持ちの電子辞書で調べたところ『広辞苑』等では見つからないようです。しかし、Google検索では見つかってしまいました。ぎゃふん。一番乗りだと思ったのに。

今回のnoteでは、この言葉を用いること、導入することで、何が見えてくるのかについて考えていきたいと思います。どうぞおつき合いください。

まず、おおまかなイメージを持っていただきたいので、簡単な説明を加えておきます。「受援力」とは、言い換えると他者からの「支援」を引き出したり、受けたりする力ということです。なぜそれが「力」であるのかについても、追々書いていければと思っています。

ぼくがこの言葉を導いたのは、主として精神科での治療やカウンセリングを受けていたことと、深い関係があります。ここでは、良質な医療サービスは、腕のいい治療者「だけ」で行われるのではなく、むしろクライアント自身の「力」が、時として治療者の力に先立って必要なことについて書き進めていきます。

どういうことなのか。まず、ぼく自身の体験をお話ししていきます。いろいろな所、いろいろな機会に、ぼくは「双極性障害」という精神疾患の当事者であると述べてきました。当事者というのは、まあ、「罹患者」程度の意味合いだとお考えください。

しかし、当初は「うつ病」と診察されていました。診断名が改められたのは、10年弱も経ってからだと記憶しています。しかしそれは、「誤診」とは違っています。双極性障害の特定は難しく、始めは「うつ病」として診断されるものの、ぼくのように5年も10年も経ってから初めて、双極性障害とされる場合が多いと聞きます。これは、多くの専門家による著作の中でも指摘されていることです。

ではなぜ、診断が難しいのか。それは、自分の状態を「病的」で「治療対象」として把握して、それを治療者に適切に伝えることがかなり難しいことによります。

双極性障害とは、躁と鬱の状態が、一定程度の間隔で、交互に表れる疾患です。過剰に活動的なのと、病的に鬱なのとが、互い違いに表れます。

このうち、「鬱」な状態については、「困った」状態として治療者に訴えることが比較的容易です。辛い・しんどい・苦しい・死にたい等々として伝えられます。周りで見ていても、それが「病的」であることはわかりやすいかと思われます。つまり、適切なタイミングで治療を受けるのは可能です。

一方の「躁」についてはどうか。これは厄介です。というのも、「病的」な状態であるのか、許容範囲であるのかの線引きがまず難しいということがあります。それとともに、「躁的」な状態は、「鬱的」な状態を抜け出た、「好ましい状態」であると当事者に認知されることがしばしばだからです。これは、周囲の目にも、そのように映ることが多いはずです。したがって、「いま・ここ」の自分が、治療されるべき「病的」な状態であるとは認識されないので、治療者にその情報は伝わらず、結果として、適切な治療サービスを引き出すことができなくなってしまうのです。

では、双極性障害において、適切な治療サービスを引き出すためには何が必要なのでしょうか。それは、まず何よりも当事者自身が「病識を深める」ということ、次いで、適切な第三者による「定点観測」がなされるということが挙がると思います。つまりここでは、皮肉ではありますが、治療が進むこと→病識が深まる、という関係というよりは、むしろ、病識が深まる→治療が進む、ということになります。この論全体に関連づけようとすると、治療という第三者の支援・サポートを適切に引き出すためには、まずもって、自分自身が、ある種の「力」を高めること、つまりここでは「病識を深める」ことが望まれるということになります。

こうした、「治療サービスを適切に引き出す」ために「できること」は、カウンセリングの現場にあっても発見可能でした。一つ挙げるとすれば、カウンセラーの「聴く」力の発動に寄与することです。そして、この工夫は「相互的」なものとして作用します。「聴く力」の刺激→「聴く力」の発動と向上→クライアントの発話の促しと自己発見→より効果的な「聴く力」の刺激、という好循環につながります。

では、どうすればカウンセラーの「聴く力」の発動を刺激できるのでしょうか。乱暴な言い方になりますが、それは内省、自己内対話を通じて、自分がこの現状をどう変えたいと願っているかを、よりよく知ることから始まると思っています。

ぼくは、カウンセリングで行われる「傾聴」とは、「発話の促し」の技法でもあると考えています。それを知っていると、逆に「聴く」を促す発話もまた可能であると思われてきます。しかしながら、この点については未だ「着想」の段階でしかなく、より深い考察が要されるものと考えています。追って披露する機会があればと思います。

さて、これまでのところは、双極性障害の診断とカウンセリングとを例として、よりよい治療サービスはいかに引き出しうるかについて例示したつもりです。ここで言えたことは、従来なら非対称とされてきた治療者/被治療者の関係にあって、時として被治療者がイニシアチブを握るケースもあるということでした。それは、治療行為として現れる関係性の改善に「貢献」「寄与」するというレベルに留まらず、むしろ「決定的」なことさえ展望できると言えましょう。

ここからは、より一般的な考察を通じて、「受援力」について考えていきますが、ここでもキーワードとなるのは「自己内対話」、つまり己身を見、己を知るということになろうと思います。一つ言葉遊びを許していただければ、「見る」よりは「観る」、「知る」ではなくて「識る」を当てた方がよさそうだと申し上げておきたいと思っています。

もう一度「受援力」について書いておくと、それは周囲からの支援=働きかけを刺激し、誘発する力であり、支援を求めている当事者だけでなく、支援者にも益となるような力であると言っておきたいと思います。つまり、Win-Winの関係性を内包する力ということです。それは支援者の目の前に、支援者が持っている「力」が流れ出る空間を作り出す力のことです。その意味では、支援者が力を発揮するのを援助しているとさえ言えるかもしれないのです。要するに、従来の関係性を刷新し得る力ということです。

この「受援力」(※)は、いつ・どこでも・誰との間でも発動するものでもないし、発動させていいものでもなかろうと思います。一つ言えるのは、関係性を刷新ないし更新するには、少なからず役立つだろうということです。あるいはそれは、教育的・治癒的な関係性を必要とする場合に求められるものかもしれません。

※ 「受援力」は、「誘援力」と表記してもいいかもしれませんが、本稿では「受援力」のままとしておきます。どちらがより適切なのかは、後日を待ちたいと思います。

そろそろまとめにかかろうかと思います。この稿では、「受援力」のイメージを喚起しつつ、そのアイディアを持ち込むことで何が見えてくるのかについて書いてみるつもりでいました。稿を結ぶにあたって、「人の力」というものは、スタンドアロンで発動するのではなく、ある種の関係の「場」、相互作用やネットワークの中で発動するのだろうと仮定しておきたいと思います。ここからは、人の力=強さ/弱さということへの見方の転換点が導けると思うのです。

従来、人の力ということでは、そのアイデンティティとも関連して、スタンドアロン=完結・自足する「個」の内に見てきたと考えます。しかしながら、他・他者との関係性において誘発される力というものもまた、存していると言えると思います。ここから言えることは、ある意味では「個」が「関係性」に先立って、あるいは優先されて存在するものとは限らないということではないでしょうか。むしろ、関係性において、個が同定されていく。さらに言おうとするならば、「個」と「関係性」とは、「即」「相即」の関係にあると言ってよいと思います。

多少「ハウトゥ」的なレベルに落とし込むならば、あることについて、多少なりとも形が整うのを待ってからやるというのではなくて、「まず」やってみる。そこから、関係性からのサポートが発動されて、前に進むということがあり得るのではないかと思うのです。

例えば、読書会のような場において、内容の理解が進んでからの発言をするのではなくて、「まず」何かを発言「してみる」。その地点から、先に進むというのがあり得るのではないかと思います。

さて、この稿の表題は「「受援力」あるいは、《弱さ》の力を磨くことについて」でした。最後に《弱さ》の力という点について触れておいて、全体を結ぼうと思います。

従来ですと、「弱さ」は「強さ」に対置され、かつ乗り越えられるべきものと考えられていたはずです。しかし、本稿では、受援力というイメージを通して、適切かつ有効なサポートを引き出す、つまり他者の「強さ」を援用することもまた、《弱さ》という「力」であることを示唆し得たと考えています。

さらに、そうした補い合う力の、相補的なネットワークとしての「力」というイメージをご提案してきたつもりでいます。ここからは、スタンドアロンの「力」というイメージが、ともすると「孤立」を誘発することも示唆しつつ、他者と「共に」生きようとすることに向けた「意志」の発動もまた、あり得るのだと書いておきたいと思います。

考えてみると、ヴァイオリニストは、トランペットの音は出せません。それはある意味では「弱さ」だと言えます。しかし、自分の出せない音色があることに気がついたヴァイオリニストは、他の楽器の奏者との「合奏」に向けて、自らを開いていくことも可能だということです。他者との協業、あるいは共生とも言ってよいと思いますが、そのことで、より多彩な楽曲が奏でられるわけです。そして、それは自らの《弱さ》を見つめ、洗練し、自らを他者に開いていくことで導かれる「生」の豊かさであると、ぼくは思います。

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