誰が為の世界で希う-15
六月は終わりかけているというのに、まだ梅雨は明けない。
じとじとと雨を降らせ続ける灰色の昼空の下、東池袋学芸大学の程近くにあるラーメン屋から、笹原が姿を現した。昼食後なのか、道行く人の目線も気にせずげっぷをして、すぐ近くの交差点へと目を向ける。
先日、亮と二人で事故を起こした交差点だ。
結局、車を運転していた人は命に別状なく過ごしているからなのか、ひしゃげたガードレールに献花はない。けれど、数年前にここで起こった事故を思い出した人が多いのか、無事故を祈るモニュメントには花束が多くささげられていた。
「花なんか置いても、なにもならないのに」
死者は蘇らない。奇跡のように事故が消えるわけでもない。それでも人は、花を供える。
なんのために?
いくら頭で考えたところで、その答えが出たことはない。死者を悼むときには花がつきものだと知ったあとでも、誰かを悼んだことのない笹原にはその行動が理解できずにいる。
終わったことはどうでもいいと言わんばかりにスマートフォンを取り出した。降りつける雨よりも、青白い光を放つ画面よりも冷たい感情のない目で、メッセージアプリを起動させる。
「そろそろ、次に行くか」
笹原は、終わった過去よりも、望んだ未来を導くためのことを考える。なにをするかは決めてあるから、あとは亮を呼び出して計画を聞こえよく話し、助力を乞うだけ。
亮とのチャットを開き、短い言葉でやり取りを交わす。今日会いたいという笹原に、亮は夕方なら空いていると返答した。
そして、数時間後。
笹原は、豊島区立中央図書館の四階と五階を繋ぐ階段の踊り場で、亮と向かい合っていた。
「やあ。急に呼び出してすまないね」
「そう思っているようには見えませんけどね。まさか二回連続でここを待ち合わせ場所に指定されるとは思いませんでしたよ」
開口一番、亮が言ったその言葉に、笹原は首を傾げてみせた。
亮は『二回連続で』と言った。前に会ったのは、あの事故の日。慰霊碑で別れたのが最後だったはずなのに。
「……そうだったっけ?」
「まさか忘れたんですか? ここであなたが友人の記憶を消してほしいと頼んできたんでしょう」
試しに、気の抜けたような笑みを浮かべてとぼけてみせると、亮は思い切り顔をしかめて苦々しく言い放つ。
事実と亮の発言がすれ違う。もう少し、状況を知りたい。
「ああ、たしかにそうだったね。……そういえば、キミはこの間、そこの交差点で起こった事故を知っているかな」
わざと事実を告げるでもなく、遠回りな質問にしたのは、ひとつの可能性が浮かび上がってきていたからだった。
「知っていますよ。……目の前で見ました。あまりにショックだったのか、『事故を見た』っていう事実以外は思い出せませんけどね」
笹原の思い浮かべていた可能性は、亮の言葉で確信に変わる。
――忘れている。自分が事故を起こしたことも、笹原に言われて魔法を使ったことも、すべて。
「そっか。それは災難だったね」
「あなたに言われたくないです。……あなたが俺を災難に巻きこんできそうだなって思っているので」
「酷いなぁ。そんなこと言わなくてもいいだろう? 大丈夫だよ」
ああ、大丈夫だよ。もう巻き込んだあとだから。キミの記憶には残っていないけれどね。
そうだ。清水亮という人は、認識改変の魔法を操れる魔術師なのだ。ショックで忘れるのではなく、自分の意思で記憶を消し去ってしまうこともできる。
利用できる。
最初はいくつか精神的な打撃を受けるようなことをやらせて、感覚を麻痺させてしまおうと思っていた。そうすればきっとあとが簡単になるし、実際、そうだった。記憶を消すことで感覚が麻痺したからこそ、彼はあの交差点で事故を起こした。そしてさらに無感覚になって大きな事件を起こせると思った。
けれど、記憶が消えるなら――彼が記憶を消してしまうなら、先日の事故のようなことを繰り返せるのかもしれない。大事ではなく、中規模の出来事を、いくつもやらせることができるかもしれない。
それでもいい。いや、それがいい。
記憶を消したということは、少なからずショックを受けたということ。精神的打撃を受ける総量は、慣れないほうが増える。慣れてしまったらきっともう心は痛まなくなってしまうけれど、毎回が初めてなら必ず毎回心が痛む。そして、たとえその出来事を忘れても、記憶から消しても、ショックを受けたという事実は消えない。確実に、清水亮のことをむしばんでいく。
そうしていつか、彼が壊れたなら、なにが起こるだろう。周囲の人は、そして彼自身は――?
にこやかな笑みで亮と会話をしながら、笹原の思考は加速する。
世の中の不幸の総量を増やすためなら、なんでもする。それが、いまの笹原の考え方。もうここ十年近く、そういう生き方をしてきた。荷田初宏と名乗った、彼に出会ってから。
「それで、どうして俺を呼び出したんですか」
未だに睨むような表情をしている亮に、笹原はふっと困ったような表情を浮かべてみせる。本当は、微塵も困っていないのに。
「なんでって……キミに、助けてほしいことがあるからだよ」
「――彼だよね、この間、清水亮と一緒にいたのは」
「だと思いますよ。なんか胡散臭そうな感じしますね」
亮と笹原が立っている場所のほど近く、階段の踊り場と五階の間で、誰にも聞こえない会話が繰り広げられていた。認識阻害の魔法で姿と声の消えた魔術師協会の二人に、誰も気付くことはない。古夜は階段に座り込み頰杖をつき、遠夜はその後ろで手すりに寄りかかって、目の前の会話を聞き続けている。
「多分、清水亮はこいつになんか言われてあの事件を起こしたんだろうね。脅されていたのか自分から進んで協力したのか、そのあたりは分からないけれど……事件当時の感じからして、自ら望んでやっているような感じじゃない気がするんだよな。なんかしらの理由があって、嫌々やっている気がする」
「それは僕も思いました。……にしても、清水亮は、もしかして」
「だろうね。自分であの事件についての記憶を消してしまっている」
古夜は自分の手をじっと見て、亮の方へと目線を移す。
「――やろうと思えば、記憶を取り戻させることはできるよ。難しい魔法のように思われているけれど、案外簡単にできるんだ。魔力消費に関しても、おれが魔法を扱う分には気にしなくていいくらい。清水亮だって容易に使えるはずだ。そうだな……神田巷一には扱えなくても、柏木蓮人にだったら扱えるくらいの量だって言ったら分かる?」
「魔力が見えない一般人に分からない例えをしないでください」
「そっか。平均以上の魔力量を持っている魔術師なら扱える魔法だよ」
「ああ、なるほど」
納得したように遠夜は頷いて、しかし、すぐに古夜の方に視線を落とした。
「――やらないんですね」
「やらないよ。魔法をかける側もかけられる側も、精神的な負担が大きいからね。……それに」
古夜は振り返って、確信を持った目で遠夜を見上げる。
「今はおれたちが手出しするタイミングじゃないよ。忘れたの? 清水亮の周りには二人も魔術師がいるんだよ。きっと、彼らが動くさ」
歌うようなのにどこかそっけない口調で言った古夜に、遠夜は亮の方を見た。顔をゆがめながらも、目の前にいる男の言葉に頷いた亮のことを。
「……もしかして、あの男が清川亮に言うことを聞かせているのって、あの二人が理由だったりしませんかね」
「え、」
ふと口からこぼれ落ちた思い付きに、古夜はさあっと顔色を変えた。
「あの二人を人質に取られている、とか。上手い言葉が見つからないですけど、なんか、ありそうじゃないですか?」
頽れるように頭を抱えこむ。喉を絞められたかのような、苦しげな音が古夜の喉から漏れる。
「――嫌な想像をするね、紺野君は。十分あり得るよ」
くしゃりと古夜の手が自らの髪を握りこんで、うめくような声が答えた。
そのまま自分の短い癖っ毛をかき乱したかと思うと、突然勢いよく顔を上げる。
「あー、もう。これはちょっと深く首を突っ込まないといけないかもしれないね。彼について調べてみようか。理由が何であれ、魔術師を悪い意味で利用しようとしている一般人がいる。これは、見過ごせない事態だよ」
そう言い切った古夜の声に普段の声とは違う響きを感じ取って、遠夜は古夜の隣に座り込み、隣にいる同僚の顔を覗き込んでみる。
古夜の目の奥にはいつものように優しい色があるのに、今日はそこに、燃えるような色が一緒に滲んで見えた気がして、遠夜は言葉を失った。
(続く)
*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】