誰が為の世界で希う-11

 亮が笹原と大学附属図書館で会った、その数日後。
 風が強く吹き渡る中を、亮は大学に向かって歩いていた。
 このあと、大学の空き教室でドラマの台本の読み合わせがある。先日海弥に渡された台本に目を通していた亮だったが、そのうち風の強さに辟易したように台本を鞄にしまい込む。代わりに記憶の中の台本を思い浮かべて、なにかを考えるかのように視線を泳がせはじめた。
「『いっそのこと、忘れられたら楽だったのに』――か」
 亮がふと呟いたのは、主人公の台詞。亮が、撮影の中で口にしなければならない言葉。
 ひとつ、息をついて唇をかむ。
 いつの間にか、足は止まっていた。
 前に進めとばかりに風が背を押しても、亮は時が止まってしまったかのように動かない。
「あれ、誰かと思ったら清水じゃん。どうしたの、こんな場所で立ち尽くしちゃって」
 再び身動きが取れるようになったのは、後ろから海弥がやってきて背を叩いてきたときだった。
「いや……まあね。少し考え事」
「そっか。もしよければ話聞くけど」
「いいよ、別に。そんな大したことじゃねえし」
 ふたり横並びに、大学までの道を歩く。亮の言葉に、海弥は意味深な笑みを浮かべて友人の顔を覗き込んだ。
「ほんとに?」
 諦めたようなため息が、亮の口から漏れる。
「……なあ、犬童」
「ん?」
 海弥と目を合わせないようにしながら、亮は「ドラマのことだけど」と話を切り出す。
「この話って、主人公が大切な恋人を失ってから、それを受け入れられるようになるまでの話だよな」
「そうだね。恋人の死を知った主人公は、それを受け入れられない。だから、恋人の幻を見るようになってしまうけれど、頭では恋人の死を理解しているから混乱に陥っちゃって、それでも周りにはなんともないようにふるまって。疲れ切った主人公は恋人の幻に死へと導かれかける――要するに死にたいって思って実行に移しかけちゃったんだよね。それを周りに止められて、ようやく恋人の死を受け入れられるようになる、っていうお話だね」
 それがどうしたの、と言いたげに首を傾げた海弥に、亮は泣きそうな表情を作って口を開いた。
「『いっそのこと、忘れられたら楽だったのに』――こういう台詞があるよね」
「……急にそんな顔にするからびっくりしたわ。やっぱりお前、演技上手いよな」
「うるせえ。本題そこじゃないんだよ。……いや、ドラマと関係あるかも怪しいんだけど」
 服の上から、ネックレスを摑む。じわり、と手のひらが熱を持った。
 亮は、顔から感情を消して、うつろな目でここではないどこかを見つめた。
「もしさ……本当に記憶を忘れられるとしたら、忘れることで苦しさや悲しさから解放されるなら……お前はどうする?」

「記憶を消すことはできるかな」
 数日前、区役所近くの喫茶店に呼び出された亮は、笹原にそんな問いを投げかけられた。
 二人掛けの席に向かい合って座り、互いの表情を読むようにしながら、言葉を交わす。
「……急に、なんですか」
「知り合いがね、大切な人を失ってからもうずっと立ち直れないでいるんだよ。『いっそのこと、忘れられたら楽だったのかな』っていうから、もしそれができたら知り合いも立ち直るんじゃないかなって思ってね」
「……ご本人が、それを望んでいるんですか」
 亮が訝しげに問うと、笹原は頷いた。
「そうでなきゃ、本人を呼んでない」
 ほら、と笹原が指さしたのは、二人が座っている席の隣。同じような二人掛けの席に、一人の女性が座っていた。
 いや、眠っていた。テーブルに突っ伏していて表情は見えないが、背中が規則正しく動いているのが分かる。飲み干されたアイスコーヒーのグラスが、女性を静かに見つめていた。
「キミが来る前は、彼女と話していたのさ。『もう何年も夫のことをどうしても忘れられない』『苦しくて仕方がない』って、たくさんコーヒーを飲んで、それと同じだけ泣いて、疲れて眠ってしまったみたいだね」
 目をすがめて、笹原を見下ろした。けれど笹原は平静そのもので、嘘をついている気配もない。
「どうかな。彼女から大切な人の――彼女の夫の記憶を消すことはできるかな」
「そんなに簡単に言わないでくださいよ。難易度だって高いし、魔力の消費だって激しい魔法なんですよ」
「でも、キミならできるだろう?」
 実際に認識改変の魔法で記憶を加えるところを見られてしまっている以上、笹原の言葉を否定することができない。ぐっと詰まった亮に、笹原は言葉を畳みかけた。
「キミにはないのかい。この記憶がなければよかったのにって思うこと。こんなことなければ苦しまなかったのに、幸せでいられたのに――そう思った経験が、消したいと思う記憶が、ひとつくらいはあるんじゃないのかい」
 瞬間、亮は胸の奥でなにかが震えたような気がして、嫌な記憶を引きずり出されたような気がして、眉根を寄せた。
「――それは、」
「あるんだね?」
 頷かなかった。けれど、否定もできなかった。
 たしかに、ある。
 今でも思い出すと心に刻み込まれた古傷が痛んでしまうから、普段は思い出さないよう胸の奥底にしまい込んでいる、そんな思い出が。
「それなら、忘れたくても忘れられずに苦しい思いをしている彼女の気持ちも、キミには分かるんじゃないのかな。そしてキミは、その苦しさを消すことができるんだよ」
 感情の読めない表情で、笹原は亮を見上げてニッと笑った。

 そのとき亮は、見ず知らずの彼女の記憶を消してしまった。夫のことを忘れて楽になれるなら、と思ってしまった。膨大な魔力を使った感覚はあったから、その分消えた記憶も多く、複雑なものが多かったのかもしれない。
 その後、彼女には会っていない。
 その後も数度、笹原に呼び出された。場所は公園だったり図書館だったりとまちまちだったが用件は似ていて、亮は毎回、記憶を消す選択をしてきた。
 それが正しかったのか、亮には、分からない。
「うーん、そうだね。その人にもよるかもしれないけれど、おれは、あくまでもおれはね、忘れたくない、かもしれないなって思う」
 風が耳元で鳴るのが聞こえて、亮は現実へと戻ってくる。鮮やかな緑色の葉が、どこかへ飛んでいくのが見えたと思った。
「辛くて悲しいのは、多分、幸せだったからなんじゃないかな。だから、たしかにね、忘れたら苦しくないと思うよ。でも、おれはなんか違うかなぁって」
「……そっか」
 それだけ言って黙り込んでしまった亮に、海弥は同じ問いを投げかけた。
「清水は、どうすると思うの?」
「……分かんない。忘れられたら幸せかもって考えたくなるのも分かるし、お前が言ってるのも、分かる。だから……すごく、迷ってるんだよ。もしかしたら、ドラマをやっていくうちに分かるようになるのかもしれないけどさ」
 いまは、まだ。
 そう言って亮は、空っぽの笑みを浮かべた。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】