誰が為の世界で希う-7
長期連休明けの昼下がりは、雲一つない、文句のつけようのない晴れだった。
「ありがとうございましたー」
有楽町線東池袋駅沿いにある、高速道路高架下の商店街。その中にある飲食店から出てきた男は、見送りの声を無視して裾長のジャケットを羽織り、ワイシャツのポケットに手を突っ込んだ。煙草を取り出し、口にくわえようとしたところで、その手を止める。
丸渕眼鏡の奥にある鋭い垂れ目をすっと細めて、見つめる視線の先。
二人の男子大学生が、車道を挟んで向こう側の歩道で談笑している。それだけのはずだった。少なくとも、通りを歩く他の人々にとっては。そして、当人たち――亮と海弥にとっても。
視線に気づかぬまま、二人は大学へと歩を進める。
「なあ清水」
「ん?」
「ちょっと、頼みがあるんだけどさ」
「なに?」
どこか甘やかすような亮の声に、海弥はぱっと目をきらめかせ、少しばかり早口になりながら饒舌に語り始めた。
「実はねぇ、今度、課題でドラマを作ることになったんだよ」
「へえ……そんなのあるんだ」
感心したように言う亮に、海弥はどこか得意げな表情で何度か頷いた。
「そりゃあ、映像編集を専門にしてる学部だからね。十月……いや十一月だったかな? そのくらいにやる学部のイベントで外部の方にも見てもらう作品を撮れって内容でさ」
「じゃあ結構大事な課題なんだな」
「そうなんだよ。しかも、グループ組んでやるんだけど、おれが監督やることになったんだよ」
「え、すげえじゃん」
目を丸くしながらも笑顔で、素直にそう口にした亮だったが。
「そのドラマに、出てくれないかな」
そう続けられた海弥の言葉に、思わずぶっと吹き出した。
「え、お前、それ……ガチで言ってる?」
「うん。役者がどうしても一人足りなくってさ。お願いしてもいいかな?」
「無理に決まってるだろ、そんなの!」
「そこをなんとか頼むよ……」
「無理なもんは無理!」
「頼むって!」
しばらくの間、二人の間で懇願と拒否が激しく飛び交っていたが、その口論はひとつのため息によって終止符が打たれる。
手を合わせ、上目遣いに覗き込むようにしていた海弥に向かって、亮が両手を上げた。
「……分かった、分かった。ただ、俺は役者なんてやったことないから期待すんなよ」
「大丈夫だって。役者はみんな初心者だからさ。本当にありがとな」
へらり、と笑みを浮かべながらも眉を下げている亮に、海弥は深く頭を下げた。
「脚本は近いうちに渡すからさ、少し待っててほしい」
「はいはい。じゃ、また連絡くれよ」
「おう」
海弥と大学校門付近で別れたところで、ポケットの中のスマートフォンが揺れた。
『柏木蓮人:今日の夜って、時間ある?』
一目見た通知から、ピンと想像が働いた。
――また三人で、あの公園で。
ふっと口角を上がるのを感じながら素早く返信し、講義が行われる教室へと急いだ。
だから二人は、亮は、知らないままだった。
ずっと自分たちを見つめ続けている人がいたことを。
高速道路の高架下。煙草を手に持ったまま、裾長のジャケットを身につけた男が突っ立っている。
「……あの『赤』は、見たことがない。知らない」
考えを整理するためか、淡々とした口調で呟いた。そして裏道に入ると、ようやく煙草をくわえて、火をつける。一口、ゆっくりと吸い込んだが、数秒後には激しくむせ込みはじめ、かけていた眼鏡がずり落ちそうになった。
なんとか息を落ち着けてから、眼鏡を直しつつ、大学のある方をじっと見つめる。もう一度、今度は少しだけ、煙草に口をつけた。
「あの魔術師は、強い」
煙が言葉になって吐き出される。表情は、能面をつけたかのように動かない。
携帯用の灰皿を取り出し、まだ吸いかけの煙草を消そうとして、手を止める。数秒後、男は火がついたままの煙草を道端にそっと放り投げた。すぐ近くに飲食店の裏口があり、ゴミがまとめられていたが、男にとっては知ったことではない。
煙の香りに背を向けるようにして表通りに戻り、豊島区役所のある方へと歩きだす。ジャケットに隠れて見えづらかったが、首にかかったネームプレートには『豊島区役所職員 笹原凛』の文字が記されている。
もうすぐ職場に着くというそのとき、彼の眉がぴくりと動く。そして、次の瞬間。
「――おーい、お前も昼飯食い終わったところか?」
先ほどの独り言からは想像もつかないほどの軽やかな声で、少し大股になった足取りで、同僚らしき人へと近づいていく。
白紙のようだった彼の顔にはいつしか、ごく自然な微笑みが描かれていた。
夕刻。
大学の講義が一通り終わったころ、亮は首を傾げながらスマートフォンを眺めていた。
『柏木蓮人:今日の夜、大学の向かいにある中央図書館で会おう。師匠も来るって。二十時半に四階のサービスカウンター近くで集合でもいい?』
てっきり公園で魔法の練習をするのかと思っていたら、区立図書館での待ち合わせ。疑問に思いながらも、亮は校門を抜けて道を渡り、目の前にある建物へと足を踏み入れる。だだっ広い空間があるだけの一階を見渡して、二つ並んだエレベーターに乗り込み四階へ。
図書館へと一歩足を踏み入れて、亮は目の前に広がる吹き抜けの空間に目を見張る。
ここには一度、来たことがある。つい最近、魔術師についての本を探す時、大学図書館にはよさげな資料がなかったので、ここまで足を延ばした。だから決して、目新しい景色ではないはずだった。
それでも、この開放的でありながらも、所狭しとばかりに数々の本が並べられているこの光景には圧倒されてしまう。
本の香りと人々の気配を胸いっぱいに吸い込んで、まずはずっと借りたままだったあの文庫本の返却。それを終えると何の気なしに館内を歩きだしたが、自然とたどり着いたのはやはり、巷一に教わった魔術師関連の本が置いてあるところ、だった。
巷一に教わった日本十進分類法の番号――一四七・七は、正確に言うと魔術師関連の本ではなく、虚構を含む魔法全般についての本がまとまっている分類のようで、目の前にある書籍の中には、魔術師になったばかりの亮でさえ参考にできないと感じるような本も多い。さて、どの本が参考になるだろうか――。
そんなことを思いながら、一際目立つ、古びてタイトルすら分からない分厚い本を取り出そうとした、その時。
「――あ、」
ぶつかった。
亮の華奢な手と、見知らぬ精悍な手が。
「っ、すみません!」
思わずと言った様子で謝ると、スーツ姿の相手も「いえ、こちらこそごめんなさい」と申し訳なさそうに頭を下げる。そして、顔を上げて、少し、間が空いて。
「――あれ」
スーツ姿の男性は、その四角い眼鏡の奥にある丸い吊り目を意外そうに見開いた。
自分とさして背丈の変わらぬ亮と、目の前にある分厚い本とを交互に見て、少し、こめかみに手を当てて考えて。
「えっと……あなたは、魔術師に興味があるんですか?」
「え、あ、はい。……俺、魔術師なんですけど、最近そうだって知ったので。いろいろ、知りたくて」
「ああ、なるほど。じゃあ、僕たち、似たもの同士かもしれないですね。僕も仕事柄、魔術師について知識を持っとかないといけないんですけど、見ての通りただの一般人なんで、勉強中なんですよ」
「……確かに、『色』は見えないですけど」
けれど、少なくとも、魔術師は色で他人の魔力を認識できるということをこの人は知っているのだ。
目の前にある分厚い本を軽々と取り出し、お先にどうぞ、といった様子でそれを差し出してきた男性に、亮は受け取りながらも怪訝そうな目を向けた。
「……あの。失礼を承知でお訊きするんですけど、お仕事って、なにされてるんですか?」
「そうですね。どうせどこかでお会いすることにはなったと思いますし、ここで自己紹介でもしておきましょうか」
至って真面目に、男性は軽く会釈して。
「魔術師協会池袋支部の紺野遠夜といいます。普段は同じ協会に所属する魔術師と一緒に街を見回ったり、魔法についての研究を手伝ったりしています。今日は、研究の手伝いに役立ちそうな資料を探しに来たって感じですかね」
聞き覚えのある組織の名前に、亮は思わず目を見張る。
「――魔術師協会って、」
「紺野君、こんなところにいた!」
なにかを言いかけたその瞬間、亮の知らない声が割って入る。
思わず声の方を振り返ると、そこにいたのは『山吹色』をまとって立つ、背の低い男性。決して若くはなさそうだが、胡桃色の癖っ毛と身にまとう白い革ジャンがよく似合う人だった。
その姿を認めた瞬間、遠夜は眉間にしわを寄せてその男性に詰め寄る。
「古夜さん、ここが図書館だってこと分かってます? 声が大きいですって」
「大丈夫、そのくらいは考えてるよ。……あれ」
不意に、古夜が亮の方を見る。細い彼の垂れ目に、いたずらっ子のような光が煌めいたのを、亮は見たような気がした。
「知らない魔術師だね。どうも、近藤古夜って言います。そこにいる紺野君は同僚でね。よく一緒に行動してるんですよ。同じ魔術師同士、仲良くしましょう」
鼻歌でも歌いだしそうな、楽しそうな笑顔で、台本を読み上げているような滑らかさで、古夜は言葉を紡ぐ。
古夜の視線が、だいぶ身長差があるはずの亮の目を、まっすぐに射抜いた。
「ところで、お名前は?」
「えっと……初めまして。俺は、清水亮って言います」
「清水君か。よろしくね」
すっと目を細めて笑顔を浮かべる古夜に手を差し出されて、亮は急な事態の展開に状況が飲みこめないまま、その手を摑んだ。
瞬間、思わず息をのむ。
目の前にいる魔術師は、恐らくは自分よりも多くの魔力を持ち、経験も豊富で魔法の練度もきっと高い。見える『色』の濃さと触れたときのあたたかさと、なにもかもを包み込むようなのに圧倒される、そんな気配からなんとなく、直感としか言いようがないが、分かってしまった。感じ取ってしまった。
気圧されて動けなくなってしまった亮の様子に気付いているのかいないのか、古夜はぱっと手を離して仕事のパートナーのことを見上げた。
「さて、そろそろ事務所に戻るよ」
「急に現れておいてなんなんですか、もう!」
「って言われてもなぁ。おれは帰るために紺野君を探してたんだからね。ほら、行くよ」
呆れたように怒る遠夜の言葉も意に介さぬ様子で、古夜はなにかを歌うように囁く。その言葉に導かれるかのように、ふわりと古夜と遠夜のことを『山吹色』が包みこむと、その姿は一秒も経たぬうちに搔き消えてしまっていた。
一人残された亮は、遠夜に渡された分厚い本を抱え、呆然と立ち尽くすことしかできない。
どれだけ、そうしていただろう。
「あ、こんなところにいたんだ」
ふいに背後から聞こえたのは、鼻にかかった聞き覚えのある声。
「そんなところでぼーっとして、どうしたの?」
緩やかに振り返ると、蓮人が首を傾げながらそこにいた。
魔術師協会の二人がいた場所を、ほんの微かに『山吹色』の残滓が残る場所をふと見やって、蓮人の方に向き直って。
「――なんだったんでしょう、あれ」
どこか頼りない声で、亮は呟いていた。
(続く)
*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
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