誰が為の世界で希う-16
七月になって数日が経ったある日、蓮人はゼミの教室から外を眺めていた。
蓮人の所属する心理社会学部心理学科の教室は、大学の正門近くにある建物の八階にある。幸か不幸か、大学構内を見渡すには――人探しをするには、ちょうどいい場所だった。
「柏木君」
けれど、背後からかけられた声のせいで、蓮人は人探しを中断せざるを得なくなった。
「――本間さん」
「最近、よく外を眺めてるよね。なんかあったの?」
首を傾げる風花に、蓮人は少しだけ考え込む。
彼女は、数少ない『噂を気にせず話してくれる人』だった。けれど、初めて話しかけてきたときは色眼鏡をかけていたものだから、信頼を寄せているわけではない。ただの理解者。普通の、つかず離れずの関係性。
亮とのことを、話していいものなのか。
「……実は、仲のいい後輩がいるんだけどさ」
その答えが出る前に、言葉がついて出た。
「そうなの? 仲がいいってことは、その後輩は柏木君のことをちゃんと分かってくれる子なんだね」
「……うん。そうだよ」
そう口にしてから、蓮人はいったん思考を放棄することにした。話してしまったものは仕方がない。亮の名前は出さないこと、亮が魔術師であることを言わないことに気をつけながら、今までにあったことを説明する。風花の言う通り、偏見なしに自分を見てくれていたこと、嬉しい言葉をかけてくれたこと、けれどなんの前触れもなしに避けられ、怯えられるようになったこと――。
「――嫌われたのか、それとも噂の方を真に受けたのか、それすらも分からないんだけどね。でも、ひとつ言えるとしたら、おれは……後輩のことを大切に思ってたんだよ」
「うん。だろうなって思った」
今までずっと蓮人の方を見て話を聞いていた風花が、ふと、窓の外を見上げる。
分厚く垂れ込める雲は、晴れそうにない。
「だって、柏木君の言葉選びがぜんぶ優しかったもん。別に、普段は感情がないように見えるって言いたいわけじゃないけど、あんまり表情の見えない柏木君が、こんなに感情をのせて話せるんだって思うくらいに生き生きとしてるし」
「……そんなに、いつもと違う?」
「うん」
戸惑いをあらわにした蓮人に、風花は即答。
「そっか。……そんなに違うのか」
蓮人は思わず、苦笑い。
「その後輩はね、人のことをしっかり見ているんだ。そして、自分でいろいろ考えて、行動に移す人なんだよ。だから信用しているし……尊敬も、してる」
「つまり、それくらい柏木君の中で大きな存在の後輩が、突然態度を変えたから不安なわけだ」
「そう。……なにか、あったのかなあ」
呟くように口にして、窓の外を見下ろした。
すっかりひとけのなくなった大学構内に、講義開始のチャイムが鳴り響いた。
二時間後。
ゼミの講義を終え、調べたいことが出てきた蓮人は、大学附属図書館にいた。ひとけもないからと魔法で必要な資料を呼び寄せて、中身をぱらぱらとめくり確認すると、そのまま貸出処理をして図書館を出た。
思いのほかほしい資料がなかった、と蓮人は借りてきた本を見下ろす。片手で抱えられるほどの冊数しかなく、これでは卒業論文のテーマについて書くには足りない。
「さすがに大学だけじゃ調べ切れないかぁ」
区立や都立の図書館、あるいは国立国会図書館を利用するべきか、と考えながら校門の方へと足を進めていた、そのとき。
見慣れた影が、目の前をよぎった。
「亮くんっ!」
思わず呼びかけたその声に、亮は逃げるように駆け出した。しかし、蓮人は周囲にひとけが無いことを確認するなり手を一振り。ひと呼吸のうちに亮の後ろへと移動してその腕を摑んだ。
弾みで蓮人の被っていたフードが外れ、顔があらわになる。
「ねえ。どうしてずっと、おれのことを避けてるの?」
「……そんなつもりは、なかったんですけど」
目を瞬かせ、きょろきょろと視線を泳がせながら、亮は言う。声には、困惑の色が混ざっていた。
「本当に?」
縋るように問いかける蓮人に、亮は迷うように頷いた。
「俺も……なんでこんなに避けようとしてるのか、分からないくらいで」
「無意識に、ってこと? じゃあ、おれのことを避けている間、なにをしていたの? なにかあったの?」
矢継ぎ早に言葉を重ねる蓮人に、亮は空いているほうの手で髪をぐしゃぐしゃにかき乱す。少しばかり唸って考え込んでいたが、苦虫をかみ潰したような顔で「それなら」と口を開いた。
「俺の記憶を読んでもいいですよ。記憶に関する魔法が得意な先輩なら、できますよね?」
「……うん、できるよ。できるけど……」
けれど、それは簡単にしていいことではない。
「本当に、いいの?」
「嫌だったら記憶を読んでもいいなんて言うわけがないじゃないですか」
「……たしかに、そうだね」
それなら、と魔法をかけようとして、両手がふさがっていることに気がついた。片手は亮の腕を摑んだままだし、もう片方の手には今しがた借りてきたばかりの本を抱えている。
手の動きはなくとも魔法は使えるが、それなりに長いこと魔術師であり続けている蓮人でも、なんの予備動作もなしに魔法を使うことは怖い。不発ならまだいいが、魔法の暴走だけはさせたくない。考えあぐねた結果、蓮人は、すっと小さく息を吸い込んだ。
「――〈わたしと会っていない間、彼が、なにをしていたのかを見せろ〉」
呪文を補助に使う。それが、蓮人の思いついた代替案だった。専用言語である呪語は長らく使っていなかったが、簡単な単語であれば覚えている。
流れるような言葉とともに、蓮人の眼前に亮の『記憶の欠片』たちが浮かび上がる。それは一見すると写真のようだが、視線を向けるとスマートフォンで撮影できる動く静止画のように記憶が動き出し見ることができる。いくつかピントが合わなかったかのようにぼやけているものがあるが、それはおそらく、亮が見せたくないと思っている記憶たちだろう、と蓮人は思った。
滅多にはないが、過去に一度だけ経験がある。魔法の練習で、師である巷一の記憶を読ませてもらったときだ。一般人が記憶を読む魔法をかけられた場合は抵抗できないが、魔術師は見られたくない記憶に魔力で靄をかけることで抵抗ができる。靄をかけている魔力を破ってしまえば抵抗も無駄になるが、それが出来ないことは亮も蓮人も分かっている。単純な魔力量で争ってしまえば、亮の方が上。蓮人には亮の魔力を破るだけの力がない。おそらく亮は、そのことが分かっていたから、記憶の開示を許した。
魔法に抵抗できるのは、魔法だけ。だからこそ、強い魔法を使う際には注意が必要だし、魔術師たちは独自の決まりで自らを縛っている。
いくつかの記憶を目にした蓮人だったが、ふと、写真に巨大な穴が開いて見れなくなったかのような、そんな『記憶の欠片』を見つけてはっと息をのんだ。
「――どうして」
本来あるはずのないものを目にして、蓮人の声が震える。
「亮くん……一個、訊いてもいいかな……?」
「どうしたんですか?」
首を傾げた亮に、蓮人は血の気の引いた青ざめた顔で、心なしか荒くなった呼吸を無理やり落ち着け、問いかけた。
「どうして、記憶が消えてるの……?」
――本来、本人が忘れてしまって思い出すことのできない記憶があったとしても、それは本人の脳内には必ず残っている。だから魔法を使えば、思い出せない、忘れてしまった記憶であっても蓮人は見ることができるはずだった。
けれど、見ることのできない記憶がある。
それはつまり、明らかに記憶が欠落している――完全に消えてしまっているということ。
記憶が完全に消えてしまう理由は、さほど多くない。
脳の機能不全。あるいは、魔法による記憶削除。
亮に脳の障害があるという話は聞いていないし、その様子もない。そして、認識改変をできる魔術師は数少ないが、確実に一人、目の前に存在している。
「えっ?」
なにを言われたのか分からない、とでも言いたげに亮は首を傾げているが、間違いない。
「ねえ、」
導き出された結論は、ひとつだけ。
「亮くんは……どうして、自分の記憶を消したの? どんな記憶を忘れようとしたの?」
「なに言ってるんですか……? 記憶が消えてるって、どういうことですか、それ」
「嘘。自覚してないの?」
自分の記憶を消したことすら思い出せない。記憶を消したという事実すら覚えていないのだとしたら、蓮人も知らない別の魔術師に記憶を消されたという可能性も否定はできない。想定外のことに、蓮人の体中に震えが走る。
どうしようか、と考える前に口が動いていた。
「〈彼が忘れた記憶をよみがえらせろ〉」
――完全に消えてしまった記憶を復元することは、認識改変ができる魔術師ですら不可能なこと。似たような記憶の捏造はできても、オリジナルには戻せない。ましてや、記憶を読み取ることしかできない蓮人に消失した記憶の復元などできるわけがない。
けれどそれは、あくまでも人の脳内にある記憶の話だ。
『人体』というモノに染みついた記憶は消えない。改変もできない。体が記憶している過去から、脳の記憶を復元することならばできる。
それが可能なのは、認識を書き換える魔法ではない。記憶を読み取り、人に見せることのできる魔法――つまりは蓮人の得意分野だ。
呪文を唱えると同時に、魔力を編み上げる。『黄色』の魔力が亮の体を取り巻いて、光の欠片が浮かび上がり、勢いよく亮の頭に吸い込まれて消えていく。
「――あ、あ……あああっ!」
「亮くん!?」
魔法が終わると同時に、亮が唸るような叫び声をあげ、ずっと腕を摑み続けていた蓮人の手を力づくで振りほどいた。
その勢いに気圧されて、蓮人ははっと我に返る。
――消された記憶は本人にとって酷な現実を突きつけることもある。だから、記憶の復元をする前に必ず記憶を戻してもいいか確認し、心の準備をしてもらわなければならない。
そのことを、すっかり蓮人は忘れていたのだ。
木々の葉擦れの音が、不安をあおるように蓮人の耳に刺さる。
亮の息が荒い。顔は青ざめているのに、額には汗が浮かんでいる。強く頭を押さえて、この上なく目を見開いている。瞳孔が、おののくように揺れていた。
「俺……あ、あぁ……」
「亮くん、ごめん! 大丈夫!?」
蓮人が近づこうとすればするほど、亮はおぼつかない足取りであとずさって離れようとする。蓮人を前に進ませまいとするかのように向かい風が吹いた。
「ねえ、なにを思い出したの?」
どんな記憶が亮を苦しめているのか。せめてそれだけでも知りたいと、蓮人は風に逆らうように手を差し伸べた。それと同時に『記憶の欠片』たちが浮かび上がって――。
――パチン。
指の鳴る音とともに、赤い光に覆われて『記憶の欠片』が消える。
「……相殺、魔法?」
相手の魔法を消す魔法。使えると便利だが、相手の使用している魔力量よりも多い魔力を要求される、厄介な一面もあるそれを、亮は使いこなしてみせた。
「いつの間に覚えたの……?」
「はぁっ、はぁ……もう、っ……見ないで、」
息も絶え絶えな、亮のかすれた声。
「見ないで……ください……っ」
強く首を振って吐き捨てて、よろめきながらも亮は走り出した。
「あっ、待って!」
追いかけようにも、長足な亮の足の速さには負けてしまう。魔法で追いかけようかとも思ったが、亮が向かった先は大学の外、人混みの中。堂々と魔法を使って悪目立ちをしたくはない。そもそも、記憶を読んだり復元させたりといった大規模な魔法を使ったばかり。魔力量の消費が激しく、体が鉛のように重い。さっきから思考がうまく働かず大事なことを忘れてしまっていたのは、他者の記憶に干渉して精神的に負担がかかっていたせいだろう。
逃げられた。
「本当にごめん……勝手に、魔法をかけちゃって……」
一人残された蓮人は、悄然とした様子で呟く。
「でも、亮くん……なにがあったの……?」
亮が蓮人を避けた理由は、結局分からないまま。なくしていた記憶に鍵がありそうだが、本人が見せたがらないものを勝手に見るわけにもいかない。どうして認識改変魔法に難色を示していた亮がそれを使ってしまったのかも、蓮人には想像がつかなかった。
けれど、ひとつだけ。
亮に記憶を読み取る魔法を打ち消される直前。『記憶の欠片』に一人の男がうつっていたのを、蓮人は見逃さなかった。
――笹原凛。
彼が、亮の消した記憶や自分を避け続けていた理由に関わっていることは間違いない。蓮人の、魔術師としての勘がそう告げていた。
スマートフォンのメッセージアプリを開く。
『師匠、相談したいことがあるのですが』
巷一に向けての言葉を、蓮人は素早く打ち込み始めた。
(続く)
*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
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