誰が為の世界で希う-2

 なにかのはじまりを告げるように、強く風が吹いていた。
 その日の講義を終え、ひとり構内を歩いていた亮はひとつだけ優しく息をついた。桜の花びらがあおられ、なびいて、散っていく様子を見上げながら。
 夕暮れの風は、道行く人から熱を奪っていく。けれど亮は、ふっと微笑みを浮かべて一言。
「涼しいな、今日は」
 実家が北方の地域にあるということもあってか、少しばかりの寒さには強いらしい。周囲の人々が少し身を震わせながら歩く様子を横目に、軽やかな足取りで正門へと向かった。アルバイトの予定もないようで、このまままっすぐに帰宅するつもりらしい。
 新学期スタートから数週間が経つ。新たなキャンパスでの生活にも慣れ、構内で迷うことも減ってきた。この東池袋にある校舎で過ごす毎日も、少しずつ新しい日常として体に染みついてきている。

 けれど、非日常はいつだって、前ぶれもなくやってくる。

「――あの」
 男の人にしては少し高く、鼻にかかる穏やかな声。聞きなじみのないそれに、眉をひそめながらも亮は振り返る。
「初めまして」
 声をかけてきたその人の姿をみとめた瞬間、亮の目は大きく見開かれた。
「すみません、驚かせてしまって」
 こんな姿じゃびっくりしますよね、と声の主は微笑むが、亮が言葉もなく固まってしまった理由は他にある。
 黒いパーカーと、黒ズボン。フードは目深にかぶっており、相手のことは知らないはずなのに、なぜか懐かしさや温かさのようなものを感じている。なにより、亮の目には彼が『黄色』をまとっているように見えている。
 つまり、この人は。
「……あのとき、の」
 思わず呟いた亮の言葉は、目の前の人には聞こえなかったらしい。そんなことよりも、と緩やかに首を振って、ひとつの問いを投げかける。
「あの、どなたですか……?」
 疑り深い亮の声に、黒いパーカーの人物ははっと我に返った。
「急にすみません。でも、一度話してみたいことがあって。……ああ、それより自己紹介が先ですよね」
 ざわざわと風が吹き始め、木の葉の擦れる音が耳障りなほどに響く。
「おれのことは、名は知らずとも噂くらいは耳にしたことがあるんじゃないかと思います。不本意ながら知れ渡ってしまったので――『不幸を呼ぶ少年』と呼ばれる魔術師がいる、と」
 亮の吸い込んだ息が、ひゅっ、と音を鳴らした。
「じゃあ、あなたが」
 ひときわ強い風が黒いフードを脱がそうとして、けれど、それよりも先に彼自身がそれを外した。
「おれがその魔術師です。心理社会学部心理学科三年の、柏木蓮人といいます」
 以後お見知りおきを、と丁寧に頭を下げる目の前の人を、亮はじっと見つめていた。
 輪郭は横に丸く、全体的に血の気があまりない。丸みを帯びた細い垂れ目はまっすぐに亮を見つめていて、前髪は左目を隠すほどに長く、後ろ髪は少し癖がある。黄昏時の陽光が葉の隙間からこぼれ、彼の金髪に落ちて溶けていくようだった。
「さっき、俺と話したいことがあるって言ってましたけど、それってなんですか」
「ここで立ち話もなんですし、少し長くなりそうなので近くの公園に移動しませんか。待たせている人もいますし」
「――待たせている人?」
 人目を気にしたのか、フードを被りなおした蓮人に、亮は眉間にしわを寄せて問いかける。蓮人はかすかに頷いて、ゆったりと歩きだした。
 反射的に追いかけようとして、でも、亮はその足を止める。
 彼が話したがっていることも、待っているという人のことも、柏木蓮人という人のことも、なにも知らないままについていっていいのだろうか。そんな疑問が頭をもたげる。
 自然と距離の離れていく魔術師のことを見つめながら、その人のことを信用してもよいものか、確信を持てないでいた。
 けれど。
 蓮人は、正門の前でこちらを振り返った。亮を呼ぶでもなく、手招きするでもなく、ただ、じっとこちらを向いて待っている。焦りもなく、逃げも隠れもしないと言いたげな、堂々とした態度だった。
 ――きっと、大丈夫。
 直感でしかなかったが、そう、亮は思えた。そして、昔から勘の良さには自信があった。
 正門に向かって走る。その瞬間、わずかにしか見えない蓮人の表情に喜びが上乗せされたように、亮には見えた。

 蓮人の言った『近くの公園』は本当に大学のすぐ近くにあり、五分もかからず目的地にたどり着く。ビルと植込みの木のせいで日当たりが悪く、夕暮れ時なのも相まって薄暗い。
 そんな公園のベンチに、長い髪をひとつにまとめた男性が一人、座っていた。
「――師匠!」
 その男性に向かって、蓮人の鼻にかかった声が投げかけられる。ポロシャツにベストを身につけたその人は、つい、と顔を上げて「おー、蓮人か」と二人に向かって手を振った。
「師匠?」
「おれに魔法を教えてくれた人で、本当にすごい魔術師なんですよ」
「……はぁ」
 気の抜けたような声を発してしまった亮だったが、蓮人が『師匠』と呼ぶその人の姿をみとめた瞬間、目を見開いた。瞬きをして、目をこすって、それでも見えるものは変わらないのか、参ったような表情で一つため息をつく。
「――『青』、か」
「え?」
 師匠のもとに駆け寄ろうとしていた蓮人が、亮の呟きに立ち止まる。
「今、『青』って言いました?」
「え、あ……はい」
 怪訝そうに答えながら、亮はベンチの男性の方に目線を向ける。
 亮の目には、彼が『青』をまとっているように見えていた。
「――間違いないね」
「え?」
「とりあえず、師匠のところに行きましょうか。そこでちゃんと自己紹介をしあってから、本題に入りましょう」
 いつの間にフードを外していたのだろう、微笑んだ蓮人は金色の髪を揺らしながら師匠のもとへと駆けていく。亮は首を傾げながらもそのあとを追いかけた。
 ベンチの前で、三人は顔を合わせる。男性は蓮人よりも背が高いが亮と比べると背が低く、自分よりも背が高い人と出会うことが少ないのか、一瞬驚いたような表情を見せた。
「久しぶりだな、蓮人。きみは初めましてかな」
 ほんの少しかすれた、けれど聞き心地の良い声で、ベンチにいた男性が第一声を発した。歳は分からないが、壮年と言ってもよさそうに見える。丸縁眼鏡の奥から、彼の細い垂れ目が亮の方をじっと見た。
「おれは神田巷一。蓮人には『師匠』って呼ばれてる。よろしく」
「あ……初めまして。東池袋学芸大学二年の清水亮です。よろしく、おねがいします」
 頭を下げながら、全身がぬくもりで包まれているような感覚に陥る。蓮人と二人きりでいたときよりも、なぜか懐かしさのようなものが増しているような、そんな気がした。
「で、本題なんですけど……さっき、師匠を見て『青』って言っていましたよね」
 蓮人の言葉に、亮は「はい」と頷く。そして、少しだけ逡巡してから、こう付け加えた。
「柏木先輩は、『黄色』をまとっているみたいに見えます」
 蓮人と巷一が顔を見合わせる。笑顔で亮の方へと向き直った蓮人が質問を重ねていった。
「じゃあ……他に、おれたちと一緒にいて気づいたこととか、普段と違うな、って思うことってありますか」
「気のせいかもしれませんけど、なんか、あったかいというか、懐かしいというか……そんな感じがしますね。……これ、なにか意味があるんですか」
「そうだね。じゃあ、少しだけおれたち魔術師の話をしようか」
 首を傾げる亮に、巷一がようやく口を開く。
「魔術師は、自らの内にある魔力を行使して魔法を操ることのできる者――そのくらいは多分知っていると思う。けれど、そもそも魔力っていうものを認識できるのは魔術師だけで、一般人は魔力を認識することすらできない、って話は聞いたことがあるかな」
「……ない、です」
「まあ、そうだよね。じゃあ、魔術師がどんな風に魔力を認識するかって話なんだけど……自分が持つ魔力に関しては自分で感じ取れるからいいとして、他人――他の魔術師が持つ魔力をどんな風に認識するか、だね」
 巷一は、亮の目をまっすぐに見つめた。瞬間、胸の奥がじんわりとぬくもりで満たされるような、そんな感覚を亮は抱いた。
「他の魔術師の魔力は、『色』と『気配』で認識できる。まず『色』だね。人によって何色かは違うけれど、魔力には色がついているように、魔術師の目には見えるんだ。さっききみが言っていたように、おれの魔力の色は『青』だし、蓮人の魔力の色は『黄色』だ。そしてもうひとつ、『気配』だね。魔術師が他の魔術師に出会うと、懐かしさや温かさを感じるんだ。これは自分の魔力が相手の魔力に反応して起こると考えられているんだけどね。
――つまり、おれたちの言いたいことっていうのは」
 巷一がひとつ、深呼吸。
 なにかを察したのか、亮の表情が心なしか強張った。
「――きみも、魔術師だよ」
「……えっ?」
 亮の口からこぼれ落ちた声は、震えてしまっている。
「そんな……そんなわけない。ありえませんよ、そんなこと」
 輪郭の定まらない声は、だんだんと、大きくなっていく。
「魔法なんか使ったことないのに、魔力の存在なんて感じたことないのに、なのに、なのに魔術師なんて言われたって……そんなの、信じられませんよ!」
 亮の大声に驚いたように、公園にいた小鳥たちが飛び去っていく。
 感情をむき出しにした亮に、蓮人は気圧されて身動きが取れなくなったが、巷一は「まあ、そうだよな」と穏やかな口調を乱さなかった。
「実はね、数日前に蓮人からこんな連絡をもらったんだよ。『魔力の気配は感じるのに、色が見えない人と出会った』ってね」
 きみのことだよ、と巷一は続ける。
「きみ自身は他者の魔力の色を見れるし、気配も感じ取れる。つまり、魔力を認識できる――魔術師であるはずなんだ。けれどきみは魔術師だという自覚がなかったんだよね。きみの話しぶりから、なんとなく分かったよ。……というよりも、蓮人からきみの話を聞いた時点で『この人は自分が一般人だと思っているかもしれない』って思ったんだ」
 なぜかというとね、とここで一呼吸おいて、巷一はさらに話し続ける。
「おれたちは、本来見れるはずのきみの魔力の色が見えない。そう考えると、ひとつだけ、思い当たることがあったからね。きみが魔法を使ったことがないことや、自分の魔力を感じることができないことにも納得がいくような、そんな理由があるんだよ」
 巷一の淡々とした、安定した話し方に、亮も蓮人も静かに耳を傾けている。
「おれが思うに、きみの魔力はきみの中で封印されている状態なんじゃないかな。だからきみは魔法を使うことができず、魔力を感じることができない。おれたちは、一応魔力は存在しているから気配を感じ取ることはできるけれど、封印されているから色を見ることまでは叶わない。――どうかな。この説明できみは、自分が魔術師でありながらも今まで魔法が使えなかったことに、納得できるかな」
 真っ直ぐに、真摯な目で巷一に見つめられ、亮は困惑したように視線を泳がせた。言葉にならない思考に埋め尽くされて頭がうまく回らないが、それでも言われたことをゆっくりと反芻する。
「……理解は、一応できますけど」
「よかった。魔力の封印は、珍しいけれどないことではないらしいんだ。特に強い力を持つ魔術師は、生まれつき魔力を封じられているみたいだね。自分が魔術師と知らないときに、無意識のうちに魔法を行使して誰かを傷つけることのないように――ということらしい。……当たり前だけど、力が強ければ強いほどできることも多彩になるし、相手への影響力も強くなる」
 さりげない、手慣れたような仕草で、巷一は左手首につけていた腕時計に触れる。青いレザー調のバンドと金色の文字盤が、彼の服装によく似合っていた。
「もしきみが魔法を使ってみたいなら――魔術師として生きていきたいなら、きみに手を貸したいと思っている。魔力の封印を解く、あるいは無力化する方法をおれは知っているし、多少なら魔法を教えることだってできる」
「おれも……大したことはできないかもしれないけれど、多少の手伝いくらいはできるんじゃないかと思ってます。一応、魔術師の先輩として、ね」
 蓮人も巷一の言葉を継ぐようにして微笑んだ。
 二人に見つめられ、亮はなにかを悟ったような表情を浮かべる。逃げるように目線を下げたが、むしろ自分よりも背の低い二人に気づかわしげな視線を送られてしまう。亮の行動を迷いと見たのか、それとも不安の表れだと思ったのか、巷一が優しく言葉を重ねた。
「もちろん、無理強いはしないよ。魔法を使えるようになってしまったら、今までとはなにもかもが変わってしまうからね」
 どうする? と声をかけられたわけではない。けれど亮には、選択を迫られているような気がした。
 心臓が、どきどきと早鐘を打つ。
 にわかには信じがたいことだが、目の前の二人が嘘をついているようにも見えない。声にも遊んでいるような響きはない。
 自分の手を、見下ろした。
 縁遠い存在だと思っていた魔術師なのかもしれない。自分にも、魔法が使えるのかもしれない。けれど、変化が大きいと分かっていてこの先のことを決めるのには、時間が足りない。
「――一週間。時間を、もらえませんか」
 亮の言葉に、目の前の二人は真剣なまなざしを向けてくる。巷一が、言葉の続きを促すように小さく首を傾げた。
「俺は、魔術師のことを全く知らずに生きてきました。なにができるようになって、なにがどう変わっていくのか、分からないまま決めるのは……俺には、少し怖いです。だから、魔術師のことを知りたい。そして、しっかり考えてから、決めたいんです」
 二人のまなざしに、まっすぐな視線で返す。
 目の前の二人は顔を見合わせて、笑みを浮かべた。
「分かった。じゃあ、また来週のこの時間に、おれはこの公園で待ってるよ。蓮人はどうする?」
「もちろん、ここで待ってます。手を差し出したのはおれなんですから。差し出しておいて勝手に引っ込めるなんてひどい話ありますか?」
「それもそうか。……じゃあ、今日は一回解散ってことにして、一週間後、ここで会おう」
 巷一の言葉に、亮は頭を下げた。
「……今日は、ありがとうございました。それじゃあ、また」
「うん、また。――ああ、ちょっと待ってくれるかな」
 公園を立ち去ろうとした亮に、巷一が待ったをかける。そして、どこからともなく手帳を取り出すと、なにかをさらさらと書きつけて、そのページを破り「はい」と亮に差し出した。その紙に書かれていたのは、たった四桁の数字の羅列のみ。
「『一四七・七』……これ、なんですか?」
「図書館でよく用いられている日本十進分類表の区分で、ちょうど魔法について書かれている書籍が集まっているところだよ。この番号のところに魔術師協会が発行している書籍があると思うから、探してみるといい。少しは役に立つかもしれない」
「――魔術師協会?」
 怪訝そうに首を傾げた亮に、巷一は小さく頷く。
「その名の通り、魔術師に関わる色々をしている組織だよ。魔術師や魔法とは何かを知るための本を発行していたり、日夜魔術に関する研究をしていたり、悪さをするような魔術師がいないか見回ったりね。まあ、そんな組織が出している本だから、そこに書いてあることに対しては多少の信頼性があると言えるんじゃないかな。参考になればいいと思ってね」
 亮が一瞬、息をのむ。その表情には、たくさんの感情がごちゃ混ぜになって上乗せされたようだった。
「……ありがとうございます。じゃあ、本当に、これで失礼します」
 ぎゅっとそのメモを握りしめて、亮は踵を返し走り出す。
 その後姿を、魔術師の二人はなにも言わずに見送っていた。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物は一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】