誰が為の世界で希う-14
六月中旬。
大学附属図書館で基礎心理学に関する本を手に取っていた蓮人は、腕に抱えた本の重さに辟易したようにため息をひとつ落とした。周囲に人がいないことを確認して抱えた本に手をかざすと、『黄色』の光がわずかに本を持ち上げる。蓮人は重さを感じなくなった腕にほっと一息ついて、本を抱えたまま――正確には魔法で宙に浮かび続けている本を抱えているかのように見せながら――自動貸出機のある場所へと向かい、本をそっと机に下ろした。
席に着き、窓の外をちらりと見やる。
外はざあざあと雨が降りしきっているが、さすが図書館というだけあって館内に湿気は届かない。からりと乾いているわけでもないが、じめじめとした不快感がないだけでも過ごしやすい。
慣れた手つきで貸出処理を済ませると、借りた本たちを鞄にしまい込んで図書館をあとにしようとした。
「――ねえ、あそこにいる人ってさ」
自動ドアを抜けた瞬間、むわりとした湿気と騒がしい雨音に出迎えられ、ひそやかな噂話に背を突き飛ばされた。
「もしかして、」「しっ。聞こえたらどうするの?」「でもさ、噂通りじゃない? 黒い服着てて、それで」「ちょっと黙って。場所や状況を考え――」
自動ドアの閉まる音とともに消えたひそひそ話に、蓮人はようやく振り返った。見知らぬ同年代の女子二人組が口をぱくぱくと動かしているのを見て、ゆっくり、口角をあげてみせる。
――そうですよ。おれが噂の魔術師ですよ。
傘をさし、なにもなかったかのように歩きだした。もう聞き慣れてしまった声たちだ。今更、気にもならない。
ならない、けれど。身につけた服に視線を落とし、微かに一つ、息をついた。
陰に隠れるように、黒を身にまとうことが常になっていた。梅雨の時期だからとよく使うようになった傘すらも黒い。わざわざパーカーばかりを選んでしまうのは、以前亮に語った通り、金色の髪を隠すため。今この時期はまだしも夏場ですら、暑いと分かっていながらフード付きのものばかり着てしまう。
全ては目立たないためだったのに、今ではかえって自分がここにいると主張してしまっているような気もする。本末転倒だ。そう思うのに、同じ服ばかり選んでいる。陰に紛れ込もうとしてしまう。
紛れ込めた試しなんて、なかったのに。
ぎゅっと唇をかみしめたそのとき、だった。
「――あっ」
声が聞こえた、気がした。
聞き慣れた声。自分のことを噂など関係なく見てくれた人の声。大切な人と呼んでもいいと、そう思える人の声――。
顔を上げると、少し離れた先に、たしかにいた。
ここ最近、ほとんど連絡が取れていなかった人。急に顔を合わせなくなってしまった人。
「――亮くん!」
この大学内にいる、もう一人の魔術師である彼が。
頰が緩むのを感じながら、一歩足を踏みだした。水たまりを踏んでしまったのか、騒々しい音とともにずぶぬれになったズボンがまとわりついてきたが、気にもならない。早く亮のもとへと駆け寄りたい。それだけだった。
傘の中の亮は、驚いたように目を丸くしている。
「柏木せ――」
先輩、と呼ぶつもりだったのかもしれない。
けれどその亮の声は、突如刈り取られたかのように、ふっつりと途絶えた。同時に口元が歪み、手がふるふると震えだし、目には困惑の色が滲む。
亮は、硬直したように動かない。
蓮人も、思わず立ち止まった。手を伸ばせば届きそうなのに、手を伸ばしてしまったらなにかが壊れてしまう気がしてならなくて、なにもできないまま、ただ、目の前にいる人の名を呼んだ。
「亮くん?」
二人の間を切り裂くように、雨は激しく降りしきる。
「……ごめんなさい」
ぎゅっと固く目をつぶり、そう言って首を振るなり、亮は蓮人の方を一瞥もせずに走り去っていった。
「えっ、ちょ、ちょっと!」
慌ててその背を追いかけようとしたけれど、ちょうど講義終了時間になってしまい、建物から吐き出された学生たちの中に亮の姿はまぎれてしまう。亮がどこにいるのかはその背の高さで分かるが、人混みの中で亮に追いつける気はしなかった。魔法を使えばすぐ近くに移動することはできるが、人目につくところで使ってしまっては目立ってしまう。
せっかく亮に会えたのに、まともに話すことすらできないなんて。
いや、それよりも。
「……どうしておれから逃げたの?」
雨音が、蓮人の声を地にはたき落とす。
「亮くん……おれに、怯えてた」
なぜか亮の口から飛び出した謝罪は、細くて今にも切れてしまいそうな糸のようにかすれて震えていた。
今更のように、濡れたズボンが蓮人から体温を奪っていく。足元から這い上がってくる冷気が心の奥底までしみわたっていくような、そんな気がした。
関わってはいけない、とは思っていた。
自分が笹原と行動を共にすると約束した以上、蓮人や巷一とはもう話せない、と。
けれど。
「……なんで、」
とある教室の、扉の前。亮は、息を切らしながら呟いた。
「なんで……」
おれはこんなに震えている?
胸が釘を刺されたように痛むのは?
言葉にならなかった疑問は、胸の中でもやもやとわだかまったまま。
どうにも、自分の感情や行動がうまくコントロールできないことがある。あの事故――見たことは覚えているのになにも詳細は覚えていない、あの交差点での事故が起こったときから。理由を幾度も考えたが、結局答えが出たためしはない。
ゆるゆると、亮は頭を振った。きっと、考えてもどうしようもないことなのだ。
思考を放り投げ、口角をあげてみせる。
そして、ドラマの撮影練習場所として指定された教室の扉を開ける。そろそろ見慣れてきた役者の面々がささやかに言葉を交わしあっている中に、足を踏み入れた。
「あ、やっと来たね」
声の方を振り返った、その目線の先には、垂れ目の猫のように笑う海弥がいた。
友人のもとへと駆け寄って、亮は目を細め、眉をハの字にしながら手を合わせる。
「ぎりぎりになってごめん。バイトが長引いてさ。犬童は今日も早く来たのか?」
「まあね。でも、これがおれの仕事だからさ」
手元の香盤表を鉛筆でこつこつと叩いてみせて、照れくさそうに海弥は軽く頭をかいた。そしておもむろに席を立つと、すっと息を吸い込んだ。
「さて、これで全員そろったので、今日も撮影の練習をはじめま、けふっ、しょう!」
ぱん、とひとつ大きく手を叩き、全員の注目を集めた海弥が大きな声を張り上げる。けれど無理をしたのか言葉の途中でむせ込んでしまい、教室には返事ではなく笑い声がどっと響いた。
「おいおい、大丈夫かー?」
「お前、絶対心配してないだろ……えふん」
涙目になり軽くせき込みながらも、遊ぶような亮の声に、海弥は呆れて呟いた。
「ほら、やるぞ」
「はいはい」
うんと亮は背伸びをして、他の役者たちの輪へと紛れていく。
その背中を、海弥は曇り空を見上げるような表情で見送った。
「……うーん」
練習を終え、全員が帰っていった後。亮や風花のことも「おれはまだ用があるから」と先に部屋から出した海弥は、ひとりきり、教室の中で唸っていた。人のいない教室の後ろ半分は消灯しているし、雨のせいで窓の外も薄暗い。闇に切り取られた空間にいるみたいだな、なんて考えて、すぐに首を振ってどうでもいい思考を追い払う。
それどころではない。
窓に打ち付ける雨粒を見つめ、もう一度海弥は唸り声をあげた。
次の瞬間、暗い教室の、後ろにある扉が不意に開く。
「海弥、どうしたの?」
がたん、と海弥の座っていた椅子が音を立てる。
教室へと入るなり声をかけてきたのは、風花だ。
「えっ、か、帰ってなかったの?」
「教室の外で海弥を待ってようかと思ったけど、あまりにうんうん言ってるから、少し気になったんだよ。なにか問題でもあったの?」
肩をびくりとさせながら目を丸くして声をあげた海弥に、風花はそばへと歩み寄りながら首を傾げてみせた。
「外、誰もいないよね」
海弥が首をすくめながらあたりを見回す。
「うん」
風花の返事に目線を伏せて考え込んでいたが、ポケットの中からスマートフォンを取り出して彼女に見せた。
「なに、これ?」
「練習のときの動画。カメラ慣れしてもらうために撮るって言ったでしょ? まあ、それも理由の一つなんだけど……ちょっと、気になることがあってカメラを回したんだ」
「気になることって?」
とりあえず見てほしいんだけど、という言葉とともに、海弥が再生ボタンをタップする。流れ始めたのは、主人公が恋人の幻と会話をする場面――つまり亮と風花が演技をしているシーンだった。
『あなたは現実を受け入れたくないだけ。私が死んだことも、その現実を受け入れられないことも、全部。認めたくないのよ』
『そんなことわかってるよっ!』
恋人の死を受け入れられない主人公を演じる亮の表情は、見る者の胸に迫ってくる。物語の主人公が憑依したかのように体全体に苦痛が満ちていて、一挙一動に怯えじみた震えが走っている。
画面の中で、亮が頽れた。片手を地につき、もう片方の手は顔の上半分を綺麗に覆いつくす。血を吐くように、亮は台詞を口にした。
『分かってるよ……。だから俺に関わらないで……もう、出てこないでよ……!』
「本当に迫力のある演技をするよね。一緒にやっていても、こう……直接心に訴えかけてくる感じがするんだよ。初心者とは思えないけど、清水君は演劇の経験ないんでしょ?」
「ないよ。……たしかに、上手い。上手すぎるぐらいだ」
海弥の手が、動画を止めた。
腕を組み、髪をぼさぼさにかき乱しながら、海弥はひとつ息をつく。
「演技に見えない」
「えっ?」
「『演技をしている』って思えないんだ。おれも演技なんてやったことないし直感でしかないんだけど、そんな感じがするんだよ。なんて言ったらいいのかな……。あいつがなにかを抱えてて、でも誰にも言えなくて、それを演技にぶつけてるというか……あんまりいいたとえが浮かばないんだけど、そんな風に感じてて」
練習のときに肌で感じ取った勘を、目や耳から飛び込んできた違和感を、胸の中にわだかまるなにかを、一生懸命言葉にあてはめて口にする。
風花は「ちょっと借りるね」と海弥のスマホを手に取り、同じ動画をもう一度再生する。そして動画をじっと見つめ、なにかを考えるように天井を見上げた。
「私は清水君と出会ったばかりだし、彼のことを詳しくは知らない。目の前で清水君の演技を見ていたけれど、あれが本当に演技なのかどうか、私には判別がつかない」
ゆっくり目を閉じて、開いて。
「でも……私はね、海弥のことはそれなりに知っているよ」
予想外の言葉に目を丸くした海弥を、風花はまっすぐに見た。
「海弥はきっと、清水君のことをよーく知ってる。仲良くないとかむしろ不仲だとか言いあってるけど、清水君のことを、気を許せるひとだと思ってて、大切にしているのも分かる。そんな海弥が『清水君の様子がおかしい』って思うなら……多分それは、合ってるんじゃないかなあ、って思うよ」
しん、と静まり返った教室に、雨音だけが叩きつける。
「……」
笑いたいけれど笑いたくない、とでも言いたげな顔で言葉を探していた海弥だったが、風花にスマートフォンを返されて、その画面を見つめる。動画は、亮が顔を片手で覆っている場面で止まっていた。
「あいつ……泣いてたんだよ」
風花がはっと目を見開く。
海弥の視線が、地に落ちていった。
「この動画を撮ったあと……あいつ、ふらっといなくなってさ。主役がいないと困るじゃん。だから探しに行ったんだけど、そしたら教室の外で泣いてたんだよ。それで……おれがいるのに気づいたみたいで、こっちを振り返って『ごめん、すぐ戻るから待ってて』って……『なんで泣いてんだろうな、俺』『主人公に感情移入しすぎたかな』って言って、あいつ、笑ってた」
ふさふさとした前髪に隠されて、海弥の表情は見えない。けれど、声はかすれていた。
「なんかさぁ……そんな清水を見てたら、おれの方が苦しくなっちゃったよ……」
耐え切れなくなったように、海弥は机に突っ伏した。
その背を風花は、なにも言わず、そっと撫でていた。
(続く)
*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
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