誰が為の世界で希う-27

 風が吹く。街路樹の枝葉の音がビルに反響し、人々のざわめきが響き渡る。足音が、乗り物が地を揺らし、老若男女が一つ所に集う。
 今日も池袋駅でバスを降りた亮は、学び舎に向かって歩を進めた。
 駅の花壇の縁、将棋に精を出す者がいるかと思えば、その横を忙しなく通り過ぎていく会社員がいる。道の端でうずくまり眠るものもいれば、派手な服で身を包み横断歩道を渡っていくものもいる。制服を着こなした子どもたちは転げそうな勢いで駆けて行き、喫茶店では学生が談笑している。
 本当にたくさんの人がこの街にはいて、それぞれの生活を送っている。
 そんな人混みの中、大学のある方から見慣れた人物が走ってくるのを見かけ、亮は間の抜けた表情を浮かべた。
「犬童!」
 声をかけると、その人影――海弥は、肩で息をしながら亮の目の前で立ち止まった。
「はぁ、はぁ……清水、か」
「今日はもう終わりなのか?」
「いや、これから。はぁ、はぁ、期末のテストが、あるんだけど、学生証、忘れちゃって」
「それなら学生課に行って仮学生証発行してもらえよ。お金はかかるけどその方がよっぽど早い」
「それがさぁ、財布ごと、忘れちゃってさ」
「お前、馬鹿かよ」
 汗を拭いながらも「ごめん、急ぐから」と再び駆けていこうとした海弥を、亮はあきれ顔でつかまえた。
「いまから取りに行ったってどうせ間に合わねえだろ」
「そうかもしれないけど!」
 高らかに、指の鳴る音がする。
 亮の手を振りほどこうとした海弥は、突如、凍り付いたように動かなくなった。
「……清水、」
「どうした?」
「……いま、なにをどうやった?」
 目を見開いている海弥の手元には、財布が握られている。海弥が今日、忘れてきてしまったものだ。
「さてね。それよりもほら、これで家に戻る必要はないだろ?」
 実際には魔法で亮が呼び寄せたのだが、海弥は未だに亮が魔術師であることを知らない。
 財布の中身をあらためて、学生証も入っていることも確認した海弥は大学の方へと踵を返す。
「お前っ、今度、ちゃんと説明してもらうからな!」
「はいはい」
 手を振って見送りながら、亮はふと、ぼそりと呟く。
「もう走らなくたって講義には間に合うだろうがよ」
 ため息をひとつ。そして、再び歩きだそうとした。
「亮くん」
 けれど、鼻にかかった声に呼び止められて振り返る。
「こんにちは。先輩もこれから講義ですか?」
 いつも通りにパーカーを身につけて、けれどフードは脱いで。蓮人が両目を細めてにこやかに微笑んでいた。
「そうだよ。亮くんも?」
「はい」
 二人、隣に並んで歩きだす。亮はしばらく蓮人の横顔を眺めていたが、不意に「そういえば」と口が動いた。
「先輩、前髪切ったんですね」
 蓮人の目はもう、隠れていない。さっぱりとセットされた前髪は、眉に少し被る程度の長さになっていた。
「ああ、うん。もともと左目の視力が悪くて、切るのが面倒だったから左に流してたんだけど。やっぱり、ちょっと邪魔だったからね。どうかな。似合ってると思う?」
 そう言う蓮人の表情は、照りつける夏の太陽にも劣らぬほどに、眩しい。
「似合ってますよ、すごく」
「ありがとう」
 機嫌がいいのか、蓮人の声は軽やかに跳ねていくような響きがある。そのまま鼻歌でも歌うような調子で「あのさ」と話を切り出した。
「最近、人間捨てたもんじゃないなって思いはじめたんだ」
「なにかあったんですか?」
 そう問いかける声には、隠しきれない好奇心の色が見える。蓮人は思わず苦笑しながら口を開いた。
「いや、大したことじゃないんだけどさ。同じ学部にね、よくおれに声をかけてくれる人がいるんだよ」
 亮が意外そうな目で見てくるのを感じ取りながら、蓮人は言葉を続けていく。
「どうしておれのことなんかを気にかけてくれるのか、よく分からなかったんだけど……最近、ちょっと思ったんだよ。もしかしたら、おれが亮くんに声をかけたのと似たような理由だったのかな、って」
「……それって、どういうことですか」
 首を傾げた亮を、蓮人は懐かしげな目で見つめた。
「学食で初めて亮くんのことを見たとき、亮くんのことが気になって、あのひとのことを知りたい、話してみたい、って思ったんだよね。実際に話すようになったあとも、もっと仲良くなりたいなって思ったし、亮くんのことを心配するようにもなったし。
もしかしたら、その人もおれに対して同じようなことを思っていたのかなって」
 強く吹き抜ける風が、蓮人の髪を、脱いでいるフードを、遊ぶように揺らしていった。
「それなら、おれもその人のことをもっと知ってみたいし、他の人とも、できたら話してみたいな、なんてね」
 ささやかな祈りの言葉が、風に溶けて空に舞い上がる。
「そしてできるなら、魔法で身近な誰かの役に立ちたいな。せっかく、他の人にはできないことができるんだから」
「俺も、そんな魔術師になりたいですね」
 二人で顔を見合わせて、笑った。胸の奥からあたたかなものがふつふつと湧いてくる。

 亮や蓮人のことを見下ろす空に、小さな鳥の影が見えた、ような気がした。

 その山吹色の小鳥は、池袋の街を遠く見渡しながら悠々と飛んでいく。小さなわりには骨格がしっかりしているようで、けれど丸々としていてかわいらしい――つまりは実在しない、作りものの鳥だった。
 その小鳥は、こちらを見上げる二人組の姿を認めると、くるりと一回転してみせて、再び翼を広げて風に乗る。
 二人組――古夜と遠夜は、その様子を見るとそれぞれの口元に笑みを浮かべた。
「いまのところ、なにもないみたいだね」
「ですね。古夜さんの操っている鳥魔道具のおかげで、見回りの負担が減って助かりますよ。でも……いまのところ、こういうのを作って使いこなせるのって古夜さんしかいないって考えると、古夜さんっていったい何者なんですか?」
 訝しげにパートナーを眺める遠夜に、古夜は呆れたような笑みを浮かべる。
「そんなの、そばにいる紺野君が一番知ってるでしょ。魔法と、その他の技術を組み合わせて何かできないかって研究をしてる、やけに人より魔力量が多い魔術師だよ。それ以上でも、それ以下でもない。――そんなことより」
 ほら、と古夜は人通りの少ない裏路地を通り過ぎていく人影を指す。
「知らない『色』が見えたよ。俺たちの知らない魔術師が、まだこの街にいるみたいだね。ほら、行くよ」
 迷いなくビルとビルの狭間へと足を踏み入れていく古夜に、遠夜はひとつ大きなため息をついて。
「はいはい、分かってますって」
 大股で近づき隣に立って、歩幅を合わせて裏路地への方へと進んでいった。

 ビル風が吹きあがって、街中を駆け巡る。

 波のように枝葉を揺らす街路樹を、区役所の中、窓際にある窓口から笹原は見ていた。
 今日もここには、行政手続きをしたい人や困りごとを抱えた人がやってくる。
「幸福や不幸はその人次第。他者がそれを捻じ曲げることはできない――か」
 仕事の合間にひとつ息をついた笹原は、一人の青年を思い浮かべながら呟いていた。
「それなら、俺は俺にできることをしようか」
 目の前にやってくる人がなにを望み、どんな困りごとを抱えているのか、そして自分はその人に対してなにができるのか、考え抜いていこう。そうしているうちに、自分がなにをしたいのか、見つけることができるかもしれない。
「大変お待たせいたしました――」
 順番待ちをしている人を呼びながら、笹原はささやかに微笑んだ。

 笹原は、気づかなかった。
 その日、区役所に巷一が来ていたことに。

 手続きを終え、区役所を出た巷一は、二人の弟子が笑いあいながら大学へと歩いていく姿を見かけた。近づいて声をかけようかとも思ったが、すぐに首を振る。少しうれしいような、羨ましいような。そんな感情を抱きながら、彼らに背を向けた。
「いろいろあったけれど、これでひと段落……なのかな」
 一安心しているようでいて、その表情にはかげりが見える。
「もしそうなのだとしたら、ひとつの物語が終わってしまったことになるのかもしれない。どこから『物語』ははじまって、そして終わるのかを、おれは――登場人物は、知りようがない」
 どこか遠くを見つめて、風に長髪をなびかせながら、空疎な笑みを浮かべた。
 この世界が物語の中だと気がついたのは、もうずいぶんと昔のこと。空間魔法の練習中に『ここ』ではないどこか――この世界の『外側』が見えた、そのときに底なしの闇に突き落とされたかのような絶望と諦念を覚えたことを、巷一は今でも鮮明に覚えている。誰にも同じ感情を抱かせたくないし、そもそも言ったところで信じてもらえないからと、今までにこのことを話したことは一度もない。けれど――。
「ときどき、ものすごく虚しくなるんですよ」
 自分のことをずっと見ているであろう『誰か』を探しながら、その『誰か』にあてた言葉を、訥々と紡いでいく。
「わたしがなにをしたところで、結局は誰かに決められた道を歩いているだけかもしれない。わたしに自分の意思なんていうものがあるのか、自分に存在価値はあったのか……。そんなことを、考えてしまうんです」
 返事はない。けれど、この声が届いているという確信だけはあった。
「あの。……この物語は、もう終わりですか?」
『そんなことはないよ』
 思わず、目を見開いた。
 幻のように、知らない声が巷一の耳に届く。
『大丈夫。この世界の人たちはみんな、自分の意思で進んでいるよ。もちろん、あなたも。私はただそれを、物語として書き起こしているだけ』
 思わず辺りを見回しても、どこか遠くを眺めてみても、どこにも、誰もいない。
 都合のいい空耳かもしれないと考えた、そのとき。
『空耳なんかじゃないよ』
 その声は、強く吹きすぎていく風にちぎられて消えていく。
 一瞬、『誰か』と目が合った、と巷一は思った。

〈完〉

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】
*最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました!