誰が為の世界で希う-9
「絶っ対に嫌だね!」
亮の声が、大学のとある教室内に響き渡る。
「なんで俺が主役なのさ?!」
「今回の主人公は高身長って設定なんだよ。この中で一番背が高いの清水だからさ、頼むって」
「お前、俺にそれができると思うの?」
海弥が監督を務めるドラマの、演者とスタッフの顔合わせが行われた日。その場で突然主演を振られた亮は、盛大に呆れたように口を捻じ曲げ、かみつくように海弥へと文句を投げつけた。けれど海弥は、慣れたように平然と微笑む。
「できると思ってなかったらそもそも出てほしいなんてお願いしてないよ」
「お前さあ、まさか最初っから俺を主役にするつもりで声かけてたのか?」
「うん」
当然のように認められ、ため息をひとつ。髪をぐちゃぐちゃにしながらも、亮は「しょうがねえなぁ」としぶしぶ頷いた。
「やるのはいいけど、俺のせいでドラマが台無しになっても知らないからな」
「ならないよ。清水はやるって決めたら細かいところまでこだわるだろ?」
「……ほんっと、お前って嫌なやつだよな」
見透かしたような笑みで言った海弥に、亮は嫌味をひとつ。
「高校からの付き合いって聞いていたけど、本当に二人は仲がいいんだね」
あはは、と軽やかに声をあげたのは風花だった。どうやら彼女も、ドラマの役者として参加するらしい。
「そんなことないです」
「まっさか。少し不仲なくらいですよ」
海弥と亮の口から同時に否定の言葉が飛び出して、顔を見合わせた二人に、風花は「やっぱり仲いいじゃん」と目を細めた。
「それよりも、いろいろやること残ってるんじゃない?」
「――あ」
風花に諭され、海弥は周囲を見回す。他の演者やスタッフたちの生温かい目線に気がついて、慌てたように紙の束を持ち上げた。
「それじゃあ、えっと、これから台本を配りまーす」
亮は手元にやってきた台本を開き、目を通す。ざっと確認した限りだと、このドラマは『恋人の死を受け入れられない主人公が死へと向かっていき、立ち直るまでの話』のようだった。
誰にも気づかれないように、亮はため息をひとつ。難しそうな役どころを振られたことではなく、主人公の恋人役が風花である、ということに対して、だった。
ふと、風花の方を眺めてみると、今日も彼女は海弥とお揃いのイヤーカフをつけている。二人とも、ただのサークル仲間、先輩後輩でしかないように見せようとはしているが、海弥が今までイヤーカフなどつけていなかったことを考えれば、二人の関係性は嫌でも見えてくる。
「ほんと、あいつは嘘とか隠し事とか苦手だよな。……はぁ」
亮の独り言は、ほとんどが息を吐く音に紛れてしまって、誰の耳にも届かない。
「役者の皆様は、次までに台本を読んできてください。次回は読み合わせをしていきたいと思います。――それでは、今日はこれで終わります。ありがとうございました」
解散の音頭に、集まっていた人たちはぱらぱらと頭を下げる。亮もけだるげに一礼して、台本を片手に立ち上がった。
鞄を肩にかけ、窓を見上げると、外には燃えるような空が広がっていた。思いついたようにスマホを開けば、時刻は午後六時過ぎ。
人の減っていく部屋に、わっと笑い声が湧く。海弥はスタッフ同士での会話に花を咲かせていて、肩を揺らしながら声をあげていた。
なんとなく、唇をかみしめながらも、笑みをひとつ。亮は荷物を背負いなおし、教室の外へ。講義もたいして行われておらず、しんとしてひとけのない廊下を歩き、そのまま大学を出て帰路につく。
真っ赤な空の下、亮はため息をひとつ。もらったばかりの台本を読みながら、呟いた。
「……特になんも言ってなかったけど、これ覚えなきゃいけないんだよなあ」
わしわしと髪をかき乱しながらも、口を小さく動かして台詞を口ずさんでいた亮だったが、ふと、なにか思いついたように目が笑った。
笑った。けれど、すぐに真剣な色を浮かべた。
人通りの多い道から一本曲がって、ひとけのない小道へと移動すると、目を閉じて一つ深呼吸。台本を鞄の中にしまうと、身につけたままだったネックレスを服の上から摑み、反対の手を持ち上げて。
ぱちん、と。
指を鳴らした。
瞬間、人の目には見えない赤い光が亮を取り巻き、風もないのに髪が揺れる。光はくるくると舞うように渦巻いて、やがて一つに収束し、射抜くような鋭さで亮の頭の中へと消えた。
「――ああ、こういう感じ、か」
顔をしかめながら、亮は苦々しく呟いた。ぼんやりとした頭痛を追い出すように頭を振って目を開けると、ついさっき渡されたばかりのはずの台本の内容を、小さな声でそらんじていく。そして鞄の中の台本を取り出して目を通し、口にした台詞が間違っていなかったことを確認して、重いため息をついた。
「……やっぱり俺、できるんだな。認識改変」
いま亮が自分にかけたのは、ないはずの記憶を追加する魔法。台本の内容をそのまま、自分の記憶に付け加えたのだ。
先日、巷一に認識改変の魔法を使えると思うか、と問われたとき、亮は確信に近い予感を得ていた。使おうとは思えないが、使えるだけの魔力は持っているだろう、と。そして実際にその予感は当たってしまった。
もう一度、ため息をひとつ。
それ相応に魔力を消費したのか、それとも精神的な負荷が大きいものか、その両方か。少しばかり重たくなったような気がする体を引きずるようにして、亮はひとけのない小道を出て行こうとした。
けれど、突如響き渡ったまばらな拍手が、亮の足を引き留める。
「いやあ、素晴らしかったね。ここまで強い魔力の持ち主はなかなか見ないよ」
耳なじみのない声に、そしてその言葉に、亮は指の先、耳の先までピンと神経を張り巡らせる。
「そんなに警戒しないでよ。……って言っても無理な話だろうねぇ。なんてったって、キミはオレのことを知らない。そうだろう、少年?」
無視して立ち去ることも、できたはずだった。
けれど亮は、思い切って、声のしたほうを振り返る。
裾長のジャケットを羽織り、ポケットに手を突っ込んで不敵に笑う男性が、そこにいた。
「ああ、そういえば自己紹介がまだだったね。オレは笹原凛。すぐそこの区役所で働いてる、しがない公務員さ」
疑うようならどうぞ、とでも言いたげに差し出されたのは、笹原の名が記された名刺。そこには確かに『豊島区役所職員』の文字がある。どうしたらいいものか分からず、名刺を受け取らないまま「はあ」と間の抜けた声を発した亮に、笹原は目を細めて右の口角だけをニッと釣り上げた。
「キミのことは知っているよ」
「えっ」
無遠慮に、なにもかもを見透かすようにして。笹原は手にしたままの名刺をもてあそびながらゆっくりと口を開く。
「清水亮。すぐそこの東池袋学芸大学に通っている、大学二年生。――合ってるよね?」
「そうです、けど……でも、どうして」
「名前は役所で聞いたことがあったんだよ。今年じゃないけど、こっちに引っ越してきたときに手続きで区役所に来たことがあるだろう? キミは背が高くて目立ちやすかったっていうのもあって、なぜかよく覚えていたんだよね。で、手続きに来た年からなんとなく学年を察することはできる。そして大学に関しては一番簡単。今年に入ってからよく東袋から出てくるキミを見かけるようになったからね。ざっとこんな感じだよ。どう? 納得できた?」
亮は、なにも答えず、目をすがめて慎重に一歩後ずさった。
「つれないなぁ。そんなに怪しまなくていいよ。別にキミを取って食おうってわけじゃないんだから。――キミ、魔術師なんだろ? それも、かなり強い」
「……どうして、俺が魔術師だって分かったんですか」
ようやく訝しむように口を開いた亮に、笹原は驚きと呆れを混ぜたような表情を見せる。
「だって、さっきキミ自身が言っていたじゃないか。認識改変の魔法が使える、って。多分、独り言のつもりだったんだろうけど」
「――!」
思わず亮は、はっと息をのむ。
笹原の眼鏡が暗い路地の中、怪しく煌めいた。
「キミが魔法を使うところも見ていたよ。自分自身にかけたとはいえ、認識改変の魔法なんて簡単に使えるものじゃない。相当の魔力持ちなんだね。本当にすごいよ」
「……褒められた気には、なりませんけどね」
「嫌だなぁ。オレにはなんの他意もないよ。ただ、キミに手伝ってほしいことがあるだけなんだから」
笹原はひとつ瞬きをする。
瞬間、嫌味っぽくどこか挑むようですらあった表情が、突如、あたたかな春の日差しを彷彿とするような柔らかなものになる。細められた目はそのままだが悲しげにふせられて、その色はなにかを慈しむかのよう。その豹変ぶりに、亮は思わず目を白黒させた。
分かり切っているはずなのに、なにが起こっているのかがうまく摑めない。ただ、嫌な予感だけは、はっきりとある。
「目の前に困っている人がいて、オレは助けてあげたいけれどそのための力がない。……目の前で苦しんでいるのを見ているだけだなんて、到底耐えられないんだよ。だから、力を貸してほしいんだ」
その声は、あまりに純度が高く、そして、素朴だった。
――道化を演じているのか、それとも。
困惑をあらわにした亮に、畳みかけるように笹原は頭を下げた。
「……頼む。この通りだ」
――それとも、口調が変わってしまうほどに、彼にとって深刻なことが起こっているのか。
ぎゅっと目を閉じて、亮は首を振る。それを否定と取ったのか、笹原は眉をはの字にして身寄りのない子犬のような目で亮を見つめた。
唇をかみしめて今度こそ立ち去ろうとした亮の背中に、「失望したよ」と泣きそうな声が投げかけられる。
「キミは、目の前に困っている人がいてもなんの手も差し伸べない、そんな薄情な人だったのか。がっかりだよ」
一瞬、足が止まったが、亮は振り切るように走り出した。
自分の勘を信じて逃げ出した。笹原凛という人のことが信用できなかった。どこまでが本当の話か分からず、嘘である可能性も十分にあった。そもそも、魔術師を利用してやろうと考える人がいるという話を、亮は忘れていなかった。
笹原の前から立ち去るための正当な口実はいくらでも浮かぶのに、笹原の言葉は亮の胸をちくちくと刺す。どれだけ走っても、池袋駅に着いても、バスに乗っても、家に着いても、ずっと、歯の隙間に食べ物が挟まったかのように、頭の、心の片隅に残り続けている。
ありえない、と思って排していたけれど。
笹原が本当のことを言っていた、ということは、あり得ることなのだろうか?
うまく言葉にできない思考の渦を吐息に乗せて吐き出す。そして、片手で頭をかき乱しながらもう片方の手をズボンのポケットに突っ込んで、亮は眉間にしわを寄せた。
手に、なにかが当たる。
ポケットには、なにも入れていなかったはずなのに。
訝しんで、薄っぺらいけれど多少丈夫そうな感触のそれを引っ張り出してみると、そこにあったのは。
「――どうして」
血の気が引いて、思考はすべてどこかへと弾き飛ばされていく。
愕然とした様子で、亮は手の中のものを取り落とす。
床に落ちたのは、あのとき亮が受け取らなかったはずの、笹原の名刺だった。
「さて、どうなるかな」
ひとけのない路地で、表情を全て落としてどこかへと失くしてしまった笹原が煙草に火をつけていた。もちろん、区役所に勤めている彼は、豊島区全域で吸い殻入れのある場所以外での路上喫煙が禁止されていることを知っているし、こんな小道に吸い殻入れがあるわけがないことも分かっている。
それでも、煙にむせ込みながら、煙草を吸う。
やがて、もう味がしなくなったころに、笹原は火がついたままの燃えさしを人の多い表通りへとなにも見ずに投げ捨てた。小さな悲鳴が聞こえたような気がしたが、素知らぬふりで笹原は路地の奥へと進んでいく。
いまのところ、亮を自分のいる場所へと引き寄せるための計画は、順調に進んでいた。
まずは、亮に接触する。人目を忍んで魔法を使っている場面に遭遇できれば幸運だと思っていたが、運は笹原に味方したようだ。そして、わざと不信感を抱かせるような話し方をしてから誠実そうな態度に変えて彼を揺さぶってみる。そこで協力してくれるならよし、駄目そうなら彼の罪悪感に訴えかけてみる。魔法で自分の名刺を亮のポケットに入れるというのはその場で思いついた即興だったが、悪くはなかったように思える。
悪くない、順調だ、と。
そう思うけれど、なんの感慨もない。
いつも通りだ。
亮と笹原のいた場所に、魔法の残滓は残っていなかった。
(続く)
*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
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