誰が為の世界で希う-8
「あれは……古夜さんの残滓だね」
言うが早いか、蓮人はわずかな『山吹色』に近づき、屈みこむと手をかざす。
「――瞬間移動だ。さっきまで古夜さんがいたの?」
「はい。紺野さんって人も一緒に。……ご存じなんですか?」
「魔術師協会の二人のことだよね。知ってるよ。何度か会って話したこともある」
よいしょ、と立ち上がった蓮人の表情は、フードで見えにくいとはいえ、とても穏やかそうだった。
「いい人たちだよ。古夜さんは困ったことを相談すれば親身に話を聞いてくれるし、紺野さんは感情的にならずに冷静な判断を下せる人だし。二人とも、魔術師協会に勤めてるだけあって頼りになるなって思ってる」
「協会に勤めてるだけあって腹芸に長ける二人でもあるけどな」
急に降ってきたほの暗い声に、亮と蓮人はそろって目を見開く。
「いつからそこにいたんですか、師匠」
「蓮人が残滓を読み終わって立ち上がったあたりからかな」
近くの棚に寄りかかって、巷一が呆れた表情で立っていた。
「待ち合わせ場所にいないと思ったら二人ともそこにいたのか。今日はちょっとした座学でもやろうと思ってここに来てもらったんだが……」
二人に近づいたかと思うと本棚に向き直り、本の背を撫でるように指でなぞっていく。なにかを探していた巷一だったが、ふと亮の抱える本を目にとめると軽く目を見張った。
「ああ、もう持ってたのか。それは、おれが子供の頃からお世話になっている本でね。魔法の基本はここから学んだようなものなんだ。いまも変わらず役に立つ内容ばかりだから、まだ現役でよかったよ」
亮が分厚いその本を差し出せば、巷一はそれを受け取って懐かしげな表情を浮かべる。
けれど、その目は暗い色を孕んでいた。
「……ちなみに、座学って何をするつもりなんですか」
ほの暗い空気を振り払うように亮が声をあげると、答えはすぐに返ってきた。
「難易度の高い魔法の話だよ。少なくとも、魔力量の多くないおれには扱えない……もしかしたら蓮人ですら使えないかもしれない、そんな魔法の話をね。知っていて損はないはずだから」
穏やかな口調とは裏腹に、巷一の表情は少し険しい。蓮人の顔はフードのせいで見えないが、漂う雰囲気はどことなく固くなっているような気がする。
分厚く、壮麗な装丁で、けれど色褪せ、背表紙のタイトルを読むことの難しい一冊。それを携えたまま、少し離れた場所にある閲覧席へと向かった。巷一が卓上に本を広げ、亮と蓮人は師の両隣に座りそれを覗き込む。魔法入門、と書かれたそのページには、太文字でこんな言葉が記されていた。
『魔法は、魔力と想像力があり、ひとにできることの範疇を超えない限り、望むことを為すことができる』
「これが魔法の基本だよ。困ったことに、『人にできることの範疇を超えない限り』という箇所に関しては『おれ』という例外があるんだけどさ」
「……たしかに、師匠の魔法は少し異質な感じがしますよね」
困ったような表情を浮かべる巷一に、蓮人が問いにも似た言葉を投げかける。
ひとつ、重たいため息をついた巷一は、ふっと遠くを見るように、なにもない天井を、そしてその先を眺めるようにした。
諦めの色を滲ませながら、ぼそり、巷一がなにかを呟く。
「師匠、なにか言いました?」
蓮人の問いに、巷一は弟子へと視線を向けて微笑んだ。
「いいや、なんにも。本題に戻ろうか。魔法はたしかにいろんなことができる。けれど、だからといって、なんでもやっていいわけじゃない。ここを見てごらん」
巷一がそう言って指したのは、太字の下にある文様のようななにか。亮は目を瞬かせながらそれを見つめ、蓮人は流れるような言葉をなにか呟いた。
「呪文を唱えるときに使う魔術師専用の言語があることは蓮人に聞いたらしいね。これがそうだよ。『呪』いの言『語』と書いて『じゅご』って言うんだ。蓮人は呪語が読めるんだったね」
「だいぶ忘れてますけど、これはなんとか。読めなくても、師匠に教わったことは覚えています。――『ただし、魔法で人を傷つけてはならない』、ですよね?」
流れるように蓮人がつぶやいた言葉が本に記されている呪語の原文だと気づいた亮は、歌うようだった言葉の美しさを思い出して一瞬気を取られ、けれど、その日本語訳に背筋が伸びる思いをした。
「そう。ここまで含めて魔法の基本だよ。よく覚えておくといい。一番分かりやすく言うなら、魔法を使った人殺しなんてものはやってはいけない。そうだろう?」
「――はい」
亮が低い声で言葉を落とし、蓮人も、重くゆっくりと、頷いた。その様子を確認した巷一も数度首を縦に振る。
「魔法は、いろんなことを容易にこなすことができる。人を助けることも、傷つけることもね。しかも、一般人は魔法に対して対抗する手段が一切ない。だから魔術師は、自らに様々な枷を課してきたんだ。魔法で人を殺してはいけない、人を操ってはいけない……っていう具合にね。ちなみに魔術師協会は、魔術師も一般人も境なく魔法で傷つくことがないように、魔法がひとの幸せにためにあれるようにっていうのを理念に活動している組織だよ。もう長い間、ずっとね。その目的のために、街を見回ったり魔法の研究をしたりしてるって感じなのかな」
巷一の言葉に、蓮人と亮が頷く。蓮人は同意するように、亮は納得したかのように。
「話を戻そうか。この基本に則って、使ってはいけない魔法や使うことに条件がついている魔法がある程度決まっている。この本に全部載っているから、一度目を通しておくといい」
亮が肯定の意を示したのを確認して、巷一は手元の本のページをめくる。そして、迷いなくひとつの題字を指さした。
「他にも、こんな魔法がある」
それに導かれるようにして本へと目線を落とした亮は、そこに書かれていることをそのまま、なぞるように読み上げる。
「認識、改変……」
「そう。自分や相手の認識を書き換える――幻聴や幻覚を引き起こしたり記憶の書き換えや消去、捏造ができる魔法だよ。記憶に関する魔法は難易度が高いし、必要な魔力も相当多い」
本には、認識改変を行う方法が、事細かに記されている。それに目を通しながらも、亮はぎゅっと唇をかみしめていた。
「昔、おれが魔法を教えてもらったばかりの頃も、こうやって同じようにこの本を読みましたよね。……あのときも思いましたけど、やっぱり、おれにもこの魔法は使えそうにないです。当時は自分の技量不足で、と思いましたけど、いまになると分かります。これをやろうと思ったら、全然魔力が足りないです」
蓮人のそんな声を聞きながら、亮は文章を目で追いかける。
『基本的には使うべきではない魔法』
『行使する際は慎重な状況判断が必須』
「――どうかな、亮」
文字列から視線を引きはがすようにして、真横にいる巷一のことを見上げた。丸眼鏡の奥で、目がすっと細められるのを、亮は見た。
「この魔法を、使えると思うかな。そして、使ってみようと、思うかな」
無意識のうちに、ネックレスを摑んでいた。タグの形をした銀色のチャームが、じんわりと熱を持つのを手のひらで感じる。
「――俺は」
吸い込んだ息が、震えていた。
「俺は……怖いって思いました。記憶の書き換えやリセットができるって……自分や誰かの、大切な記憶が、それに伴う感情が、偽物になってしまうことと、消えてしまうことと、一緒じゃないですか」
胸の内を見つめて、でも一瞬、見ていられないとでも言いたげに目を逸らすようにして。言い切った亮に、巷一は口を開いて、けれどすぐに噤んだ。
「さっきさ。おれ、ちらっと言ったよね。魔力不足でこの魔法は使えないって」
代わりに話し出したのは、蓮人だった。
「でも、もしおれがもっと魔力を持っていたとしても……きっと、使わないと思うんだよね。……これは、危険だよ。自分や誰かの都合のいいように、認識を、記憶を、すべて書き換えられてしまうって、そんなこと、あっていいのかっておれは思っちゃう」
蓮人が顔を上げる。彼の片方の口角だけが上がっているのが見えて、亮ははっと息をのんだ。
「そうだね。そうかもしれない。二人の言うことだって一理ある」
遅れて巷一が、何度か頷くようなしぐさを見せた。
「でも、これだけは覚えておいて。世の中にはたくさんの考えを持った人がいる。二人とは違った主張を持っている人もいるってことをね。――どれが正しいとか、間違ってるとか、そういう話じゃなく」
ぱたり。ささやかな音を立てて、本を閉じる。
「まあ、この魔法を使うにしろ、使わないにしろ、知っているということはとても大事だからね。知らないから使えない、無意識で使ってしまった――というのではなく、自覚的になることが大切なんだよ」
巷一の言葉に、亮は大型連休最終日のことを思い出す。誰にも悟られなかったとはいえ、無自覚で魔法を使ってしまったことを。
「……あの」
「どうした?」
「魔法を無意識で使ってしまわないようにするために、大切なこととかってありますか」
おずおずと問う亮に、巷一は少しだけ考えるそぶりを見せると、呪語でなにかを確かめるように呟いて。
「『魔術師は常に冷静であれ』、だね。無意識で魔法を使ってしまうときっていうのは、だいたい冷静さを欠いてしまっていることが多い。……説明が大変だから詳細は省くけど、魔力は感情と干渉しあうものなんだ。だから、感情をコントロールできるようにしておかないと、大きな感情が魔力に干渉して無自覚の内に魔法を使ってしまう事故が起こる」
「分かりました。ありがとうございます」
亮が頷いたのを確認して、巷一は本を抱えて立ち上がる。元の書架へと歩いていき、本を戻して「遅くなってしまったね」と腕時計に目線をやると、亮と蓮人も時間を確認して顔を見合わせた。
「帰ろっか」
「そうですね」
静かに、あまり言葉を交わさぬまま、けれどお互いに笑顔で。三人は、図書館の出口へと向かっていく。その道中、小さな影とすれ違ったが、気に留めていなかったようだった。
そしてエレベーターに乗り込み、一階で帰る方向の違う巷一と別れた後。
「このあいだはありがとうね」
図書館を出て、二人きりになった帰り道。不意に蓮人がそんなことを言い出して、亮は首を傾げた。
「……なんのことですか」
「覚えてないの? こないだの帰り道に、清水くんがおれに『不運は不幸じゃない』って言ってくれたこと」
亮はしばらく顎に手を当てて考え込んでいたが、「ああ」と納得いったように頷いた。
「ちゃんと伝わってるのか不安だったんですけどね」
「伝わったよ。あれ、本当に嬉しかったんだ。……噂を真に受けずにおれと向き合ってくれる人は、ほとんどいなくてね。あと、懐かしかったんだ。昔、同じ言葉を師匠がかけてくれたから」
「神田さんが?」
蓮人はひとつ頷いて、花が咲くように満面の笑みを浮かべる。
「最初から噂にごまかされずにおれのことを見てくれたのは、師匠と清水くんだけだよ」
亮はきゅっと目を細めてその言葉を聞いていたが、不意に「あっ」と口を開く。
「そういえば、どうしてずっとパーカーばっかり着てるんですか? ……訊いていい話ですかね、これ」
気づかわしげな声色になった亮に、蓮人は「大丈夫だよ」と首肯した。
「おれの髪ってさ、こんな色してるでしょ?」
「はい。……綺麗な色だなって思ってましたけど」
「そう? ありがとね。でもこれ、自分で染めたわけじゃないんだ。……生まれつき、この色なんだよ」
長い前髪をつまんで、ひらひらともてあそぶ。
「だから義務教育の頃なんかは、けっこう悪目立ちしたんだよね。この髪色だけで怖いって避けられたことも多かったし。黒染めしろって怒られたから染めてた時期もあったんだけど、すぐに色落ちしちゃったからあんまり意味はなかったかな。髪が無駄に痛んじゃっただけでさ」
「……それで、パーカーを?」
「そ。目立つこの髪を隠したかったんだ。大学生にもなれば髪を染めている人も多いし、金髪だっていうだけで怖がる人も減っているだろうとは思ったけど、もう癖みたいなものでね、つい……気づいたら、こんな服ばっかり選んでる」
手元でも亮でもなく、どこか遠くへと向けられた視線。口角は上がっているが、その表情は、なぜか儚げだった。
「ねえ、亮くん」
亮の眉が、ぴくりと動く。
「おれは未だに……怖いのかもしれない。一人にされたくなくて、でもどう頑張ってもみんなおれから離れていくから、それならいっそのこと最初から一人ぼっちでいればいいんだ、なんて……そんなことを思っているのかもしれない」
蓮人の視線は、ゆっくり、ゆっくりと、地に落ちていく。
いつしか、二人の足は止まっていた。
きらびやかな街灯りと車のヘッドライトたちに囲まれた人混みの中、二人のいる場所だけは、影が落ちているかのよう。
蓮人の口元は、小さく震えていた。
「――一人ぼっちじゃないですよ」
亮の声に、蓮人ははっと顔を上げる。
星の見えない夜空を見上げて、亮は一瞬唇をかむ。けれどすぐに、一つ深呼吸をして口を開いた。
「先輩は、一人じゃない。俺もいるし、神田さんもいる。そうでしょう?」
決して蓮人とは目を合わせようとはしない。ふてくされたように笑いもしない。けれど、その目は闇の中で放たれる光のように力強く、まっすぐだった。
ふっ、と。
蓮人の口から息がこぼれた。
「ふふっ……そうだったね」
五月らしい、さわやかで心地よい風が、蓮人の長い前髪を巻き上げる。
風にあおられ、不機嫌そうな表情のまま振り返った亮は、はっと目を見開いた。
「ありがとうね、亮くん」
両の目に幸せを浮かべて。鼻にかかった優しい声で。
そう言った蓮人が、涙を流しながら笑っていたから。
その頃、図書館で。
ついさっき、三人とすれ違った小さな影は、裾長のジャケットをはためかせながら、館内をゆったりと歩いていた。
「――それにしても」
三人が出ていった出口をふと振り返り、その影は――笹原は、小さく呟く。
「彼とあの二人は……知り合い、だったのか」
温度のない声は床に落ち、そのまま吸収されて消えていく。
無表情のまま向かった目的地の棚には、先客が一人。なにかを立ち読みしている壮年が、隣に立って棚へと手を伸ばした笹原をちらりと窺い見た。
「どうも、同志の笹原さん」
「どうも、同志の荷田さん」
笹原の答えに、壮年は盛大なため息をひとつ。
「いつまでたっても名前を覚えてくれませんね。貴方は誰を呼ぶにも『荷田さん』なんですから」
「それほどに、彼の印象が大きかったということですよ。荷田さんがいなければ、今ここにわたしはいません」
本から目を離すことなくそう言い放った笹原に、壮年は再び大きなため息をひとつ。
「いつものことです。もう気にしませんよ。……ところで、なにか進展はありましたか?」
「ええ。ありました。使い方次第では大きな一手になるような人を見つけましてね」
ちらり。ようやく笹原は、壮年の方をわずかに振り向いて。
「うまいこと『こちら』に、引き込んでみようと思います」
にやり、と。
彼は笑った。
(続く)
*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
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