誰が為の世界で希う-10

「……で、清水くんはそこから逃げてきたんだね」
 大学附属図書館の、社会科学に関する資料がまとまっている棚。そのほど近くにある閲覧席で、亮と蓮人は勉強をしながら――まったく進む気配はなかったが――話していた。亮が『相談したいことがあるんですけど』と蓮人に一報を入れ、蓮人がひとけのないこの一角を指定して待ち合わせをしたのだ。誰もいないからなのか、いまの蓮人はフードを被ってはいなかった。
「そうです。……今更ですけど、俺たちの声、周りに聞こえていませんかね」
「大丈夫。この辺りはあまり人が来ないし、来ても大丈夫なように魔法をかけてあるからね」
「――聴覚の認識阻害、ですか?」
 蓮人の足元にある残滓には手を触れず、目を閉じただけで魔法を言い当てた亮に蓮人は目を見張る。
「いま、どうやって当てたの?」
「なんとなく、こう……魔法の気配を感じ取るような、そんな感じです」
 首を少し傾げながらも言う亮に、蓮人は一瞬難しいことを考えるような表情を浮かべ、でもすぐに真顔に戻って言葉を続けた。
「そっか……。とりあえず、本題に戻ろう。この間、魔法を使っている清水くんの目の前に笹原凛と名乗る男が現れて、魔術師の君に手を貸してほしいと言われた。けれど清水くんは怪しんでその場を立ち去った。――これで合ってる?」
「はい」
「……清水くんの勘は当たりだよ。あいつには――笹原凛には、関わらないほうがいい」
「知ってるんですか?」
 亮の問いに、蓮人は苦虫をかみつぶしたような表情で頷く。
「あいつは……その目的はよく分からないけれど、人を不幸にするために動いているような節が見られるんだ。おれと師匠はその現場に何度か出くわしてて、魔法で彼の行動をなかったことにしたり、彼と口論になったりしているから……型にはめていいのか分からないけれど、簡単に言ってしまえば敵対関係にある人物なんだ。おれや師匠にも、あいつの考えていることは分からない」
 手にしたシャーペンの頭で自分のこめかみをこつこつと叩きながら、蓮人はひとつため息をつく。
「人を不幸にすると言っても、大したことをしているわけじゃない。あいつは魔術師じゃないから、魔法を悪用しているわけでもない。でも、小さな不幸が重なっていくと、いつか大きな不幸になっていくんだ。『塵も積もれば山となる』っていうくらいだからね。……おれも師匠も、それを見過ごせなかったんだ」
「じゃあ、俺に手伝ってほしいことがあるって言っていたのは、やっぱり……」
「嘘か、悪い意味での協力を求めるつもり、なんだろうね。あいつの言葉は信用しないほうがいいよ。なぜかあいつとおれたちは出くわすことが多くてね……やけに口達者だし、顔を合わせると毎回面倒なことになるし。できればあいつとはもう、顔を合わせたくないね」
 むすっと鼻から息を吐いて、蓮人は手元の資料を覗き込む。白紙のページに手をかざし、頭の中でまとめたことを魔法でノートに書きだそうとして、はたとその動きを止める。
「そういえば……魔法を使ったところを見られたって言ってたけど、なんの魔法を使ったの? これはただの興味だから、深い意味なんてないんだけど」
 その問いに、亮の動きは一瞬止まる。しかしすぐに顎に手を当てて、ゆっくりと口を開いた。
「たしか……物を呼び寄せる魔法です。大学に忘れ物をして、でも取りに行くのも面倒だったんで」
「あー、誰が見ても魔法だって分かりやすい魔法だったんだね。だったら一般人のあいつも清水くんが魔術師だって気づいちゃうよなあ。ありがとうね。またなにか困ったことがあったら、いつでも相談してよ」
 亮の嘘には気づかなかったのか、蓮人は柔らかい笑みを浮かべる。それを見た亮も、ニッと口角をあげてみせた。
「もちろんですよ」
 演技できれいに隠されていたが、亮の胸には嘘をついたという事実とその罪悪感が、しっかりとのしかかっていた。

 そのまま図書館で蓮人と一緒に課題を進めていた亮は、ふと、視線を感じたような気がして振り返った。
「――どうしたの?」
 不思議そうに首を傾げる蓮人に、亮は「いや……」と曖昧な声を返しながらも、目の端でちらついたものを見逃さなかった。
「ちょっと、お手洗いに行こうと思って。どっちにあるんでしたっけ?」
「ああ、なるほどね。あっちだよ」
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げて、蓮人が指した方向へと向かう。ちらり、と横目で振り返ると、先ほど目の端でとらえた『なにか』も、自分についてくるのが見えた。
「……それで、」
 誰もいない本棚の影。自分と『なにか』を囲むように聴覚の認識阻害魔法をかけて、亮は振り返る。
「どうして大学部外者のあなたがここにいるんですか、笹原さん」
「やあ、まさか名前を覚えてもらえているなんてね。ありがたいことだよ」
 その『なにか』――笹原は、皮肉っぽく笑った。
「東袋はそもそも、地域に開かれた大学だからね。受付さえすれば部外者も入構可能なんだよ。で、図書館は一応利用許可が必要だけど、図書館に入るには学生証や職員証が必要ってわけじゃない。つまり、教員のフリさえすれば簡単に入れるわけさ」
「前に会ったときとなにも格好は変わってないですけどね」
「変える必要がなかったからね。……ちなみに、キミのことはたまたま見つけたんだよ。そもそも、オレはここに調べ物をしようと思って来ただけなんだから」
 ほらね、と笹原は腕に抱えた本を亮に見せつける。資料と一緒にバインダーを持っているのは、教員のフリのつもりなのか。どこか得意げにすら見えるその表情に、亮は面倒くさそうなため息をついた。
「でも、なにか話したそうに俺のことをじっと見ていたのは事実なので。――なんの用ですか」
「この間の話の続きさ」
 しん、と。
 笹原の言葉で、その場の室温が下がったような、そんな気がした。
「助けたい人がいるって話は本当なんだよ。いまも、苦しみ続けている人がいるんだ」
「……あなたの言葉は、信用ならないんですが」
 訝しげに笹原を見下ろす亮に、笹原は困ったような笑みを浮かべた。
「ああ、そっか。彼からオレの話を聞いたんだね? 人を不幸にしようとしているとか、信用できないとか……おおむね、そんな感じの印象を抱かれてそうだなと思っているんだけど、どうかな。合ってる?」
 笹原の目線の先には、なにも気づかないまま勉強を続けている蓮人がいる。声もなく亮が首肯すると、眼鏡の向こうにある笹原の目がほんの少し影を帯びる。
「――別にオレは、そんなつもりはないんだよ」
 定規一つ分ほど自分よりも身長の高い亮を見上げて、笹原はひとつ小さく息をつく。怪しむように目を細めた亮は、本人の自覚はないのだろうが、身長差のせいで笹原に圧をかけているようにも見える。
 それでも、笹原は動じる様子がない。眉をハの字にしたまま、口元に小さく笑みを浮かべた。
「オレはね。……不公平な世の中が、少しでも平等になればいいと思っている。うん……それだけ、なんだよ。だけど、誤解されちゃったのかな。彼や神田さんとはよく言い合いになっちゃうんだよね。オレとしては不本意でしかないんだけど」
 やれやれ、と肩をすくめてみせて、ふと、笹原はなにかを思いついたように小さく頷く。
「不本意だから言い返すってのも大人げないよな。……キミがもしオレに手を貸してくれるなら、こっちから柏木君と神田さんの二人には突っかかったりしないよ。言い合いもしないし、なんの邪魔もしない」
 亮の目をまっすぐに射抜いた。驚くほどに純粋な、子どものように無邪気な、透き通るようにも見えた目で。
「だから、さ。オレに手を貸してくれないかな」
 手を差し伸べてくる笹原を、亮はジトっとした目で見下ろした。かすかに首を傾げ、唇をかみしめて考え込む。
 魔術師としての生活を送るようになってからというもの、やけに勘だけは鋭くなったような気が、亮はしていた。なにも考えるつもりがなくとも、不意に予感が降ってくることが増えたのだ。そしてその予感は、だいたい当たっている。
 亮の勘は、笹原の言葉に嘘がないことを告げていた。
 どんなに目の前の人の正体が摑めずとも、思考が読めずとも、蓮人と巷一にはもう構わないという発言に偽りはない――と、亮は思う。
『できればあいつとはもう、顔を合わせたくないね』
 不機嫌そうにそう言った、蓮人の姿が脳裏によみがえる。
 一瞬のようにも永遠のようにも思える時間がすぎたのち。
 亮は、顔をめいっぱいしかめながら、笹原の手を取った。
「約束は、守ってくださいね」
 急に低く重い声になった亮にも驚かず、笹原は柔らかく「ありがとう」と微笑む。
「それじゃあ、連絡先を交換しておこうか。今日はこのあとオレが忙しくなるからなにもできないけど、近いうちに連絡はするから」
「……分かりました」
 ずっとかけ続けていた聴覚阻害魔法を解いて、亮はゆっくりと席に戻っていく。
 その道すがら、ぎゅっとネックレスを摑みながら考えていた。
 蓮人や巷一とは『敵対関係』だという笹原と、行動を共にすることになった。
 それはつまり、自分まで二人と対立する立場になってしまうことで。
 握りしめた手のひらがじわりと汗ばむ。なのに、指先は驚くほどに冷たい。
 ごくり、と。
 息を飲みこんだ。
 いつしか止まっていた足を、無理やり動かす。
「……どうしたの?」
 元居た場所に戻るなり荷物を片付けだした亮に、蓮人が顔を上げる。
「いや、急に友達に呼び出されちゃって。ちょっと、行ってきます」
「そっか。いってらっしゃい」
 亮の言葉になんの疑いも抱かない蓮人は、ふわりと微笑むだけ。
 荷物をまとめた亮は、駆け足でその場を立ち去った。
 ちくちくと痛む胸が、罪悪感を訴える。それを言い訳でごまかしながら、亮は行く当てもなく、ただひたすらに構内を走る。
 その後姿を、笹原は無表情でずっと眺めていた。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】