誰が為の世界で希う-17

 人の波に紛れて、駆ける、駆ける。
 頭が痛い。耳元でどくどくと音がする。喉元まで心臓がせりあがってきているような気がする。
 今さっき蘇った記憶のせいだ、と亮は思った。記憶に関する魔法は、精神にひどく負担がかかる。術者にとっても、魔法をかけられる側にも。
「――っ」
 息を切らしながら、声をかすれさせながら、亮は逃げた。なにかから、逃げていた。
 胸にあるネックレスを摑んだ。思い出した記憶をもう一度忘れてしまおうかと、そんな思いが一瞬脳裏をよぎる。
「お久しぶりですね、清水亮さん」
 けれど、ふいに後ろから聞こえてきた声に首根っこを摑まれて、亮ははっと息をのんだ。
 振り返りたくない、と思うのに、体は反射的に後ろを向き、そこに立っている二つの人影を認めた。
「――あなたは、」
「どうも、古夜です。本当はこんな形で再会したくはなかったのですけれど。まあ、こちらも仕事なのでね、しょうがないです」
 硬い表情で微笑む古夜と真顔を貫く遠夜が、亮のことをまっすぐに見ている。ついさっきまでは、そこにいなかったはずなのに。
 すっと、古夜の目が細められる。
 瞬間、あたりの気温が急に数度下がったような気がして、亮はじわりと冷や汗が噴き出してくるのを感じた。
「さて、」
 目を少しだけ伏せてからこちらを見上げた、古夜の声が凍りつきそうなほどに冷たい。
「今のあなただったら、わたしがここにいる理由も心当たりがあるんじゃないでしょうかね。――自分がしたことを、覚えていますか?」
 全身が泡立つような感覚に襲われて、亮は思わず目を見開いた。
 ずっと逃げていたものに――忘れようとしていた現実に、追いつかれる。
「……覚えてます。いや、思い出させてもらったんです。
 俺は、人を傷つけるために魔法を使いました。もしかしたら……もしかしたら、殺していたかもしれない」
 梅雨入りの日に大学近くで起こった事故は、あの事故は、自分が起こしたものだった。魔法で人を傷つけてはいけないのに。いや、そもそもどこにも、人を傷つけていい理由などなかったはずなのに。
 怪我を癒す魔法を無意識で使っていたが、もしそれがなかったら運転手はどうなっていただろう。いや、そもそも命があったということが奇跡のように思える。いくら魔法でも、人にできることしかできないのだ。命は奪えても、与えられない。
 その現実は、容赦なく亮に襲い掛かる。胸に風穴を開け、心にかみつき、どこまで行ってもつきまとう。たとえ、もう一度記憶を消しても、過去そのものは消えない。
 忘れても、意味がない。逃げてはいけない。逃げられない。
 なにかを飲みこむように、深く息を吸い込んだ。
 そんな亮の様子をじっと見ていた古夜だったが、彼もぎゅっと目を閉じて、一つ深呼吸をする。
 亮に歩み寄ると、亮が服の下に隠し持っているネックレスを何気ない様子でつまみ上げた。
「――本当に神田さんはすごい魔術師だと思いますよ。このネックレスそのものが、魔法だ。魔力を実体化させて、こうやって身につけるだけで効力が現れるようにするなんて、普通出来ることじゃないんです。わたしにだって、到底できない。でもね、」
 ゆらり、古夜の纏う『山吹色』が揺らめく。
「魔法を書きかえることくらいなら、わたしにもできるんです。実体化していても、魔法は魔法なので」
 そして、歌うように亮には聞き取れない言葉をなにか呟くと、『山吹色』が一筋の光になってネックレスのタグになにかを刻み込む。
 唐草模様のような文字。呪語だった。
 それと同時に身体中をあたたかく満たしていた力が弱まったような気がして、亮は唇を噛み締める。
「微々たる制限でしかないですけど。なんとなく、魔力量が減ったような感じがしたんじゃないかと思います」
 ネックレスから手を離して目線を上げると、ネックレスを見下ろしていた亮と目線がかち合う。
「それでもあなたは、常人と比べれば非常に多い魔力を持っています。他の人以上に、魔法の扱いには気をつけなければいけない、責任を持たなければならない。そのことは、分かりますよね」
「――はい」
「今のわたしは魔術師協会の職員なので、一人の魔術師に深入りすることはできません。けれど、そうですね。ひとつだけ、お伝えしておきたいことがあります」
 一歩だけ、亮に近づく。強く鮮烈な風が亮と古夜の髪を巻き上げるように吹き荒れて、遠くの雲間から光がほんの少し、こぼれ落ちる。
「決して、振り回されないようにしてください」
 その言葉は喉の奥に石がつかえるかのように重く沈んでいくのに、あたりは陰鬱さを消し飛ばそうとするかのように明るくなっていく。
 陽光は古夜の纏う『山吹色』に溶けて、あたりを温かく包み込むように広がっていった。
「……はい」
 亮が重々しく頷くと、古夜は「では、わたしはこれで失礼します」と後ろを向いて、どこかへと歩き去っていく。
「――やれやれ、まったく。あの人はいつもこうだから」
 普段一緒に行動しているはずの、遠夜をその場に残したまま。
 遠夜は呆れたようにひとつ息をつくと、亮の隣に立ってすっとどこかを指さす。亮がつられたようにそちらを向くと、そこは、自分が事故を起こした場所から、少しだけ離れたところだった。
「ちょっと余談でもしましょうかね。僕たちはあの事故現場にいました。ちょうどあのあたりで、あなたのしたことを目の当たりにしたんですよ」
「えっ」
 どきり、と。心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえた気がした。
「古夜さんは最初、そのネックレスを壊そうとしてました。反射的にというか、もうこれ以上の事件を起こさせてはいけない、って思ったんでしょうね。でも、あなたの本意ではないと分かったから、やめたんです」
 ちらりと亮を一瞥し、遠夜は事故現場となった場所を見やる。
 亮は細い釣り目を見開いて、言葉につられたかのように振り向いた。
「知ってるんですね。俺があの事故を起こしたかったわけじゃないこと」
「まあ、実際に見ましたからね。――あなたが傷ついた顔してたのも」
 思い出したくもないのに、亮の脳裏にあの事故を起こした日の記憶が蘇る。罪悪感と後悔と、そして嫌悪感と。負の感情のごった煮の苦い味が広がって、亮はぎゅっと顔をしかめた。
 そのことに気付いているのかいないのか、遠夜は不意に口の端を呆れたように歪める。眼鏡の奥で丸い釣り目を閉じて、開けて、歪んだ口元からかすかな声を、こぼした。
「なんで、笑うんですか」
「……いや、あのときね。なぜか古夜さんが、あなた以上に苦しそうだったんですよ。重い煙をめいっぱい飲みこんじゃったような顔で、気持ち悪いのになにも吐きだせない時みたいな表情してたなぁって、ちょっと思い出して。自分のことじゃないのに、おかしなひとですよね」
「おーい! 紺野君、早く行くよー」
 遠くから突如響いた古夜の声。小さく見える人影に、遠夜は大きく手を振り返す。
「はぁい、いま行きますよ。……いまのは本当に余計な話なので、気にしないでください。それじゃ、失礼します」
 きっちりとスーツを着こなしたその見た目に違わぬ美しさで一礼して、遠夜は古夜の方へと歩き去っていく。
 残された亮はといえば、遠くに消えていく二人を眺め、そして目を伏せて頽れるようにうずくまった。そうでもしないと、持て余しそうだった。自分の為したことも、魔力に制限をかけられたことも、古夜や遠夜の言葉もすべて、抱えきれずにこぼしそうな気がした。
 すべて、受け止めなければいけないのに。
 いまの亮には、そうして歩いていける自信は、どこにもなかった。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】