誰が為の世界で希う-20

 日曜日。
 亮のもとに、一本の電話がかかってきた。
『やあ、少年。今日の予定はどうかな』
「……名乗りもしないんですね、笹原さん」
 ため息交じりに応じると、電話口の向こうにいる笹原はニッと笑った、ような気がした。
『どうせ声で分かるだろう? それよりも、今日の午後だよ。予定は空いているかな』
「空いていますけど……どうしたんですか、急に」
 本当のことを言えば、もう笹原と一緒にいたくなかった。先日も『困りごとがあるから手伝ってくれ』と頼まれたが、その内容が『不慮の事故に見せかけて特定の人物を階段から落とす』だったので、亮はそれを叶えるふりをしてその人を助けた。笹原は少し不満げな表情を浮かべていたが、魔法はちゃんとかけた、自分にとっても想定外だったと話すと『魔法をかけたことは疑っていないよ』と返された。『魔法を使ったことは分かっているから』と。
 一緒にいる限り、人を傷つけることに『使われて』しまうことは分かり切っている。かといってひっそり助けたとしても、何回もそれが続けば笹原だって察するはずだ。それに、自分が行動を共にする限り、二人には手を出さないという約束はまだ有効なはず。
 板挟み、だった。自分でも、どんな行動を取ればいいのか、正直言って分からない。もう誰のことも、傷つけたくないのに。
 そんな亮に、電話の向こうの笹原は笑みを浮かべた。――そんな、気がした。

「今日の二時半に、キミと会いたいんだけどいいかな?」
 巷一から届けられた名刺をもてあそびながら、無表情の笹原は笑みを含んだ声色で問う。珍しく彼は、眼鏡をかけていなかった。
『はい……。でも、今日はなんの用ですか』
「直接会って話したいな。日出町公園に来てほしいんだけど……どこか分かるかな? 中央図書館のすぐ近くにある公園って言ったら分かる?」
 電話口の向こうで一瞬、亮が息をのんだ。
『……あそこですね。分かり、ました』
「よかった。じゃあ、よろしく」
 亮の返事を聞かず、電話を切った。それとほぼ同時に手の中の名刺をゴミ箱に捨てて、代わりに胸ポケットにさしていた眼鏡を手に取った。慣れた手つきでそれをかけて、晴れ渡った窓の外を振り返る。
「神田巷一。そして、柏木蓮人。――今日はなにが起こるか、楽しみだね」
 そう言うわりには、笹原の顔には白紙の紙のように、なにもない。
 声は空疎な響きを伴って消えていった。
 ――そして、笹原と亮は約束通りに公園で顔を合わせた。
 蝉の声が、周囲のビルに反響してこもる。そんななか、亮は夏らしく半そでの服を着てきたというのに、笹原は今日もジャケットを羽織っていた。亮は怪訝に思いながらも、暑くないんですか、と訊いてみようという気はなぜか起こらなかった。
「で、直接会って話したいことってなんですか」
 しかめ面で問いかけた亮に、笹原は微笑んでみせる。
「なんてことはないよ。これから人と待ち合わせをしているんだけど、ひとりだと不安だから一緒にいてほしいんだ。ただ、向こうはキミがいることを知らないから姿を消していてほしいんだけど。いいかな?」
「……それ、電話で伝えることもできましたよね」
「どうしてもキミに来てほしかったから、ちょっといじわるな方法を取ったのさ。すまなかったね」
 そう言ってはいるが、笹原の表情に反省の色は見えない。顔をしかめたまま呆れてため息をついた亮は、ひとつ指を鳴らした。赤い光が粉のように舞って公園とその周囲を包み込むと同時に、笹原の目には亮の姿が見えなくなる。
「――見事だとしか言いようがないね。どこにキミがいるのか、全く分からないよ」
「そうでしょうね」
 言葉とともに、笹原の視界内に亮の姿が再び現れた。
「こことその周辺に魔法をかけて、通った人や訪れた人の視覚と聴覚の認識を書き換えることで俺の姿や声を認識できなくしたんです。でも、笹原さんにも俺の姿が見えないっていうのは困ると思うので、笹原さんだけは魔法を解除しておきました」
「そんなこともできるんだね。助かるよ」
 言いながら、ゆったりと近くにあったベンチへと笹原は座り込む。その隣に座るように促したが、亮は突っ立ったままその場から動こうとしない。
「約束は三時だからね。ゆっくり待つことにしようか」

 二時半過ぎ。
 蓮人は学生寮から最寄り駅までの道を歩いていた。憎いほどに真っ青な空と遠くに見える白い入道雲の組み合わせは、今が夏であることを声高に主張してくる。眩しい日の光は地上のものすべてを焼こうとするかのように照りつける。相変わらず長袖パーカーを着ている蓮人の頰には、汗が幾筋も流れていた。
 この空のような気持ちでいられたらいいのに、と思うけれど、先のことを考えるとそうもいかない。なにせ今日は、笹原に会うのだ。そう考えるだけでも、気が重くなる。
「あいつは本当に底知れないというか……なに考えてるのか分からないというか」
 それでも、亮のことを知りたいと願うなら――亮が蓮人のことを避ける理由を知りたいなら、笹原に会いに行くしかない。
 ふと、スマートフォンを取り出してメッセージアプリを起動させると、ある直近のやり取りを画面に表示させた。真新しいそのチャット欄は、風花とのものだ。
『Kazahana:清水君とこの間話したんだけど』
 次のゼミの日に会うのだからそこで話せばいいものを、わざわざ連絡してくれたことが嬉しくもあり、不思議でもあった。どうして彼女は、人に嫌われている自分に構ってくれるのだろう?
『Kazahana:「なにか悩み事でもあるの?」ってきいたら、誰にも言わないなら、って教えてくれたんだ。「人を傷つけてしまった」「もう、大切な人たちに顔向けできない」って』
 平然と約束を破って自分に連絡してきていることに呆れかえりながらも、蓮人は風花が送ってきた文面を何度も何度も読み返した。
 ――大切な人たちに、顔向けできない。
『Kazahana:もしかして、柏木君に対してなんじゃない?』
 そんなこと、風花に言われずとも察しがついた。
『……かもしれない』
 呟くように返した、その一言をかみしめるように、改めて繰り返した。
 かもしれない。大切な人「たち」と複数形にしているのは、蓮人だけでなく巷一を含んでいるから、なのかもしれない。あるいは、全く違う別の人物たちを指しているのかもしれない。分からない。
『Kazahana:私は「誰も傷つけたことがない人なんていないと思うよ」って言ったんだけど。でも、清水君はずっと苦しそうな顔してたよ』
『Kazahana:なにか言いたそうだったのに、結局全部飲みこんじゃったみたい』
『Kazahana:最後は、大丈夫だからもう気にしないでくれ、って感じの顔で笑ってた』
 風花とのやり取りは、蓮人の送った『ありがとう』で終わっている。
 時間を確認してからスマートフォンをしまい込み、蓮人は目前に迫っていた駅を見上げた。
「人、多いな……」
 違和感を覚えて駅構内へと入ってみると、電車が人身事故で止まってしまっているらしかった。待ち合わせ時間に間に合うようにと思って家を出てきたが、そもそも電車に乗れないのでは意味がない。
「……参ったな」
 実際のところは魔法で瞬間移動してしまえばなんの問題もないのだから、たいして困っているわけでもない。それでも、なぜか胸は灰色の雲が詰め込まれたかのように気分が悪い。
 そういえば、今日はまだ自分の身に降りかかる不運がなんなのか、未来予知をしていなかった。
 人の目が数多ある場所で目立ちたくはない。手を動かすのはやめて、雑踏の中、誰にも聞こえないように呟いた。
「〈わたしにこのあと降りかかる不運を見せて〉」
 歌うような言葉とともに、目を閉じる。
 この手法を使うのは最後に亮に会ったとき以来だ、と心の奥底で切なさがうごめいた。
 瞬間、脳裏にひらめいたのは笹原の姿。そして――。
 目を、見開いた。思わず、息をのむ。
 笹原の隣に、亮が立っているのが見えたから。
「――どうして」
 声が地面にこぼれ落ちて、慌ただしく行きかう人や騒がしい声に踏みつぶされて消える。
 亮が、笹原の隣にいる。近い未来に、亮は苦しそうな表情で、笹原と言葉を交わす。そしてそのとき、亮は――。
 きつく、目を閉じて首を振った。
 自分が見た未来を、信じたくなかった。
 唇をかみしめると、ひとけのない場所を探した。探しながら、口からは我慢しきれない衝動が流れるようにあふれ出した。
「〈わたしを亮くんのいる所に連れて行け〉」
 ふわりと、体が浮き上がるような感覚がある。人には見えない『黄色』の光が蓮人を包み込んで、呪文を現実へと変えていく。
 一陣の、風が吹く。
「へえ、意外だったね。神田さんじゃなくてキミが来るんだ。しかも、一人で」
 嫌悪しか抱かない、聞きなじみのある声。
「――笹原、凛」
「そうだよ。いまさら、なにを言っているんだい?」
 ひとけのない日出町公園。
 風の名残にジャケットをはためかせながら、笹原は一人でそこに立っていた。
「魔法で華麗にお出ましか。さすがだね」
「亮くんが――清水亮くんが、隣にいるんですよね?」
 皮肉な響きを持つ笹原の言葉を気にも留めず、問いを投げる。
「どうしてそう思ったのかな?」
「魔法が、教えてくれたからですよ。おれがここに来るときに使った魔法は『おれを亮くんのいるところへと瞬間移動させる』魔法です。それでここに辿り着いたなら……亮くんは、間違いなくここにいるんです」
 沈黙が落ちる。セミの鳴き声が、公園を囲む木々から降り注ぐ。日の光はビルにさえぎられて届かない。
「キミがそう言うなら、そうかもしれないね」
 笹原は、笑った。にやり、と口角を上げていた。
「どうして、亮くんがここにいるんですか」
「それは本人にしか分からないことじゃないかな。呼んだのはオレでも、来ることを決めたのは彼さ。だから、本人の意思だとしか、オレには言いようがないけどね」
 でも、と言葉を続けた笹原の眼鏡が一瞬光ったような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
「ここ最近はね、一緒にいることが多かったんだよ。ちょっと手伝ってほしいことがあったからね。手を貸してくれるなら神田さんやキミには関わらないって約束で、協力してもらってたんだ」
 思わず、息をのんだ。
「亮くん、まさか」
 ずっと自分を避けていたのは、これが理由だったのだろうか。
「そんなの……気にしなくても、よかったのに」
 いつの間にかこぼれ落ちていた言葉に驚いて、だけどすぐに自分で納得した。
 そう。気にしなくてよかった。特に相手は笹原だ。いつ約束を破るかも分からないような男相手だというのに、亮は約束をした。
 蓮人と巷一のために。
「……なにを、手伝わせたんですか。亮くんは……なにを、したんですか」
 声が震えて、トーンが普段よりも下がる。蝉が一瞬だけ沈黙した気がしたのは気のせいだったのだろうか。
 蓮人の中で、風花からもらったメッセージの内容がふと蘇る。『人を傷つけてしまった』『もう、大切な人たちに顔向けできない』――嫌な予感しかしない。
 フードの中から、蓮人は笹原を睨みつけた。それを知ってか知らずか、笹原は両手を軽く挙げて降参のポーズを取りながら、言い訳でもするかのように困ったような笑みを浮かべた。
「大したことじゃないさ。辛い思いをしている人たちを楽にしてあげたり、重大な事故を起こしたにもかかわらず軽い罪しか負わされなかった人を、ちょっと懲らしめたりしただけだよ。キミも知っているだろう? 先月大学近くで起こった事故。車を運転していた彼にはちょっとお仕置きが必要だと思ってね」
「――!」
 雨降る日に、スリップと、アクセルとブレーキの踏み間違いが原因で起こったとされる事故。車を運転していたのは数年前にひき逃げ事故を起こしたことのある高齢男性で、ガードレールにぶつかったにもかかわらず、なぜか無傷だったという不思議な事故――蓮人もニュースで、ある程度は知っていた。
 実はその当時、運転していた彼が無傷だったのはその場に偶然居合わせた魔術師の干渉があったからなのでは、魔術師が怪我を完治させるような魔法を使ったのでは、などという噂が流れたがために、巷一に『蓮人はこの事故に関わっているのか』と電話越しに問われ、蓮人は無関係だとすぐ否定した、というちょっとした騒動もあったからだ。
 あの事故を、運転手の意思でなく、故意に起こしたというのならば。そばに魔術師がいたと思われるような出来事が起こっているならば。
 笹原が亮になにをさせたのか。おおよその察しがついた蓮人は唇をかみしめていた。
 怒りが膨らめば膨らむほど、かみしめる力も強くなる。口の中に鉄のような味が広がっても、やめない。こうでもしないと、喉の奥から声があふれ出しそうだったから。醜い言葉を、いくらでも投げてしまいそうで。
 それでも、限界はどこかで来る。
 ぷつん、と。
 頭の中でなにかが切れる音がする。
 抑えきれない感情は魔力に干渉する。無意識のうちに、自分でもなにをしようとしているのか分からないままに膨大な魔力を編み上げた。魔力は見えないはずの笹原だったが、なにかの気配を感じたのか、蓮人から目を離さない。
「――これは、」
 笹原が呟くと同時に、出来上がった魔法が笹原の方へと向かっていく。瞬間、風もないのにふわりと蓮人の被っていたフードが揺らめく。
 蓮人の目には、暗く濁った光が宿っていた。
「……不味いか?」
 誰にも聞こえないほどの声で呟いた笹原がその場から逃げようとしたそのとき。
『赤』の魔力が『黄色』の魔力を止めた。
 二つの大きな魔法はぶつかり、互いの魔力を削りあって消えていく。そして、完全に消滅する瞬間、それぞれの魔法使役者へ大きな反動を与えた。
 真正面からなにかにぶつかられたような、そんな衝撃を受けた蓮人はその場にしりもちをつき、そしてようやく、我に返った。自分の手をまじまじと見つめて、立ち上がるとすぐに自分の魔法の残滓を読む。
「おれ、いま……」
 蓮人の声は、小さく震えていた。その目に濁った光は、もう、ない。
 蝉は、鳴かない。
 沈黙の落ちた公園に、ぱらぱらとまばらな拍手が響き渡った。
「いやあ、すごいものを見せてもらったね。なかなかないよ、こんなに大きな魔法のぶつかり合いなんて」
 やけににこやかな、笹原の声。
「二人にはすごいものを見せてもらったことだし、オレもたまには、ちょっとした手品を見せてあげようか」
 すっと目を細めて、幼子になにかを言い含めるようにする大人のような、そんな笑みを浮かべて。
「なあに、大したものじゃないよ。二人の魔法に比べたら、ね」
 意味深長なウインクさえしてみせて、笹原はなにもない場所へと歩を進め、なにかをすくい上げるような動作をした。
 もしかしたらそこに亮がいて、なにかしらの魔法で姿を消しているのかもしれない。そう思った蓮人は対抗魔法をかけようとしたが、すぐに荒く息をつく。
「……足りない」
 先ほどの大規模魔法で魔力を使い果たしてしまったのか、魔法が発動しない――使えない。それでも無理に魔法を使おうとすると体が重くなり、すぐに息が切れる。そもそも、亮の方が魔力を多く持つことを、蓮人はすっかり忘れていた。
 物言わぬまま、能面のような笑みで笹原が蓮人の方へと近づいてくる。思わず後ずさった蓮人に、ようやく、笹原は口を開く。
「ありがとう。オレが欲しかったのはこれなんだよ」
 笹原が手を差し伸べたのは、ついさっきまで蓮人のいた場所。そして、そこに残っている、『黄色』の残滓。
 蓮人がなにかを訊き返そうとするよりも、行動を起こすよりも早く、笹原はその残滓を蓮人に投げつけた。
「――えっ」
 魔法には、魔法以外のもので対抗することができない。なすすべもなく固まってしまった蓮人の首に、手首に、足首に、笹原の投げた残滓が絡みついた。
 手足に絡みついた残滓は重りとなり、首に巻きついたものは手で触れることのできない紐になる。体が重くなり、息が苦しくなった蓮人はその場に頽れた。
「どうして、魔術師でない笹原さんが、魔法を……いや、そもそも、魔力を認識、出来ないはず……」
 精一杯声を絞り出す蓮人の目の前に、笹原は軽やかに屈みこんだ。
「たしかに、一般人は魔力を認識できないとされているね。オレも昔は見えなかったよ。でも、オレは他人の魔力を認識して間借りするすべを学んだんだ。独学でね。だから残滓があれば、本当にちょっとした魔法なら使えるようになったんだよ。特に今回は大きな魔法だったから、残滓もその分多くて助かったよ。……なかなか出来ないことだと思うんだけど、どうかな?」
 よいしょ、と声をあげて立ち上がった笹原は、ジャケットから煙草を取り出して火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込んだ。そして軽くせき込んですぐにもみ消すと、蓮人に向かって首を傾げてみせる。
「さて、キミの知りたかったことは知れたかい? それならオレはもう失礼するよ」
 ジャケットのポケットに両の手を突っ込んで、笹原は余裕のある後ろ姿で立ち去ろうとする。
 いつの間にか蘇っていた蝉の鳴き声がこだまして、公園の時計が、三時を指した。
「あなたはなんの要件も済んでいないのに立ち去る方だったんですね、笹原さん?」
 ついさっきまでは、存在しなかったはずの人の声。
 ゆっくりと振り返った笹原は、おや、と声を漏らした。
「神田さん。お久しぶりですねぇ」
 首輪をつけた巷一が、ふわり、青みがかった長髪を揺らしながら蓮人の隣に立っていた。
「お久しぶりです、笹原さん。あなたと話したいのはやまやまなんですが、先に少しだけ弟子たちと話しても?」
「どうぞ、いくらでも。待っていますから」
 ベンチに腰かけて再び煙草を取り出した笹原を視界の端で一瞥してから、巷一は蓮人と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「――で、どうしてお前は待ち合わせ場所じゃなくここに来たんだ? しかも、約束よりも早い時間に。あと、どうして自分の魔法で自分を縛ってる?」
「違うんです……おれが、やったんじゃなくて」
 呆れと怒りの混ざった声に、蓮人はあえぐように返す。
「はぁ……。話は後で聞くから、とにかく今はじっとしてろ」
 なにかを呑みこむように深呼吸したのち、巷一は蓮人にかけられた魔法を解除した。
 随所に巻き付いていた魔力が消え、ようやく呼吸のしやすくなった蓮人は深く息をついた。軽くなった体を持ち上げる。
「……すみません」
「いいから今は少し休んでおけ。――あと、亮。そこにいるんだろ?」
 立ち上がりながら、誰もいないように見える虚空に目線を向け、巷一は声を張り上げた。
「分かるよ。この公園とその周辺という空間に魔法をかけて、通りかかった人全員の視覚と聴覚の認識を書き換え、姿と声を消している。まだ魔術師になってから数か月しか経ってないのにここまでできるっていうのは本当にすごいことだよ。人ではなく空間に魔法をかけるっていうのは難易度が高いからね。正直、びっくりした。ただ、細部が粗いね。その粗さを魔力量でなんとか補って成立させているって感じかな。魔法の精度とは関係ないけれど、もう少し細部までこだわれれば使う魔力量が少なくて済むはずだよ。ちなみに、おれは視覚の認識阻害や書き換えの魔法への耐性が高いから、魔法で姿を消したとしても、かなり巧妙でなければどこに誰がいるのかくらいは分かる。空間認識が得意っていうのはこういうところでも役に立つんだ。こんな風に、特定の魔法に耐性のある魔術師はたまにいるんだよ」
 口元は微笑んでいるものの、その目はまっすぐで真剣そのもの。
 辺りを見回し、なにかを見定めるようにした後、巷一は高らかに手を叩いた。
 公園と周辺を取り囲むように、青い光の粒子が舞い上がる。そして、光が消えたときには、巷一の目線の先に、亮が立っていた。
「――魔法が、解かれた?」
 目を丸く見開き、かすれた声で呟いた亮に、巷一は軽く頭をかいた。
「本当は、人のかけた魔法を解くのは気が進まないんだけどね。こういうことも起こりえるから、魔法は絶対だと思い込んではいけないよ」
 それで、とため息混じりに言葉を続けて、亮に歩み寄る。ふいと顔を背けて目を合わせようとしない亮に、巷一はあきれ顔を浮かべた。
「どうしてお前も自分に魔法をかけてるんだ?」
 亮の体には、蜘蛛の巣が体全体に巻き付いたかのように『赤』の光の糸が絡みついていた。指一本、動かすことが叶わない。
「まあ、蓮人と同じで『自分でやったわけじゃない』ってところなのかもしれないけどな。どっちにしろ、次からは自分の魔力に縛られるなんて失敗はするなよ」
「……はい」
 目を伏せた亮に、巷一は淡く笑みを浮かべ、目を細めた。そしてひと呼吸のうちに魔法を解いてみせると、なにも言わず、そっと亮の頭に手を伸ばした。
 ぽすん、と軽く、一度だけ。目を合わせるでもなく、ただ優しく、触れてすぐにベンチの方へと歩きだす。視界の端に見えた、亮の目元に盛り上がった水滴は気づかなかったふりで、ベンチに腰掛ける一人の男に向かって声をかけた。
「さて、お待たせしましたね、笹原さん」
 ちょうど一本の煙草を吸い終えたらしい笹原は、ゆったりと立ち上がる。
「いいえ、まったく。……さて、ご用件はなんでしたっけ?」
「さっきも言ったかもしれませんが、あなたにお訊きしたいことがあるんですよ」
 いつしか笑みの消えていた巷一に、笹原は口角を上げた。
「もしかして、彼のことですかね」
 彼、と言いながら亮を一瞥して、巷一の答えも待たずに流れるように話し続ける。
「それなら、もうお弟子さんに話しましたよ。彼から聞いてみてください」
「そうですか……。そうなると、用件は済んでしまったことになりますねぇ。笹原さん、なにかお話ししておきたいことはありますか?」
「いいえ、特になにも。そもそも、呼び出したのは神田さん、あなたでしょう?」
「たしかにそうでしたね。わざわざお時間を取らせてすみません」
「いいえ。なにかあればいつでもどうぞ」
 笹原も巷一も、なにを考えているのか読めない不思議な笑みで会話を続ける。そして、巷一は笹原に背を向けると、蓮人の横に立った。
「では、わたしはちょっとこのバカ弟子と話してきますよ」
 その言葉にむっとしたのか、蓮人は師のことを恨めしそうに見上げるが、なにも言えないまま眉を下げる。
 なにを思ったか、巷一は蓮人の手を取った。
「じゃあ、行こうか。――ああ、その前に」
 涼しげな表情で声をかけて、ふと、亮の方を見つめる。
「また、おれたちに会いに来てくれないか? 魔法の話でもしよう。まだまだ、教え切れていないことはたくさんあるんだ」
 亮は、微動だにしない。
「……亮くん。おれは、ただ……前みたいに、一緒に笑いあえるように、なりたいよ」
 蓮人が声を張り上げ、ぎゅっと、巷一の手を握りしめる。
 本当はもしかしたら、亮の手を取って握りたかったのかもしれなかった。宝物を抱きしめるようなぬくもりを感じ取って、巷一はその手元に慈しむような目線を向けた。
「蓮人もこう言ってることだし、おれたちはいつでも待ってるから。――話が長くなってしまったね。今度こそ、行こうか」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、二人の姿は青い光に包まれて忽然と消えた。
 笹原と、涙を滲ませている亮だけが、公園に残された。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】