誰が為の世界で希う-26

 七月も終わりを迎えようとしているある日。
「笹原、ジャケット着てないけど忘れてねえか?」
 帰り支度を済ませ、役所を出ようとしていた笹原は、不意に同僚に呼び止められて振り返った。
「ああ、大丈夫だよ。今日は着てきてないんだ」
「へえ、珍しい。でも、たしかに最近、ジャケット羽織ってるところ見てないかも。着るのやめたのか?」
「まあ……暑くなってきたし」
 そうかあ、と納得しているのかしていないのかよく分からない声をあげている同僚を置いて、お疲れさまでした、と建物をあとにする。
 暑くなってきたことは嘘ではない。日に日に気温は上がっていくし、去年よりも熱中症患者が多い、なんていうニュースも耳にする今日この頃だ。けれど、ジャケットとはなにも関係ない。
 服装を変える必要性はない。
 ただ、このままである必要性もないというだけの話だ。
 建物の外に出ると、湿気と熱気が襲い掛かってくる。もうこの時期でも暗くなりはじめている時間帯だというのに、気温はそう簡単に下がってはくれない。辟易したような表情を浮かべて、笹原は吹き出す汗を拭った。
「……まったく、もう」
 今までなら、辟易することなんてなかったのに。
 あの日を機に、世界が変わってしまった。
 過去を無色の世界と呼ぶなら、いまは色とりどりの世界。まだ上手く感情を認識できないことも、理解できないことも多いけれど、それでも、世界に感情という名の色がついた――そんな、感覚だった。
 そして、いまの笹原はまだ、なにを基準にものごとを定義づけていくのかが曖昧で、広がる世界の輪郭はぼやけたままだ。
 それでも、笹原は前を向いて歩く。
 ふと吹いた涼やかな風に目を細め、心地よさそうに微笑みながら。
 池袋駅までの道中、笹原は見覚えのある人がこちらを向いて立ち止まっているのを見つけ、足を止めた。
 コンビニエンスストアのガラス壁にもたれかかっていたその人は、笹原の姿に気がついたのか、こちらに近づいてくる。
「――笹原さん」
「清水、亮……くん」
 そういえば、笹原は亮のことをまともに名前で呼んだことがなかった。今更どう呼べばいいのかも分からないまま、曖昧な笑みで「急にどうした?」と言葉を投げかける。
 亮は一瞬不機嫌そうに眉を寄せたが、すぐに真顔に戻る。目が、一直線に笹原を捉えた。
「話したいことがあるんですけど、お時間いいですか」
 今更、なにを話したいというのだろう。
 最近は連絡すら取りあっていなかったのもあって、笹原は不思議に思わざるを得ない。
 それでも、亮のまっすぐなまなざしには敵わなかったのか、ひとつ息をついた。
「立ち話というのもなんだし、お茶でも飲もうか」

「……まさか、この席しか空いていないとは思いませんでしたね」
 アイスココアを手にして椅子に座った亮は、額にしわを寄せて呟いた。少し先に席についていた笹原も頷いて、懐かしそうに目を細める。
「俺もだよ。ちゃんと覚えているんだね」
「当然ですよ。なに言っているんですか」
 二人が入店し、座った席。そこは、亮が笹原に頼まれて初めてひとの記憶を消した場所でもあった。
「事故を起こした記憶は消したんだろ? 同じように君が自分の記憶を消していたとしてもおかしくはないかなと思ってね」
「それ、俺がまだ事故のことを思い出していないかもしれないのによく言えましたね。実際にはもう思い出しているのでいいんですけど。あと、事故を起こさせたのは笹原さんですし、しかもあのとき、俺に嘘をついていましたよね」
 顔をしかめて不満げな亮。笹原は唇をかみしめて、手にしたアイスコーヒーを見つめた。
 今の感情は、コーヒーの味とよく似ている。
「……気づいてたんだね」
「調べたら簡単に分かりましたよ。あなたは『数年前のひき逃げ事件の犯人に罰を与えたい』『あいつはオレの家族を殺した』って言っていましたけど、数年前の事件で実際に轢かれて死んだのは、あなたの家族ではなかった。――よくあんな嘘がつけましたね」
「そうだね。あの頃は別に、嘘をつくことになんの抵抗もなかったから」
 言いながら、笹原は顔を上げて、目の前のひとをじっと見つめた。
「……怒っていない、んだね」
 前に会ったときのように感情をぶつけてくるかと思っていたのに、亮はあきれ顔を浮かべるだけ。毒気を抜かれた笹原に、亮はへにゃりと笑う。
「怒る気すら起きませんよ、もう」
 一言、そう返した亮はひとつため息をついた。そしてすぐにまじめな顔になると、鋭い目線で笹原を貫かんとするかのように見返した。
 意を決したように、口を開く。
「でも、もうあなたの手伝いをするつもりはないです。魔法を使って誰かを傷つけることは、もう、しません」
 毅然と言い切った亮に、笹原は一瞬呆気にとられたようだった。ぽかんと口を開けていたが、ゆっくりと、状況を理解したのか、気まずそうな笑みが滲みだす。
「そっか。君は知らないんだっけね。……いまは、世界を荒廃させたいとは思っていないんだよ」
 亮の口から、小さな戸惑いの声が漏れた。
「どうしてか、お聞きしてもいいですか」
「理由がなくなっちゃったんだよ。誰かさんのせいでね。感情というものを知ってしまった以上、むやみに世界を荒廃させる必要がなくなってしまった」
「ずいぶんと、勝手なんですね」
「……そう、かもしれない」
 目を伏せて、笹原は呟くように答えた。
「組織は抜けていないよ。まだ、自分がどうしたいのかが決まっていないからね。けれど、最近はちょっとしたボランティア活動なんかにも取り組んでいるところだよ。そうやって、いろんな人の考え方を借りながら自分の軸を探しているところさ」
 かつては他人になり切ることで生きてきた。他者と全く同じ価値観で生活を続けていた。水のない場所で船乗りのまねごとをしているようなものだ。
 けれど、いまはもう違う。荒波の中で、他の船乗りの先導を頼りに、自分なりの舵の取り方を覚えている。
 いつか自分一人だけでも、船を操れるようになるために。
「俺は、君にお礼を言うべきなんだろうね。そんな資格があるのかも分からないし、この言葉が本当だという証明もできないけれど。
 君からしたらただの迷惑でしかないだろうけど、たくさんの人を不幸にしてしまったけれど、君に出会って、たくさんのことが起こって……ようやく、自分を探してみようと思ったよ。笹原凛という一人の人間として生きてみたいと思った。ありがとう、清水亮くん。そして、本当にごめん」
 笹原は、頭を下げた。机に頭がつきそうなほどに深く。長いこと、ずっと。
「別にいいですよ、今更」
 はっと顔を上げる。
 亮は、自分に言い聞かせるように、口を開いた。
「過ぎたことはもういいんです。いろいろやらせようとしたのはたしかに笹原さんかもしれない。でも、それをやろうと決断して実行したのは俺です。俺が決めたことなので。俺の非です。笹原さんならそんなこと、分かっていますよね?」
「それは……」
 分かっているもなにも、笹原が以前口にした言葉によく似ている。
「俺は、今までのことを無駄にする気はありません。そのためにも、笹原さんにお願いしたいことがあるんですけど」
 からん、と。
 笹原のアイスコーヒーに浮かべられた氷が、溶けて軽やかな音を立てる。
「俺が記憶を消した人たちに、もう一度、会わせてください」
「会って、どうするつもりなのかな」
「記憶を、元に戻します。それが、俺にできる精一杯の償いだと思うので」
「……そんなこと、できるの?」
「はい。……先日、柏木先輩や神田さんに会ってきました」
 笹原が、一瞬息をのむ。
「今までのことや、自分がどうしたいか、っていうようなことを、全部話してきました。そのとき、柏木先輩に記憶をよみがえらせる魔法を教わってきたんです。……俺が自分で消した記憶を思い出させてくれたのも、先輩だったので」
 唇をかみ、亮はすっと目線を落とす。
「どうしたらいいんだろうって、ずっと考えていました。思い出したことで、苦しくなる人もいるかもしれない。辛くなる人もいるのかもしれない。でも、ちゃんと元あるべき姿に戻さないといけないんだって思ったんです。だって、幸せも不幸も、その人が決めることだから。……それを捻じ曲げることは、出来ないんだ、って」
 周囲の音が一瞬消えたような、そんな気がした。
「あなたに出会ったから、考えようと思えた。あなたが教えてくださったということと同じですよ」
「……それは、こじつけじゃない?」
 目をすがめた笹原に、亮はニッと笑ってみせる。
「そんなことを言ったら、さっきの笹原さんの言葉もこじつけですよ。別に俺があなたに感情を教えたわけじゃないですし、自分探しのきっかけを直接渡したわけでもない」
 不意を突かれ、笹原は言葉を見失う。
 目を閉じて、亮の言葉を反芻しているうちに、自然と声がこぼれ落ちていた。
「そう……だね」
 口元には、笑みが浮かんでいる。
「分かった。もう一度会えるように、やってみるよ。時間はかかるかもしれないけれど、準備が整ったらまた君に連絡するから」
「ありがとうございます」
 今度は亮が頭を下げる番だった。
「これから、少しの間かもしれませんが、お世話になります」
「うん。よろしくね」
 二人の目が、一瞬だけ合う。
 数か月の付き合いを経て、ようやく、二人は心を許しあったように柔らかな表情を浮かべた。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】