誰が為の世界で希う-18

 数日後、黄昏時も過ぎて暗くなった時間。
 蓮人と巷一は、魔法の練習によく使っていた公園の、すぐ近くにある喫茶店で顔を合わせていた。夏場にもかかわらず長袖のパーカーを着ている蓮人はまだしも、半そでの服を着た巷一には随分と寒く感じられるほどに、冷房のよく効いた店内だったからか、二人ともホットの飲み物を注文し、手元に置いている。
 飴色の照明が二人の髪を艶やかに照らす中、蓮人がコーヒーに口をつけて話を切り出す。
「すみません、急に呼び出してしまって」
「いや、別にそれは構わないよ。ただ、そうだね。おれを頼りにしてくれるのは嬉しいんだけど、さすがに交友関係に首を突っ込もうとは思ってないからさ。それだけ先に言っておくよ」
「分かっています。ただ、話を聞いてもらいたいだけなので」
『亮が最近蓮人のことを避けているらしい』という話だけしか知らされていない巷一に、蓮人は頷いた。
「実はこの間、久しぶりに亮くんと会って話をして、」
 先日の出来事を説明しようとして、ふと目線を落とし、少し考え込むように自分の手のひらを見つめた。いまはフードを被っていないとはいえ、長い前髪のせいで表情が隠れる。
「おれの記憶を、見てもらえませんか」
「わざわざそうしようとするってことは、なにか理由があるんだね」
 懇願するかのように広げられた蓮人の手を、巷一はそっと包み込んだ。
 巷一の手は華奢なのに不思議な包容力があり、そして、ひんやりと冷たい。ホットティーを注文し、その手で包み込むようにして飲んでいたのに、だ。思わず、蓮人は一瞬目を見開いた。
「……はい。こっちの方が早いっていうのもあるんですけど。でも……おれは、自分がなにを考えてたのかっていうのも含めて、分かってもらいたくて」
「そうか……。たしかに、感情なんかは言葉よりも直接体験させた方が理解は早いからね。分かった」
 ひとつ、深呼吸。巷一はふっと微笑みを浮かべ、頷いた。
「見せてもらえるかな」
 その言葉に、蓮人は辺りを軽く見まわした。二人が座っているのは、店内の奥まった場所にある二人掛けの席。周囲の客がこちらに目線を向けている様子もない。
「はい。それじゃあ、見せますね」
 いったん、取り合っていた手を離し、巷一の額に自分の手をかざすようにした。自分の見せたい記憶を、相手の脳内に伝えるような、そんなイメージで。
 ふわり、と。『黄色』が蓮人の手を、巷一の頭を取り巻いた。
 いつの間にか、二人とも目を閉じている。
 魔法が終わると同時に、蓮人は目を開けた。巷一はしばらく、眠っているかのように瞼を閉ざしたままだったが、数度ゆっくりと瞬きをして蓮人の方を見た。
 巷一が不意に眉をへの字にして、苦笑いを浮かべた。けれど次の瞬間に発せられたのは、真剣な色を帯びた呆れ声。
「――まったくもう。『魔術師は冷静であれ』って言っただろう? 冷静でなければ相手の気持ちを慮ることを忘れるし、魔法を暴走させることがある。そのことは分かっているだろうに」
「……すみません」
 開口一番に怒られるとは思っていなかったのか、しおしおと俯いた蓮人に、彼の師は「次は気をつけるんだよ」と厳命してから、表情を曇らせた。
「たしかに、亮のことはいろいろ気になるね。笹原と関わりがあるかもしれないとなればなおさらだ。あまり人のことに口を突っ込もうとは思っていなかったけれど……これは、ちょっと」
 こめかみをかいて、巷一は紅茶を一口飲みこんだ。
「それで?」
 混乱に陥りかけた思考も、もやもやとした気持ちも一緒に飲み下して、目の前の弟子に向かって声を投げかける。
「蓮人は、どうしたい」
「どうしたいって……」
 目を丸くして、でも眉根を寄せて。怪訝そうに蓮人は師を見上げる。
「おれは、亮くんになにがあったのか、知りたいです。あと、もし亮くんが困ってるなら、手を貸したい。……それだけですよ」
「そうか。それだけ、か」
 二人同時に、飲み物を口にする。けれど、巷一の口元にはわずかに微笑みが浮かんでいた。
「蓮人、少しいじわるな質問をしてもいいかな」
 コーヒーを飲んでいる途中だった蓮人の返事を待たずに、言葉を続ける。
「どうして蓮人は、そんなに亮のことを気にかけるのかな」
 蓮人の動きが、ぴたりと止まった。
「どうして、亮のことを気にして、不安になるんだろうね」
 後ろで束ねられた長髪を揺らして、巷一は首を傾げてみせた。
 カップを皿に戻す蓮人の手は、ほんのわずかに震えている。置いた瞬間、皿とカップが耳障りな音を立てた。
「……そんなの」
 なにかを吞むような、声だった。
「亮くんがおれにとって、大切な人だから。――それじゃ、だめですかね」
 ぎゅっと握りしめた手を、膝の上に置いていた。目線が下がるのが、自分でも分かった。
「おれにとって数少ない、心を許せる存在だったんですよ」
「それは、どうして?」
 ひゅっと喉が鳴る。深く息をついて「本当に意地悪ですね」と小さく呟いた。
「亮くんに心を許せたのは……おれのことを、ちゃんと見てくれる人だったからですよ。噂を知っても、それに惑わされず、柏木蓮人っていう一人のひととして、おれのことを見てくれた。それがおれ、すごく嬉しくて……そうしてくれる人なんて、なかなかいなくて。だから、」
 どう続ければいいのか、分からない。言葉を探すことは、砂の中から砂金を探して拾い上げるよりも難しい。
「だから……」
 詰まってなにも言えなくなった蓮人に、巷一は小さく息をついた。笑いとも呆れともつかない、その表情はどこか慈しむかのようでもあった。
「おれと蓮人が出会ったのは、もう十年くらい前のことになるんだっけね」
 突如始まった昔話に、蓮人はゆっくりと顔を上げた。頷いたけれど、その表情は薄暗い。
「十一年前です。おれがまだ、小学生のときでした」
 確かめるようにそう言って、思い出と呼ぶには少し苦すぎる出来事をかみしめ、飲みこんだ。
「忘れるわけがないです。塾帰りに師匠から初めて声をかけられたときのことも、その時にかけて頂いた言葉も、ぜんぶ。忘れられる、わけがないじゃないですか」
 飲みこんだ、はずなのに。
「まだ自分が魔術師だってことを知らなくて、不運を不幸だと思い込んでいたおれに、光を見せてくださったじゃないですか」
 どうしてか、言葉は口から流れ出して止まらなかった。
「あのとき師匠に出会えてなかったら、おれは……」
「もういいよ」
 柔らかな、微笑みと一緒に投げかけられた制止の言葉。
「別におれは、大したことをしたとは思っていないんだよ。それに、多分おれじゃなくても、誰か魔術師が蓮人のことを見つけたら同じ行動をとっていたんじゃないかな。蓮人が亮に声をかけたのと同じようにね」
 沈黙の隙間を埋めるように、喫茶店の店内音楽がゆったりと流れていく。それに合わせるようにして巷一の手がゆっくりと動き、腕時計を外した。軽く放り投げては受け止めてを繰りかえし、数度目で青い光をまとった腕時計は首輪へと変化する。
「……なにをするつもりですか、師匠」
 心なしか少し硬い蓮人の声に、首輪を身につけた巷一はおもむろに手を持ち上げた。
「たまには、思い出話でもしようか」
 ぱん。
 言葉と同時に鳴り響いた、巷一の手を叩く音。
 瞬間、二人の間に鎮座するテーブルの上に、ふわりと幻が浮かび上がった。
「――これって」
「見ての通り、あの日の記憶だよ。幻覚や幻聴の類も、ある種、空間に干渉する魔法――おれの得意分野だからね」
 人混みの中、ひとりぽつんと『青』をまとって立ち止まっている巷一と、その目の前で『黄色』をまといながら顔を伏せて歩いていこうとする幼い蓮人。
 十一年前。蓮人と巷一が初めて出会った日が、二人の目の前にあった。
「おれはこの日、仕事が早く終わって帰る途中だった。そして蓮人は、さっき言っていた通り塾帰りだったね。家から離れている所にわざわざ通っていたっていうのも、覚えてる」
「あまり思い出したくないですけど、おれの親は成績優秀であることを求めている人でしたからね。おれも、その期待に一生懸命応えようとしてました。――そうでもしないと、『不幸を呼ぶ少年』には、誰も見向きもしないので」
 蓮人の口角がふっと上がる。けれど、隠されていない右目は暗くよどんでいた。
『――ねえ、そこの少年』
 幻の巷一が幼い頃の蓮人を呼び止める。ぱっと振り返った少年は、フードを被っているせいでよく見えない。
 けれど、巷一が蓮人に近づこうとすると、『来ないで』と明確な拒絶の声が二人の間に割って入った。いまよりも高い、声変わり前の蓮人の声。
「魔術師同士が出会ったときに懐かしさや温かさを感じるのは、互いの魔力が干渉しあってのことだろうといわれているね。でも、中には『同族だということを認識するため』だとか、『まだ自分のことを魔術師だと認識していない人が他の魔術師にそのことを告げられたときにその言葉を信じられるようにするため』だなんていう人もいるんだ。実際、親近感を覚えている人の言葉はもっともらしく聞こえたりするよね。……だから、このときは少し驚いたんだよ」
「おれも、このときは驚きましたね。色がついて見える人に出会ったことがまず初めてで、不思議な懐かしさがあったので。多分、だから近づいてほしくなかったんだと思います」
『近づいちゃいけないんです。……おれは、不幸を呼ぶから。きっと、巻き込んじゃうので』
 現実の二人の言葉を継ぐように、幻の蓮人が口を開いた。泣くような響きが混じっているその声に、現実の二人は似たような表情を浮かべた。
 痛々しいものを見つめる目。けれど巷一の口元には慈しむような笑みがあり、蓮人の口は苦虫をかみつぶしたように歪んでいる。
「……どうでもいい人なら、不幸に巻き込まれようが知ったこっちゃないです。でも、見ず知らずでも、親近感のある人に悲しい目にはあってほしくないので」
「そうか……そういうことだったのか」
 しみじみと、納得したように巷一は頷いた。
『とりあえず、一回そこのベンチにでも座ろうか。立ちっぱなしは疲れるだろう?』
 幻の巷一が、近くのベンチに腰掛ける。隣を軽く叩いて蓮人を呼ぼうとするが、蓮人は微動だにしない。ただ、目線は巷一の方へと向いていた。
『おれ、昔から運が悪くて』
 幼い蓮人が、呟くようにそう言った。自分でも驚いたように口をぽかりと開けて、それでも、言葉は止まらなかった。
『親にも、同級生にも、先生にも……お前の不幸をこっちにうつさないでくれって言われて。一緒にいると、巻き込まれるって。だからおれ、「不幸を呼ぶ少年」って呼ばれているんですよ』
『全然かまわないよ』
 必死になって言い募る蓮人に、巷一は微笑んでみせただけだった。
『別にきみの運が悪かろうがなんだろうが、おれは気にしないからね。それに、不運と不幸は一緒じゃないんだよ。きみは、「不幸を呼ぶ少年」なんかじゃない。……おれは、そう思うけどな』
 幼い蓮人が、塾の鞄を取り落とす。巷一がそれを拾い上げ渡すと、フードの中に塩辛い雨が降り注いでいるのが見えた。一瞬だけ二人の目が合って、蓮人がふいっと横を向く。
「このあと、蓮人から今までの詳しい話を聞いたり、魔術師の話をしたりしたんだっけね」
 幻から目を離して現在の蓮人に問いかけると、蓮人も顔を上げて頷いた。師と手元のコーヒーとの間で目線を行ったり来たりさせながら、言葉を返す。
「そうです。自分が魔術師かもしれないっていうのは……心当たりがないわけではなかったので、すんなり受け入れられたんですよね。自分がやった自覚はなかったんですけど、勝手に教室の窓やドアが開いたり、失くしたと思っていたものが机の上にあったり、そういうことはあったので。……要するに、魔法の暴走経験があったんです」
「だいたいの魔術師は、自分が魔術師だと自覚する前に魔法を一度は暴走させているよ。おれだってある。まあ、魔力を封印されていた亮は例外かな。だからこそ、最初に魔術師だと言われたときに拒絶の言葉が出たんだと思うけどね」
 亮の名前が出た瞬間、コーヒーを飲んでいた蓮人の動きが止まった。
「……亮くん」
 皿にカップを戻し、ひとつため息を落とす。
「おれは、もう大切な人を失いたくないです。……師匠はご存じだと思いますけど、運が悪いっていうのが理由で、けっこうたくさんの人に嫌われてきましたからね。誰かと友達になれたと思っても、不幸に巻き込まれたくないからとみんな離れていって。先生や、家族ですらそうでした。家が近いのに寮で暮らしているのは、大学進学と同時に家を追い出されたからですし。……そうやってみんな離れていくならいっそ、友達なんか作らなければいいと思ってきました。でも、亮くんは、おれのことをちゃんと見てくれた。『先輩は一人じゃない』『少なくとも俺がいるし、神田さんもいる』って……そう、そうなんですよ。俺が一緒にいる、って言ってくれたのに、おれから逃げていったのが、すごく、ショックで」
 いつの間にか、ぼろぼろと涙がこぼれて、頰を伝って落ちていた。それを拭いもせずに俯いた蓮人の頭を、巷一はそっと撫でる。その優しい手つきとは裏腹に、巷一の表情はどこか悩ましげだった。
 机の上にあった幻は、消えている。
「とにかく、一度笹原とは顔を合わせる必要がありそうだな。なにがあったのか、訊かなくちゃいけない」
 巷一がひとつ深呼吸をすると、『青』がひらめいて手元に紙切れが現れる。少しばかりしっかりとした紙質のそれには『神田巷一』の名が書かれている――名刺だ。メールアドレスや電話番号の書かれている部分を一撫ですると、連絡先が消え、その代わりに短い文章が浮かび上がった。
 言葉足らずかもしれないが、これでいいだろうと巷一は思った。仲の良い友達相手ならまだしも、ある意味『敵対関係』の笹原に向けた連絡である。最低限の礼儀がなっていればそれでいい。いや、礼儀を尽くすような相手だとすら思えない。多少の無礼は許してもらおう。それこそ、これから魔法で笹原の目の前に名刺を突きつけようとすることくらいは。
 魔法の気配を感じ取ったのか、蓮人が顔を上げる。涙を拭って、かすれた声で呟いた。
「なんですか、それ」
「手紙だよ。次の日曜日、いつもの公園で笹原と会うための約束をしようと思ってね」
 食い入るように見つめる蓮人のまなざしを受けながら、ひとつ、息を吹きかける。それと同時に名刺を笹原の目の前に突きつけるようなイメージで名刺を転移させた。
『青』の光に包まれて消えていった名刺の、元あった場所――自分の手元を見つめて、巷一はひとつ、苦しげに息をついた。ずっとつけたままだった首輪を外して、深呼吸。
「さて。これで……届いたかな」

 帰宅準備をしていた笹原は、突然目の前に現れた紙切れに目を細めた。
 紙切れは落ちていくわけでもなく、ふわふわと笹原の前で浮かび続けている。そしてなにより、見覚えのある名前があった。
「――神田、巷一」
 名刺だと気づいたそのときには、それに手を伸ばしていた。受け取って全体をざっと見ると、あまりにも簡潔すぎる文章がそこに記されている。
『笹原凛様
 次の日曜日、十五時に日出町公園で会いましょう。お訊きしたいことがあります。
 神田』
 呼び出しの手紙。あまりに一方的な文章だが、笹原はなんの感情も抱かない。名刺をもてあそんで、眼鏡を外し、もう一度文章に目を通す。
「日出町公園、か」
 豊島区立中央図書館のすぐ近くにある、以前笹原が遊具を壊した、あの場所だ。
 そこで、巷一が待っている。巷一がいるならば、恐らくそばには蓮人もいるだろう。訊きたいことはきっと、亮のことだ。どうやって亮と自分との間に関係があることを摑んだのかは知らないが、特に隠していることでもないのでどこからばれてもおかしくはない。
 眼鏡をかけなおして、呟いた。
「少しだけ、遊びに行くか」
 返信の手段はない。けれど、笹原は無表情のまま気にした様子もなく、帰り支度の続きにかかった。

「次の日曜日に笹原と会う約束をしたから、一緒に行こう。そうだね、じゃあ……次の日曜日、三時の十分前に中央図書館のある建物の一階ロビーで待ち合わせをしようか」
 残った紅茶を飲み干した巷一に、蓮人もコーヒーを飲むペースを速めながら頷いた。
「分かりました。……あの、師匠」
「ん、どうした?」
 最後の一口を飲みこんで、蓮人は目の前にいる師を見上げる。どこか、心もとなそうな、そんな表情で。
「あいつは……笹原は、来ると思いますか」
「来るよ」
 カップを皿に戻す音が、静かに響き渡る。
「笹原は、絶対来る。間違いないよ」
 まっすぐに蓮人を見つめ返して、断言した。
 確信に満ちた声だった。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】