誰が為の世界で希う-23

 幻が、消えた。
 巷一はひとつ息をつくと、隣で煙草を消す笹原をちらりと見る。
 荷田が吸っていたものと同じ銘柄だという煙草。季節外れにもかかわらず、羽織であるかのように身につけているジャケット。そして、幅広とまではいかないが、ゆったりとしたストレートパンツ。
「その煙草も、恐らくは服装も。……荷田さんに自分を重ねるため、ですか?」
 その言葉に巷一の方を振り返った笹原だったが、驚いた様子はない。
「よく分かりましたね。どうやって知ったんですか?」
「魔術師らしく、魔法を使いましたよ。でも、あなたの記憶を無断で読むなんてことはしていませんので、ご安心ください」
「なんとも思っていないので構いませんよ。隠したいことがあるわけでもないですし」
 慣れたように穏やかな笑みを作って見せた笹原に、巷一は口元に指をあてて小さく唸る。
「……笹原さんは、人の記憶に干渉する魔法についてどう思います?」
「というと?」
 言いながら、笹原は表情を変えずに首を傾げてみせる。
「人の記憶を読み、消したり書きかえたり捏造したり、自分の記憶を他者と共有したりするような魔法ですよ。魔力を認識して扱えるなら、多少魔法について学があると思うのですが、ご存じないですかねぇ」
「知っていますよ。他の人がどう思うかなんて知りませんけれど、少なくともわたしは、どうでもいいと思っていますね。だって、わたしは記憶を読まれたところでなにか困ることがあるわけでもないですし、書きかえられたところでわたしという人の本質は変わらないと思いますからね。誰かの体験したことを知りたいなら記憶を共有できた方が手っ取り早いでしょうし。他者に行使するのだとしてもたいして変わりませんよ。誰かの記憶を書きかえたとして、その人の本質や事実が書きかえられるわけじゃない。まあ、現実が変わるだけで大きな効果が出るからこそ、使用には慎重な判断を要する魔法の扱いになるんでしょうけれど」
「そうですね。現実が変われば、それがきっかけでその人の人生が変わってしまうこともあるんですよ。それこそ、人の本質が書きかえられてしまうほどに」
 覚悟を決めたように、頷いた。
 首輪を少しきつく付け直して、どこか硬い笑みを笹原に向ける。
「ありがとうございます、笹原さん。これで、心置きなく魔法が使えます」
「どういうことです?」
「こういうことですよ」
 素早い動きで笹原の手を取ると、小さく息を吸い込んだ。
 歌うように、なにかを呟く。
 笹原の手を握っているはずの巷一の手が青く光を放ち、笹原の手に溶け込んでいく。
「これは……同化の魔法、ですか」
「ええ。便利なんですよ。なにせ、二者がひとつになる魔法です。おそらくは……記憶にまつわる魔法や、認識に、関わる魔法以上に、異端で、忌まれるべき……魔法、なのかもしれません。でも、その分、できることは多く、効果も、絶大なんですよねぇ」
 首輪のせいで息が苦しいのか、言葉がちぎられた紙のように散り散りになっていく。
「……相当な無理をしていませんか?」
「この魔法を、使う、ときは、常に、無理をして、いますよ」
 眠りにつく前のように閉じかける目を一生懸命見開いて、じとりと嫌な汗をかきながらも、魔法をやめない。
「そこまでして、あなたはなにをしたいんです?」
「そのうち……分かりますよ」
 口元を苦しげに歪ませながら、それでも、巷一は笑っていた。
 目を細めながらじっと巷一を見つめていた笹原だったが、不意に、こめかみに針を刺されたような鋭い痛みが走って小さく声をあげた。
 突然、前触れもなく思考が混乱に陥る。形にならないなにかが脳内を駆け巡る。
 自分の中でなにが起こっているのか、分からない。
 なにも分からないまま、ふっと気が遠くなり。
 ――意識を、手放した。

 気づいたとき、笹原は視界のぼやけた世界にいた。
 どこにいるのか、なにがどこにあって誰がいるのか、視覚情報だけではなにひとつ分からない。
 試しに指を動かしてみようと思ったが、手は動かない。話してみようと思っても、声が出ない。自分がうずくまっている感覚はあるので立ち上がろうとしたが、それもできない。
「……なにもできないのか」
 独り言をつぶやいたつもりでも、口は動いていなかった。
 ひとまず状況整理を、と思った笹原だったが、その思考は突如襲い掛かった痛みと、胸の中に湧いてきた感情に中断させられる。
 痛みは、まだ分かる。けれど、胸の中に充満しているものの名前を、笹原は知らない。
『――!』
 低い男性の『罵声』であろう声が聞こえる。水の中で音を聞くようにくぐもっていたが、たしかに、分かった。
『――、――……!』
 次に聞こえたのは、まだ声変わりしていない男の子の声。悲痛な、助けを請うような声。
 そして、同じ声が心の中でなにかを呟いているのが、笹原の頭の中で直接響く。
(たすけて)
(こわい)
(どうして)
(ぼくがわるいの?)
(ごめんなさい)
(ゆるして)
 喉が詰まる。目じりから、なにか冷たいものがこぼれ落ちる。
「これは――」
 胸の中の感情に、名前がつく。
(こわい)
(にげたい)
(ここにいたくない――)
 固く、小さくなりながら、笹原は――男の子は、ぎゅっと唇をかみしめる。
 瞬間、笹原は自分を青い光が取り巻くのを見た。
 この色を、笹原は知っている。
 状況が、少しずつ見え始める。
 けれど、男の子の方はそうではないらしく、困惑したような声が聞こえてきた。
『ここ……どこ?』
 笹原は――男の子は手で耳をふさぐのをやめ、そっと立ち上がると、目をこする。涙が拭われて明瞭になった視界の先に広がっていた場所は、少し前までいた場所とは明らかに違う。
『なんでぼく、こんなところに……?』
(どうしよう)
(また、おこられちゃう)
(はやくかえらなきゃ)
(でも、ここどこ……?)
 心臓を他人に握りしめられるような感覚。
 驚きと困惑と、不安、恐れ。たくさんの感情にさいなまれて、笹原の――男の子の姿は再び青い光に包まれる。そして数秒後には、目の前に一軒家が現れていた。
『よかった、もどってこれた……』
『でも、またおこられるのかな……』
 男の子が安堵し、再び不安と恐怖に襲われるのを自分事のように感じ取りながら、笹原は納得したように頷く。
 見覚えのある青い魔力と、目の前に立つ一軒家の表札に書かれた苗字――『神田』。
「ここは、神田巷一の記憶の中、か」
 そう気づいた瞬間、ビデオテープを早送りするかのように、時間が急速に進んでいく。
 そして笹原は、巷一の記憶を追体験していくことになる。
 自分が魔術師だと気づいた日。誰に知らされたわけでもなく自分で気がつき、喜びとともに独学で魔法を学ぶことを決意したこと。心臓がどきどきと高鳴り、頰が熱くなるのが自分でも分かるほどで、胸の奥がうずうずするような感覚があった。
 図書館に赴き、本を読みながら魔術師や魔法の知識を身に続け、呪語を学び、ひとけのない場所で実戦練習に励む日々。分からないことに悩まされたり、魔力切れに苦しめられたりしながらも、着々と自分なりに魔法を体系立てていく、その喜びと楽しみ、達成感につき動かされるように学びを深め、時間をかけながら魔法の技量を上げていく。
 そんな中で、苦しく逃げ出したくなるような日常生活が続く。理屈の通らないようなことを理由に怒られるたび、喉がすぼまり、苦いものがこみ上げてきそうになる。叩かれ殴られることが当たり前になり、歯を食いしばりながら、それでも耐えて、わずかな希望に縋りついて懸命に生きようとする。
そして、高校を卒業するとともに、家を出た。
 一人で生活できることへの喜びや解放感はすぐに、孤独と心もとなさへと変わっていく。
 社会に出て生きていくだけの知識がなかったのだ。
 同時期に、魔法を使った人助けをしようとしたものの、魔術師への理解がまだない時代だったこともあり、人々に奇異の目で見られ、避けられるようになってしまう。
 ひとり、またひとりと周囲の人々が離れていくたびに、胸の奥がもやもやとして、つんと鼻の奥が痛くなる。苦いものをかみしめながら、それでも手を伸ばして、その手を払いのけられて……。
 先の見えない日々。世界を恨み、自分を、恨んだ。
 けれど、そんな感情がある日、頭を殴られるほどの感情で上書きされるときが来る。
 ――絶望と、諦念。

 意識を失った笹原の様子を気にかけながら、巷一は同化の魔法を解いていく。
 自分の手が完全に元に戻ったことを確認し、首輪を緩めて汗を拭うなり、大きく息をついた。
「……同化の魔法は疲れるんだよ。特に、自分の状況を相手に共有するときは」
 四月に亮に対して使ったときも、つい先日に蓮人に対して使ったときも、相手の状況を知るためだった。そのため、自分を見失わない程度に、自分を相手にゆだねてしまえばよかったのだが、今回はそうはいかない。自分の記憶やそれに伴う感情を相手に共有しなければならないため、相手にゆだねるのではなく、積極的に干渉する必要がある。
 同化しているとはいえ、もとをただせば違う人間。他者への干渉はあまりに負担が大きすぎる。
「まあ、それは笹原も同じだろうけど。……かけられた側にも精神的負担がかかるし、今回は情報量がとにかく多い。頭がよく回る人でも『処理落ち』して当然なくらいにはね」
 笹原が目を覚ますのを待ちながら、巷一はもう一度汗を拭う。寒気がするほどの汗の冷たさに、猛暑だというのに鳥肌が立った。
「無理なんてするもんじゃないな。……ちょっと、魔力を使いすぎた」
 同化の魔法を使うには莫大な魔力が必要で、一人の魔術師の魔力量だけでは到底足りない。人よりも魔力量の多くない巷一であれば、なおさら扱えるものではない。
 ではどうするか――他から魔力を借りるしかない。
 魔術師の間でもあまり知られていないことだが、魔力というものは魔術師が持つだけではない。この世界中、いたるところに漂っている。人が持つものと違い、色もなければ雰囲気で感じ取ることもできず、空気のように紛れ込んでいる。
 そして、これもあまり知られていないが、魔術師の感情は周囲にある魔力に影響を及ぼすことがある。風もないのに髪が揺れる、というのが良い一例だ。
 その二つに気がついた巷一は、強い感情を持って周囲に漂う魔力に干渉し、取り込んで自分の魔力として使うすべを見つけ出した。
 周囲にある魔力とて無限ではない。それでも、一人の魔術師が持つ魔力量よりもはるかに多い。このすべを編み出したからこそ、巷一は特異な魔術師であることができた。
 弟子たちはこのことに気づくだろうか。特に、先日違和感に気づいた蓮人は。
 そんなことを思い、白く色が失せて冷たくなった手を温めようとこすりあわせた。
 そのときだった。
 頭を垂れて、糸の切れた操り人形のように座り込んでいた笹原が、ゆっくりと、ぎこちなく動き出す。辺りを見回して、自分の手を見つめ、動かして、現実に戻ってきたことをかみしめるように頷いた。
 横を振りむくと、巷一が「戻ってきましたか」と複雑な笑みを浮かべた。
「――神田さん。あなたは……」
「少々荒い手ではありますが、わたしの記憶と感情を共有させていただきました。あなたは、感情をずっと知りたかったのでしょう? どういう環境であなたが育って、どうして感情を知らないまま大人になったかは知りませんが、まあ、何事も体験しなければ知ることはできないと思いましてね。かなりの情報量だったと思いますが、どうでしたか?」
「たしかに、そうですけど、でも……」
 笹原の頰から一筋、涙が流れた。
「なんてことをしてくれたんですか。……くそっ。いままで、どれだけわたしが軽い言葉を使い、中身のない行動をしてきたのか、分かってしまったじゃありませんか」
「気づくのが遅すぎますよ。その軽い言動で、どれだけの人が傷ついてきたと思っているんですか?」
「そう、ですね。自分がなにをしてきたのか、ようやく理解したような気がしますよ」
 もう一度、涙がこぼれる。
 その目に、初めて本当にまじめな色を浮かべて、笹原は巷一の目を見つめた。
「神田さん。あなたは、強い人ですね。あんなに強い感情を経験しておきながら、それを抱えて、乗り越えて、今まで生きてきたんですよね? 傍から見れば不幸にも思えますけど、でも……記憶を共有すると、こんなことまで分かってしまうんですね。
 あなたは、過去の自分を振り返っても、自分が不幸だと思っていない」
「過去がなければ、いまの自分はありませんからね。たくさん苦しんだからこそ発見できたこともありましたし。別に、不幸だとは思いませんよ」
 巷一は穏やかに笑いながら、その目に虚無に近いような感情を浮かべた。
「でもね、笹原さん。わたしは自分を強い人間だとは思っていないんですよ。むしろ、とっても弱いんです。きっと。支えてくれる人がたくさんいるからなんとか生きてくることができた、そんな人間です。
 なにも知らず空っぽだったあなたと、知りすぎて望みを失くし諦めを抱いたわたし。ある意味、似た者同士だったのかもしれませんね」
 よいしょ、と巷一は立ち上がって、手を持ち上げた。
「わたしの用件は済みましたので、もし笹原さんに話したいことがなければ、いろいろと魔法を解いてしまおうかと思っているのですが、どうですかね。なにかありますか?」
 つられたように笹原も立ち上がり、口を開く。
「では、ひとつだけ。あなたが最後に教えてくれた絶望と諦めは、あれは……どんな経験があって抱いたものなんですか? あそこだけあなたの記憶がなくて、ただ直接、感情を放り込まれたような感じで……すごく、足場のないところに立っているような心もとなさを感じたのですが」
「ああ、あれですか」
 言いながら、巷一は宙に指でなにかを書くようにして、すぐに手でかき消すそぶりを見せた。そしてその手を口元にあてて、内緒のポーズを取ってみせる。
「何事も、知りすぎては面白くないですよ」

 笹原も巷一もいなくなった、無人の日出町公園内。
「あーあ、神田さんに先越されちゃったね」
 不意に誰もいない空間から、陽炎のように古夜と遠夜の姿が現れた。古夜は足を組んでベンチに座り、前かがみになってその手元にある資料の束をめくって中身を一瞥している。
「やっとこっちでも色々調べがついて、魔術師協会が一般人に干渉することについて上に相談しようと思ってたのに。人除けの魔法の気配を感じて、気になって近づいてみたらこれだよ。ねえ、どう思う? 紺野君は」
 その細い垂れ目で隣に座る遠夜を見上げると、遠夜は「えっ」と目を見開いて古夜の顔を覗き込んだ。
「どう思うって言われても……あ、なんで人除けの魔法が張られてたのに僕たちは近づけたんです? まさか魔法を無効化したんですか?」
「まさか。今回はなにもしていないよ。神田さんが最初から、俺たちを人除けの魔法の対象外になるようにしていたんだ。――多分、この光景を見せるためにね。俺たちにいろいろ説明するのが面倒だったんだろうよ」
 その場で一つうんと伸びをして、古夜はベンチから立ち上がる。
「さて、事務所に戻るよ。まったく、仕事が一個増えたじゃないか。笹原凛のしたことと神田巷一がそれにどう対応したのかっていう報告を上に上げなきゃいけないね」
「その代わり、僕たちが笹原凛に干渉する必要はなくなったんで、プラマイゼロじゃないですかね。それに報告書くらい、古夜さんなら魔法でさっさと書き上げるでしょう」
「間違いないね」
 軽口を叩きながら、遠夜も腰を上げて古夜の隣に並ぶ。
「それにしても、興味深い話がいっぱい飛び出してきましたね」
「ね。だからおれは神田さんから魔法の話をいろいろ訊いてみたいんだけど、いっつもはぐらかされてばっかりでさ」
 事務所へと歩を進めながら、古夜は数刻前まで巷一がいた場所を振り返る。耳の奥に、彼が立ち去る前に口にした言葉が蘇る。
『何事も、知りすぎては面白くないですよ』
「――神田巷一は、一体何を知っているんだろうね?」

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
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