誰が為の世界で希う-24

 大学の夏季休業もすぐ近くになった、ある日の私立東池袋学芸大学。
校門をくぐる、ひとつの人影があった。
 誰かを探すようにその高い背で辺りを見渡し、大学構内の中心部にある広場でカメラやマイクといった撮影機材を運んでいる集団を見つけると、口元に笑みを浮かべる。
 軽やかに、しっかりと。地を蹴り走り出した彼は燃えそうなほどに熱い夏の空気を吸い込んで、目の前を進んでいく集団の中にいるはずの、友人の名を呼んだ。
「――犬童!」
 秋の行事に向けたドラマ撮影集団の中、名を呼ばれた海弥は、思わず立ち止まる。
 振り返って、目を見開き、その数秒後、向日葵が咲いたような眩しい笑顔で友人を迎え入れた。
「清水! 久しぶりじゃん!」
「おう、久しぶり」
 久々に顔を見せた亮は、ちゃんと食べていなかったのか、以前よりもさらに痩せ気味になっていた。今まで首元で光っていたネックレスはズボンのポケットにしまわれて、つまり、いまの亮は魔法を使えないただの一般人と同じ。それでも表情は明るく、声にも張りがあった。
「ごめんな、主役なのにずっと休んじまって。心配も迷惑もかけたよな」
「……いや、大丈夫だよ」
 口ではそういうものの、海弥の表情や間の取り方は正直だ。少し物憂げな目や迷うような間がなにを示しているのか、分からないほどに短く浅い関係性ではない。
 海弥も多分それを分かっていて、それでも亮の肩を叩いて嬉しそうに目を細めている。
「それよりもよかった、お前が元気そうで」
 海弥が隠すのであれば、亮も突っ込まない。その代わり、深く、頭を下げた。
「本当にごめん。いろいろあってさ。でも、もう大丈夫だからさ」
「うん。……見れば分かるよ。おかえり、清水」
 ふわっと微笑んだ海弥に、亮は「ところで」と海弥が手にしている香盤表を指さした。
「今日の撮影って、俺が登場する場面ある?」
「なに当たり前のこと言ってんだよ。そろそろ主役のいない場面の撮影が終わりそうだから、今日は主役が来る前提での予定を組んでるんだ。今日お前が来なかったら、おれが全員から文句言われるところだったんだからな」
「知るかそんなの。勝手に予想して予定組んだのはお前だろうが」
「っはは! たしかにな。じゃあこれ、お前の分な」
 あきれ顔の亮に香盤表を一部押し付けると、海弥はニッと笑みを浮かべた。
「今日は忙しくなると思っとけよ?」
「なんだよその言葉。なんか怖くなるじゃねえかよ」
 そんな調子で軽口を叩きながら準備をし、今まで滞っていた分の撮影を進めていく。
 そして、飛ぶように時間は過ぎ、撮影終了後。
「本当に忙しくなったな……」
「だから撮影前に言ったろ?」
 休憩をはさみながらも一日中撮影を続けていた亮と海弥は、冷房のよく効いた校舎内で飲み物を飲みながら言葉を交わしていた。
「……あのさ」
「ん?」
「別に、嫌なら言わなくてもいいんだけどさ。……今までの間になにがあったのかなって思って。ずっと、すごく思い詰めてるみたいに見えたから、だから……よければ、だけど。話してくれないかなって思ってさ」
 海弥の問いに、亮の目が、行き場を失ったように揺れる。
 聞き覚えのある言葉だ、と亮は眩暈を覚えた。
『んー……まあ、嫌なら無理にとは言わないけどさ。もしよかったら、今までになにがあったのか訊いてもいいかな』
 耳の奥に、歌うようでいて温かな声が蘇る。
 波にさらわれるように、亮の意識は一瞬、あの日曜日へと飛んでいった。

 自分と笹沢がどのようなやり取りをして別れたのか、亮はあまりはっきりと思い出せない。いや、ただ思い出したくないから、忘れたふりをしているのかもしれない。どちらにしろ、なにかしら数度言葉を交わした後に笹沢が去って行ったことだけは覚えている。
「やあ、こんにちは」
 呆然と立ち尽くしている亮の耳に、今の空気には似つかわしくないほどの、しかしある意味登場して当然だと思える人物の声が飛び込んできた。
「どうも、古夜です。いやちょっとね、この辺りですごい魔力のぶつかり合いが起こったって報告があったから来てみたんですけど。なにか知りませんか?」
 思わず振り返ると、そこには確かに、自分とは二十センチほどは身長が違うであろう古夜が立っていた。
「……あなたはいつでも、どこでも現れるんですね」
「そりゃあね、仕事ですから。わたしを何者だとお思いですか?」
 どこか得意げに笑って、古夜はつと空を見上げた。亮もつられて見上げてみるが、空を舞う鳥の影が見えるばかりで特別なものはなにもない。
「一応、魔術師協会としてはあんなに大きな魔力の衝突を見てしまった以上、なにが起こったのかを確認しなくちゃいけない。見た感じ、だいぶ魔力を消耗しているみたいだし、多分あなたは当事者ですよね。わたしが想像するに、柏木君も関係あると思うんですが。……なにか知ってること、あります?」
 古夜は笹沢よりもさらに背が低いはずなのに、笹沢と会話しているとき以上に圧を感じて、亮は思わずぐっと息を飲みこんだ。
「……それ、絶対に状況を知ってて俺に話しかけに来ていますよね」
「うーん……半々くらいってところですかね。清水君と柏木君の魔力がぶつかったのは知っているけれど、魔法で遠くから見ただけ。そのときここにいたわけじゃない。どうしてそんな事態になったのか、どんな魔法がぶつかり合ったのかは知らない。そして、さすがに時間が経ち過ぎて残滓も残っていない。そうなると、当時現場にいた人に訊くしかないんですよ」
「やっぱりある程度は知っているじゃないですか」
 表情を取り繕う余裕もなく、亮は顔を思い切りしかめる。それでも古夜は、目を細めて微笑みかけてくるばかりで、思わずため息がこぼれ落ちた。
「柏木先輩の魔法を、俺が止めました。理由は、柏木先輩の魔法が暴走したからです。……これでいいですか」
 嘆息交じりの声に、古夜が意外そうに目を見開く。
「え、珍しい。彼、基本的に淡々としてることが多い印象だったんだけど。魔法が暴走するなんて、相当なことがあったんじゃないですか?」
 亮の目線が、落ちていく。
「――そんなの、古夜さんなら分かっていると思っていました」
 だって、暴走のきっかけになったのは、『相当なこと』をしたのは自分なのだ。人を傷つけて、大切な人を裏切った。それを古夜は――魔術師協会の二人は、当事者の他の誰よりも近くで見ていたはずではなかったか。
 頭を垂れて唇をかみしめる亮の姿を見てなにをどう解釈したのか、古夜はベンチに座ると自分の隣をぺちぺちと叩いた。促されるままに亮が腰かけると、古夜はそっと若き魔術師の顔を見上げて微笑む。
「いろいろ、あったみたいだね」
 傷口に塩を塗り込むような優しさで言われ、亮は顔をふいと背けた。
「んー……まあ、嫌なら無理にとは言わないけどさ。もしよかったら、今までになにがあったのか訊いてもいいかな」
「一人の魔術師に深入りしないんじゃありませんでしたっけ」
 訝しげに目を細めた亮に、古夜はふにゃりとほどけそうな笑みを浮かべた。細く垂れた目の奥に見える瞳は、深い優しさに満ち溢れた茶色で、まっすぐに亮を見つめている。
「いまは魔術師協会の人間としてじゃなくって、一人の魔術師として、君の話を聞きたい」
 今までに聞いたことのない、暖かな声だった。
 胸が、痛い。
「どうやったら、強い魔術師になれますか」
 勝手に、口が動いていた。
「誰にも利用されることもなく、大切な人のために自分の力を使える、人を守るために魔法を使える……そんな魔術師に、どうやったらなれますか」
 いつの間にか口にしていた言葉を聞いてようやく、亮は頷いた。
 そうだ。それが、自分の理想であり、そして――。
「それはつまり、清水君の身に起こったことの裏返しだってことでいいのかな? 人に利用されてしまった、大切な人のために魔法を使えなかった、人を守れなかった――そんな後悔があるのかな」
 図星だ。
「はい……そう受け取ってもらって、大丈夫です」
 思わず俯き、表情をゆがめた亮に、古夜は目を閉じ、口元に懐かしげな笑みを浮かべて、歌うように一言。
「んー、そうだね。大切な人の幸せを祈ること、かな」
 想像もしていなかった言葉に、亮はぽかりと口を開ける。
「祈ること、ですか」
「そう。大切な人は、誰でもいいんだよ。親でも兄弟でも、同期でも先輩後輩でも。俺の場合だと、妻だったり子どもたちだったりするんだけど。魔術師が悪さをするような街では、魔術師も一般人も幸せにはなれないでしょ? だから、大切な人たちの幸せのために行動するんだ、って、そう心を決めて動くこと――つまり祈ることじゃないかな、って俺は思ってる」
 言葉がうまく入ってこなくて、亮は古夜の口にしたことを頭の中でぐるぐると繰り返し、かみ砕くように、かみしめるように、呟いた。
「祈ることは、心を決めて動くこと、ですか」
「そう。そんな風に先生は――俺に魔法を教えてくれた人は言ってたよ。魔法を使うっていうことは祈ること。祈ることは、なにを為したいかを明確にしてそのために動くことなんだ、って。もう、何年前の話かなぁ。もう三十年近く経ってるかもしれないね。そのくらい前からずっと、自分はなんのために魔法を使うんだろう、って考えていたような気がするよ」
 眦を下げてそう言った古夜に胸をえぐられたような気がして、亮はぎゅっと胸元を摑んだ。そういえば、なんのために魔法を使うのかなんて意識したことがなかった。
「大丈夫。君ならできるよ」
 俯いてしまって表情の見えない亮の肩をそっと叩いて、古夜は力強く言い切った。
「だって、君は悔い改めることができる人なんだから。事故を起こしたときもすぐに運転手のけがを治した。さっきの魔力のぶつかり合いも、柏木君が人を傷つけそうだったから一生懸命止めた。そうでしょ? なら、大丈夫だよ。君は、人のために魔法を使える人だから」
 ぶわりと、鳥肌が立つのを亮は感じる。思わず口を開いた瞬間、冷たい汗が頰を伝い落ちた。
「――どうして、さっきのことを」
「ん……一応仕事なのでね、記憶を読みましたよ。清水君のじゃなくて、この空間に刻み付けられたのをね。あとは推測です。『柏木君が、下手すればひと一人の存在を消せるような魔法を使った。そうしたら、姿の見えない清水君がその魔法を打ち消すために魔法を使った』――これがわたしの見た記憶です。そこに君の話を照らし合わせると、『柏木君が意図せず人を傷つけそうになったが、それをよしとせず清水君が止めた』って話になると思ったんですよ」
 よいしょ、という声には似つかわぬほどに軽やかにベンチから立ち上がって、「さてと」と亮の方を振り返った。
「それじゃ、要件も済みましたし、わたしはこのへんで失礼しますね」
 真面目なのにどこかおどけた様子で古夜が言って一礼した瞬間、ぶわりと強風が吹きあげる。思わず目をふさいだ亮が再び目を開けたとき、そこには『山吹色』の残滓だけが残っていた。
「……ったく、いろんなことが起こりすぎだよ、もう……」
 思わず乾いた笑いをこぼした亮だったが、両目からは水滴が溢れて止まらなかった。

 あの後から、ずっと悩んでいた。――自分はどうして魔術師になって、なんのために魔法を使うのか。
「……あんまり、人に話したいとは思えないことが、たくさんあったんだ。だから、学校を休んでまで考えなきゃいけないことができて」
 まだはっきりと答えは出ていないし、だからこそまだ魔法を使うべきではないと思ってネックレスをつけてはいない。けれど、考えるたびに色々な人の姿が浮かんで、その中には海弥もいた――なんてことは、まだ本人に伝えようという気にはなれないけれど。いや、そもそも自分が魔術師であることも、話していないのだけど。
「いまは犬童にも話そうと思えないようなことばっかりなんだけど。いつか、話すからさ。……それでもいい?」
 きっとそのときには、ネックレスを再び身につけることができると思った。そして、どうして魔術師であろうと思い、魔法を使うのかも、一緒に語れるだろう。
 顔を上げ、まっすぐに見つめてくる亮の目を、海弥はじっと見つめ返す。
 口角を上げて、頷いた。
「分かった。待ってるよ」
「ありがとう」
 顔を見合わせて、二人同時に吹き出した。
「お前、なにがおかしいんだよ」
「そっちこそ、なに急に笑い出してんだよ」
 気のすむまで声をあげて思いきり笑って、ふと見やった窓の外、目線の先。
 亮は、見知った人を見かけたような気がした。
 大学の、正門を出てすぐ、幅の広い車道の真ん中で、倒れ込んでいる姿を。
「――え」
 背筋を、冷たい汗が落ちていった。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】