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『砂の女』 安部公房

8月の朝。

刺すように照りつけてくる、容赦のない日差し。ハンディタイプの扇風機の風にあたりながら、私はホームで電車を待っていました。

マスクを外したい衝動にかられます。しかし、世の中がこういった状況なので、汗を拭き拭きぐっと堪えていました。ようやく電車が到着。扉をくぐり、「ふう」と一息。

カバンから文庫本を取り出し、『砂の女』と書かれた、お洒落な表紙を開きます。

安部公房という作家は以前から気になっていました。イメージは、シュールな作風を持つ人という感じ。あらすじを読んだ時も『世にも奇妙な物語』みたいな話かなと思い、今回初めて読むことにしました。

8月の午後、1人の男が休暇を利用して、昆虫採集に出かけるところから物語が始まります。男の目的は、新種の昆虫を発見することでした。どうやら、昆虫図鑑に自分の名前を載せることを夢見ているようです。

男が目をつけたのは、砂地に住む虫でした。ある時、ニワハンミョウという虫を見つけ、その習性にすっかり虜になります。

男が昆虫採集に熱中していくいきさつは読んでいて面白いです。私は昆虫には詳しくありませんが、はまったらきっと楽しいんだろうなあと思いました。

今回男が目指したのは、海の近くにある砂丘でした。

その砂丘の麓には、小さな部落がありました。通り過ぎる時、住人達がどこかよそよそしい態度をとるのですが、昆虫のことで頭がいっぱいの男は構わず歩き続けます。

ある時、男は違和感を覚えます。砂丘に差し掛かっても、部落は途切れることなく続いていきます。部落の建物は砂の上ではなく、そのままの平行を保ったまま立っていました。砂丘が部落を飲み込んでいるような構図になっていたのです。

砂丘には、無数の穴が開いていました。その穴は、埋もれた部落の建物に向かって伸びています。その建物でも、人が生活しているようです。

蟻の巣のような場所で人が食事をしたり睡眠をとったりしている様子を想像して、少しぞっとしました。私だったらきっと、この時点で怖くて引き返しています。

男はその後、穴の中の家のうちのひとつに泊まります。当然、翌朝には出発するつもりでしたが、恐ろしい事態に直面します。

穴の中へ降りる時に使ったはしごが、無くなって(隠されて?)いました。出られなくなったのです。

じりじりと、何かに囲まれていくような錯覚にとらわれました。真夏の暑さにぼうっとした頭で読んでいたせいかもしれません。

男が泊まった家には、1人の女性が住んでいました。その人は、積もった砂をかき集め、穴の外にいる部落の住人に渡す仕事をして、日当を受け取っていました。

なぜそんなことをするのかを問うと、「そうしないと、積もっていく砂に家が潰されるから」とのこと。

色々な考えが頭を巡りました。穴の外へ引っ越せば済む話ではないのか、それともその家に特別な思い入れがあるのか、と。穴の中にとどまるメリットはないように思えました。

女性は男に、砂かきの手伝いをしてほしいと頼みます。状況を受け入れられない男は、砂まみれになりながらも穴からの脱出を企てます。果たして男の運命やいかに。

読みながら何度か顔をしかめ、首や腕をさすりました。自分の体にも砂が付いているような気がしたのです。

穴の中で思い通りにならずにもがき続ける男に対し、私は同情しました。厄介な人に捕まってしまったんだなあと、この時はどこか他人事のように考えていました。

10月の午後。

派遣の仕事の契約が先月末で切れて、自室で鬱々と過ごしていました。そろそろまずいなと、漠然と考えます。何か手に職をつけて、正社員で働かないといけないな、と。

ため息をひとつつき、逃げ場を探すように本棚に目を向けました。読み終わっていた『砂の女』を手に取り、斜め読み。

最初は単に、砂の中の家からの脱出劇として楽しく読んだのですが、この時は別の視点で読んでいました。穴から脱出しようとする男や穴の中で暮らす女性と、自分の今の状況が重なっているように感じました。

うまくは言えないのですが、思い通りにならない焦りや、広い世界に目を向けずに家の中でじっとしている様子が、他人事とは思えませんでした。自分もまた、砂の中に囚われているのかもしれません。

おしまいに、この本で一番印象に残った文章を紹介します。物語の終盤、男が言った台詞です。

「納得がいかなかったんだ……まあいずれ、人生なんて、納得ずくで行くものじゃないだろうが……しかし、あの生活や、この生活があって、向うの方が、ちょっぴりましに見えたりする……このまま暮らしていって、それで何うなるんだと思うのが、一番たまらないんだな……どの生活だろうと、そんなこと、分りっこないに決まっているんだけどね……まあ、すこしでも、気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなく、いいような気がしてしまうんだ……」
ー『砂の女』安部公房

今の私は正直、他人に誇れるような生き方はできていない気がします。どの人を見ても、自分より真剣に生きている気がしてしまうのです。

しかしこの文章を読んで、他人を気にするのではなく、自分の人生に目を向けることが大切なんだと感じました。そして、「自分を納得させてくれる楽しみがあればいい」と言われた気がして、少し安心しました。

今は何かと大変な世の中だけれど、先のことについてあまり嘆かずに、自分の人生をしっかり歩いていけたらいいと思います。

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