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どうせ阿呆なら

アホ臭えという言葉、これは核爆弾、ダイナマイト、プレミアムガソリンである。最近はもうホントにこの言葉に助けられている。

例えばある日の駅のホームで、突然見舞われる。例のアレである。体中の皮膚の下に、ダニのように這いつくばった無数の恥ずかしさが、ホームに流れる底抜けに明るい鉄道チャイムに共鳴して愉快なダンスを始める。「いったい何の意味があるんだ?」と無限に問うてくる、鋼鉄のように武装した冷酷な処女が、毎日の生活を力強く進んでいくための精神的なエネルギーを容赦なく奪ってくる。

だがそこで抜き差したるはわが伝家の宝刀、「アホ臭え」である。考えること、ウジウジと出口のない思考に嵌ることを「アホ臭え」と一蹴する。マスクの下で思いっきり笑い、決められた時刻にやってくる電車を突っ立って待つ卑小な自分の更に卑小な精神に多少の黒インクが混ざろうがまるっきりお構いなしに、時は進む、腹は減る、ノルマは終わらない、試験の日もやってくる。そういうグロテスクな現実を生き抜くための荒療治、それが「アホ臭え」である。

世慣れ、成長、大人になる、こういった一人の人間の変化は、多くの「アホ臭え」を自分に言い聞かせることによって達成されるのではないか、と考えてみる。確かに、訪れた問題や出来事に対していちいち「これは何だ?何の意味がある?いったいどうするのが正解なんだ?」なんて逡巡しているようでは到底生きていけまい。鋼鉄のような精神を持っている(ように見える)人は、何も考えずにひたすら突き進むことのできるエンジンを心中に持っているか、それとも数々の「アホ臭え」を蓄積し、うずたかく積み重なったそれを自分の脚で乗り越えたところで迸る笑いを手に入れているのではないだろうか。

こうしてわかりづらい比喩やら表現やらを弄することさえ、アホ臭くなってくる。すると、自分の心の中に重大な危機感が迸る。これは面白い。自分は常にナイーブな自分を嫌っている。強く生きる人たちが羨ましくて仕方がない。だが、いざ自分がそのような憧れへの一歩を踏み出そうとするときに、引き止めてくる強大な力が、自分の中にある。困ったものだ。これは失ってはダメだ、いや、やっぱり捨てていかないと苦しい、強く生きていけない、そんなジレンマに限って、自分は「アホ臭え」と一蹴することができない。

アホ臭え、と語る人間の口からは加齢臭がするよ、若さこそ最高の物だ、みたいな言語化をしてみたところでこのジレンマは解決しない。なぜなら、アホ臭えと物事を一蹴せずにナイーブな爺になったところでいずれ自分の口からは加齢臭がしてくるのは間違いないからである。ここまで考えると、どうせ死ぬんだからナイーブだろうが「大人」だろうが、どう生きたって良くね、みたいな諦世論みたいなものも誕生してくる。だがその絶望的な諦世論の奥には全く何もない《・・・・・・》。まっさらな闇が広がっており、そのような世界で生きることは到底耐えられない。どうすればいいのだろうか。自分の命を擲つような経験をすれば、少しはマシになるだろうか。やっぱりアホ臭いに死ぬまで頼って暮らすしかないのだろうか。

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