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盗んだバイクはどこへ行った?

ーーー盗んだバイクで走り出す。自由になれた気がした、15の夜。

一人の卑小な少年がみせる「反抗」の裏には、こんなにも愚かで、傲慢で、それでいて悲しい心の内が隠されている。

その心の内を見事に表現したヘッセ。

主人公の放蕩時代を描いた一節から、抜粋してお届けします。ーーー

下の記事の続きです↓


ヘッセ「デミアン」より。不良青年の心の内。

僕は内心ではとてもおびえていた。歩き回っては、世の中を軽蔑していた僕、精神の面では誇り高く、デミアンと思想を共にしていた僕だというのに、僕はそんなふうだった。人間のくずで、ぐうたらで、酔っ払いで、うすぎたなく、いやらしくて、下等であり、あさましい欲望によろめかされる、放埓な人非人だったのだ。僕はなお、むかつくような腹立だしい気持ちで自分自身の笑い声をよく聞いたものだ。酔っぱらった、しまりのない、けいれん的に、おろかしくほとばしる笑い声なのである。それが僕なのだ。

しかしそうは言っても、そういう苦しみを舐めるのは、一つの大きな楽しみに近かった。とても長い間、僕らは盲目のまま無感覚に這って歩いていたし、とても長い間、僕の心はだまり続けて、みすぼらしく片隅に座っていたので、この自己非難、この恐怖、このいまわしい感情全体さえも、たましいにとってよろこばしく思われたのだ。そこにはなんと言っても感情があり、それが炎のように燃えたぎっており、心臓がけいれんしていた。とまどいながら、僕はそのみじめな境涯のさなかで、何か回復のような、春のようなものを感じていた。

僕はすっかり、暗い世界、悪魔に仲間入りしてしまった。そして、その世界では、素敵なやつということになっていた。

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それでも僕は情けなかった。自己を破壊するような乱痴気騒ぎをしながら、のんきに暮らしていたわけだが、仲間内で、頭領とかすごいやつだとか言われながらも、胸のずっと深いところでは不安に満ちた臆病な魂がゆらゆらしていたのである。下等な飲み屋の汚いテーブルに向かいながら、こぼれたビールの沼の間で、友人たちを、途方もない、がらの悪い毒舌でおもしろがらせたり、時にはおどろかしたりしている一方、僕は自分があざけっている一切に対して、心ひそかに畏敬の念を持っていた。そして胸の中では、自分の魂の前に、自分の過去の前に、母親の前に、ひざまずいていたのである。

僕はどうしてもやらずにはいられなかったことをやっただけだ。そうしなければ、自分をどう始末したらいいか全然わからなかったのだ。僕は長くひとりでいるのが怖かった。絶えず自分の気持ちを誘い込む、いろんな、情に脆い、はにかみがちな、気の優しい発作に不安を感じた。

(ヘッセ「デミアン」より。続く。)



盗んだバイクはどこへ行ったのか?(解説)

「中二病」と言えば、こんな感じか・・・と思われた方もいらっしゃると思います。

主人公のあまりにも愚かで、傲慢で、それでいて悲痛な叫び声。

ヘッセは大人たちから蔑まれるような「不良」の青年の心の中を生々しくありありと描くのが上手いです。

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今ではもうあんまり見られなくなってしまいましたが、私が小学生くらいのころまでは、駅前の裏路地でたむろしている不良の高校生たちがタバコを吸いながら空を眺めていたり、乱痴気騒ぎをやらかしていたりしていたものです。

当時の私は「怖いなあ」程度にしか思っていませんでした。

でも、彼らは彼らなりのとっても不器用なやり方で自分自身と闘っていた。

そう考えれば、その姿が不器用でダサいものであればあるほど、彼らの真剣さがうかがえるのではないでしょうか。


放蕩。反抗。乱暴。


それらは今ではもう「誰もが通る道」というわけではないようです。社会が若者の放蕩を許すほど豊かではなくなってきたみたいです。若者はとりあえず生きていかなければならないため、学費を自分で稼ぎながら大学に行ったり、奨学金の返済をしながら暮らしています。「放蕩」している時間なんぞ、全く無いのではないでしょうか。

主人公は世の中を軽蔑しています。それができるのは若さの特権かもしれません。しかし、世の中を軽蔑することが世間的に許されるのは、いわゆる「成功した芸術家」だけです。

成功したほんの一握りの小説家や映画監督の言葉だけが世の中の人に影響を与えることができます。

とうぜん、一人の若造がなんのかんのと御託を並べても、大人たちや、彼と同じ若者の間でも冷笑が起こるだけです。と考えると、こんなバカみたいなことやってないで、社会の中でうまく生きる術を身につけなくては、という話になってきます。

とりあえずは、とにかく金を稼がなければならない。生きていかなければならない。

若者はそんな中で生きていかなくてはいけない。

おかげで表面上は大人たちに従順にならざるをえない。それでも、心の中では様々な不満や鬱憤がたまっているに違いありません。「うっせえわ」みたいな曲がバズったり、twitterが日々盛り上がったりしているのも当然かもしれません。

「デミアン」の主人公のような放蕩ができるのは、もはや恵まれた若者だけになってしまったのかもしれません。ちょっと寂しい気もしますが、仕方ないですね。

何よりも生まれた時代でやっていくしかないのですから。

その時代に若者が適応していくのは、これまた当然の話です。




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