地球は四角いのである。

田村良五郎は変な奴であった。

それはなぜかというと彼は初対面の人間に対し必ずこう言うからである。

「僕は地球って四角いと思うんですよ」

そのセリフを聞いた者の反応は実にさまざまである。分かりやすく鼻で笑う人間もいれば、目を剝いてドン引きする奴もいる。「えっ?」と頓狂な声を上げる人もいれば「お、おう。。」とか適当な相槌を打つ者もいる。

田村良五郎はその反応によって今後とるべき態度を決める。彼が待ち望んでいるのは、こういう態度である。

「地球は四角いのか・・・。うん。たしかに。そうかもしれない。」

もちろん冗談でもなくこちらを見下した結果でもなく真剣に漏れた言葉である必要がある。彼は、真剣に「地球が四角い」などという常識外れの言説を検討してくれるような人間と一緒にいたいと願っているのだ。

もちろん彼は、自分のことをそこまで価値のある人間だと思っていなかったし、自分の素っ頓狂な言葉が鼻で笑われるのも仕方がないと考えている。科学と教育の発達したこの社会で、きょうび誰が「地球は四角い」なんぞあほなことを抜かすであろうか?

でも、だからこそである。

だからこそ、田村良五郎は思っている。当たり前だと思われているどんな物事でも、遠くから懐疑的に眺めることのできる人は魅力的だ、と。それは優しさの最も極められた形ではないか。それは「思いやり」の最も洗練された形ではないか。常識からどんなにズレた物事でも一旦は受け入れて自分の腹に据えて考えることのできる人は優しい。それは彼自身を苦しめるほどの豊饒な想像力に支えられた営みである。優しさとは想像力のことだ。田村良五郎はそう思っていた。

だが、一人もいなかったのである。
「たしかに地球は四角いかもしれない」なんて言う変わり者が。

世界は広い。いずれは彼の前にも現れるかもしれない。地球が四角いのではないかと真剣に考えることが出来る人がいるかもしれない。リスクを負って相手を試すような真似をしてでも、優しい人、面白い人と一緒にいたい。

でも。

こんなやり方、長くは続かないよな。良五郎は思った。

なんかうまい方法はないものか。社会経験の乏しい若者である良五郎にとって、「この人、何となく好い人だな」みたいな自分の感性は全く信頼できないのであった。自分はいつ騙されるのかも分からない。ていうか、よしんば「地球も四角いかもしれないですね」なんて言ってくれる人がいたとしても、その人が本心からそれを言ってるのかどうかを見極める術なんてはなから無いのではないか。

良五郎は頭を抱えていた。これからもずっと抱えているだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?