見えなかったものが見えるとき

私は夜に歩くのが好きだ。

皆が寝静まった夜の世界は、自身の感覚が研ぎ澄まされ、昼の世界では見えていなかったものが見える気がする。

見えなかったものが見える時は、いつも恐ろしさと弾む心が同居する。

そんな感覚が好きだ。


私たちが普段見えているものは世界の単なる欠片でしかないが、そんなことを思いながら日々を暮らしている人がどれほどいるのだろう。

我々は自分の顔を、声を日常的には知らないで生きている。鏡に映る自分は左右が反転した虚像であり、自身の声は他者の聞こえているそれよりも少し低めに聞こえる。

幼いころ、自分の録音した声を聴いたとき仰天したものだ。思わず「私ってこんな声なの?」と周囲に確認してしまったくらい、声が高かった。私はもっと低めの声で話していたはずなのにと、他人が話しているようで気持ちが悪かった。でも周囲はそれが私の声なのだと言うのだ。

自分を撮影したビデオを見たときも、ものすごい違和感を感じた。これは誰なのか。私ではないと思うのに、皆私であると言う。皆が言うのであれば、とその場では納得したが、今でも写真や撮影は苦手だ。写真の私は私ではない。

これでどうして、皆と同じものを見、同じ音を聞き、同じ世界に生きていると言えるのだろうか。言えるはずが無いのである。

我々はその一人ひとりが、他者とは決定的に違う世界に生きている。誰一人として、私と同じものを見て、同じ音を聞き、同じ世界を感じることはできない。

ではどうして、我々は知りもしない他者の世界を否定することができるのだろうか。できるはずも無い。

なぜなら、我々はその人の世界を知る事はできないからだ。言葉を交わせば、断片的に知ることはできるかもしれない。しかし、どんなに親しい友人でも、夫婦でも、親や子でさえも、我々はその人の全ての世界を知ることはできない。何が見えて何が聞こえて何を感じて生きているのか、体感することはかなわないのである。

しかし、我々はそんなことはすぐ忘れてしまう。皆同じ世界の中で生きていると勘違いしてしまう。共通するものが沢山あるから、その共通するものしかないと思い込んでしまう。我々は決定的に違う世界に住んでいるのにも関わらず、私と言う違う世界の尺度でいとも簡単に他者の世界を否定してしまう。「それは存在しない」と。

でも、そんな事、本来であれば分からないことなのである。分からないことを分かると思い込んでいるのである。そしてそれを自覚すること、それこそをソクラテスは「無知の知」と呼んだ。最も、当時と使われ方は若干違うみたいだが。


だが、同時に我々は、我々の世界を他者に承認されることを望む。私の見ているものは私だけが見ているのではない、あなたも見ているのだと認めてもらいたがる。自分だけでは確かさが足りない。「確かな世界で生きたい」という強い願望が我々の中には眠っている。

だから、作るのだ。自分の世界を他者の中に現すために。アーティストと言われる人たちも、一般人も、今この文章を書いている私でさえ、誰かに認めてもらいたいと願っている。「確かなものが欲しい」と願っている。認められた時、生きることが許される。

元々分かり合うことができない別世界で生きているのに、世界を共有したいと願う、人間はこのような自己矛盾を抱えているのだ。


現代を振り返った時に、良い時代にも悪い時代にもなったと思う。社会は個人に細分化され、共同体のルールを強制されなくなった。しかしその反面、どこかに所属さえしていれば承認がもらえた世界は霧散し、個人個人が問われるようになった。それは自由な反面、辛く厳しい社会でもある。

こと、承認に視点を合わせて考えた場合、それはそれこそ闇の中を手探りで歩くようなものだ。暗中模索そのもの。輝く何かを引き当てられれば幸運である。

それでも、何かを伝えてみれば、人が引き寄せられるのだから、この世は不思議だ。暗闇の中だからこそ、その光は見つけることができるのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?