「労働=他者へのサービス」に馴染めない私

働くことは「傍(はた=他人)を楽にすること」と誰が言ったのか知らないが、言えて妙であると思う。

「あなたはどうして働くのか」と聞かれたら、多くの人は「生活のため」「お金を稼ぐため」と答えるのではないだろうか。

もちろん、色々な答えがあるだろう。最近では「自己実現のため」という人もいるかもしれない。それでも多くの人は「お金を稼ぐため」に働いているのではないかと思う。

では、このお金とはいったいどんな物なのか。

経済学的に言えば、お金は価値の指標であり、様々な物と交換できる機能を持っている。時代時代によって、お金として流通していたのは貝だったり石だったり金属だったり紙だったりだが、それに価値があると何かに(多くは国に)保障されて初めてお金として機能する。

言うなれば、お金の本質は物体そのものではなく、目に見えな「価値」とやらなのである。

では、この「価値」とは何か。

それは、誰かのサービスに対しての対価である。誰かが自分に何かをしてくれたことに対して、(基本的には感謝して)渡すものだ。

よくある貨幣の誕生の経緯を説明した話では、物々交換をする際に、例えば「リンゴ一個はバナナ何個に変えられるのか?」という分かりにくい交換を分かり易くするために、一回数字に置き換えたと説明される。そして、その置き換えた数字の媒体となった物は、腐りにくく変形しにくい物が採用されたため、たくさんの取引が可能になった、と言うのが一般的だ。

しかし、ここで注意しなくてはいけないのは、物を価値に置き換えたわけではないということだ。そうではなく、物に付随する労働に対して価値が置かれたのである。つまり、りんごそれ自体に価値が付いたのではなく、「りんごを、この取引の場まで持ってきてくれたこと」への価値なのである。それは言い換えると「自分の代わりにりんごを収穫して、運搬してくれた」ことへの価値なのだ。要は、「労働を肩代わりしてくれてありがとう」を価値に置き換えたのである。

考えてみてほしい。あなたは誰のものでもない山(最近ではそういった山もあまりないが)に行って、りんごを見つけたとしよう。それを取って食べようという時に誰かにお金を支払うか?いや、支払わないだろう。そもそも支払先が無いし。

では、あなたは市場に行って美味しそうなりんごを見つけた。そのりんごは売り手の物なので、あなたは売り手に120円支払ってりんごを購入した。この場合、あなたは同じりんごを手に入れたにも関わらず、120円という価値を支払った、あるいは譲渡した。

そういうことなのだ。つまり、物そのものには価値は無い。その物に付随する誰かの労働に対して我々は価値を見出しているのである。

もっと言えば、誰かが労働してくれた代わりに、「自分が楽できた」ことに対して価値を見出していると言える。

では、話を戻して、多くの人が「お金を稼ぐため」に労働をしている。そしてこのお金を稼ぐとは、「誰か(不特定多数)を楽にする」ことであり、要は「誰かを楽にする」ために我々はサービス(奉仕)をしているのである。

それ自体はまあいい。いいのだ。

だが、現状日本では「誰かを楽にする」以外の生活手段が無いことが甚だ問題なのである。

というか、自分の生活を営むために不特定多数の誰かを楽にしなきゃいけないのは何かおかしくない?という疑問だ。

いや、ロジック的にはおかしくは無いのだが、「直接自分のために労働すればいいのでは?というか、そういった要素があってもいいのでは?」ということなのである。


現状、日本にいる限り、お金が無いと生きるのはなかなか難しい。特に都会は何をするにもお金が必要である。生活必需品には必ず買わなくてはならなくて、それ以外の手段で入手することはかなり困難である。

そしてそのためには、他者にサービスしなければならない。しかも、サービスをしようとしたとしても、それが相手方にとって価値が無ければ突っぱねられてしまう。サービスを押し打っても相手はお金を渡してはくれない。よって行うサービスは相手が価値があると思う物でなければならない。

しかも、一人だけに売ってそれで生活できればいいのだが、大抵の場合はそうもいかないので、多くの人に提供しなくてはいけないものになる。

つまり、どこの誰とも知らない不特定の多数に「価値がある」と判断されるサービスでなければならないのだ。

では、人は何に価値を見出すのか。それは「楽」の一字に尽きる。楽になること、あるいは楽しいことである。

さあ、ここまで説明してようやくこのグロテスクな世界が見えてきた。つまり、現状の日本では、生きるために誰かに奉仕をしなくてはならず、そしてその奉仕によって得た価値で楽をする、というライフスタイルを多くの人が送っているのだ。

それはさながら、王侯貴族のような生活をしながら奴隷として働くような、あるいは奴隷として働きながら王侯貴族として振舞うかのような、状態だ。

いや、よく考えたら中学・高校の歴史で勉強した内容なのだが、改めて考えてみるとなんともちぐはぐというか。

もう、純粋に「自分のための労働」は今の日本(特に都会)には存在しない。自分の生活を一旦他者に預けて、再び生活を取り返しているかのような、である。

もちろん、この仕組みによって我々はより「楽をする」ことができるようになった。現状の生活を振り返れば様々な便利な物がある。それ自体は良いことなのかもしれない。

しかし、この「他者へのサービス」が様々な理由でできなくなった場合、我々は飢え死にするしかないのが現状だ。

最近、都会で餓死する人のニュースを聞くが、この「自分のための労働」の手段を一切持たない人間は、「他者へのサービス」ができなくなった際、もう生きていくことはできないのである。

言うなれば、もう既にお金とは、他者からの承認なのだ。「お前は(使えるから)生きていていい」という免罪符だ。そして他者にサービスできないものは構造的に殺されていく。そんな世界が形成されているのだ。

ところで、正直私自身は、他者へのサービスは好きではない。自分のために働くのは構わないが、誰かのために働くというのはモチベーションが湧かない。極力自分のことをしていたい。できるならば。

そしてそんな人間は必然的に排除される運命にある。

だから嫌々ながらも働かなければならない。誰かの役に立たなければならない。誰かを楽にしなければならない。しかし、誰もが誰かを楽にしなけれなならない社会は、果たして楽しいのだろうか?

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