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記念すべき第一回芥川賞受賞作|ブラジル移住に希望を賭けた者たち|石川達三『蒼氓(そうぼう)』

史上初めての芥川賞受賞作。それが、石川達三の『蒼氓』である。

芥川賞は1935年(昭和10年)にその歴史が始まった。同時に大衆文学作品向けの直木賞も始まったが、芥川賞は純文学作品への賞である。

第一回芥川賞受賞作と聞くと、古めかしく、読みづらいのではないか、と私は思っていた。だが、読み始めてすぐにその世界観に没頭してしまった。現状への諦め、新しい異国の地への希望、田舎から出てきた家族、人生の波に流される女、神戸の海の匂い。当時、名前も残らないたくさんのブラジルへの移住民がいたことが、生々しく想像させられる。

物語の舞台は、神戸の港近くの丘の上にある「国立海外移民収容所」だ。8日後に出港する船に乗るために、そこに移住希望の人々が集まってくる。収容所に集まってきて、神戸を出港するまでの8日間をそれぞれの登場人物達の背景を明らかにしながら描いていく。

当時、日本は人口が急激に増えており、農村では貧困に苦しむ人々も多かったようだ。移民政策は、政府にしてみれば日本国内では解決しきれない人口増と貧困問題を解決する手段だったのかもしれない。実際に1908年(明治41年)に初めてブラジル移民を開始して以来、約100年の間でおおよそ26万人もの日本人がブラジルに渡った

話の主軸となるのは秋田から収容所に出てきた「お夏」と「孫市」の兄弟。移民の対象となるには、家族持ちである必要があったため、一時的に籍を入れている。偽装夫婦の「お夏」と「孫市」以外にも、病気を誤魔化して検査をすり抜けようとする人もいる。ブラジルに移住することが最後の希望となっているため、収容所にいる人々はなんとか条件に合格して、移住船に乗ることに必死な状況が序盤で描かれる。

中盤以降は、日本を立つまでの8日間の出来事を通して、この時代らしい登場人物の気持ちの葛藤が見てとれる。「孫市」は徴兵の検査の年に移住するため、徴兵逃れではないか、忠誠心がないのではないかと言われ、葛藤する。「お夏」は、地元に結婚を申し込まれた男性「堀川」がいたが、自分が結婚してしまうと孫市は移民に行けなくなってしまうため、自分を犠牲にする。

「お夏」は、特に今の時代ではあまりないと思う女性としての描かれ方をされているように思う。収容所内の部屋では、複数の家族と共同生活を送ることになる。その中で、移民ではなく監督として同乗する男「小水」と隣の布団で寝ることになる。ある夜、お夏は小水に静かに襲われる。お夏は抵抗もしなければ、隣にいる弟を起こすこともない。しかもそれはお夏にとって初めての経験ではない。堀川にも同じようなことをされた経験があった。その時もお夏は抵抗をせず、そのようなものだと受け入れていた。

また、「お夏」は一時的といえども弟の移住のために籍を入れることも、弟の言うことを信じて1年後には戻ってこれると思っていることも(途中でそれは現実的ではないことを悟るが)、どんな決定も自分の意思ではなく、それが犠牲とも思っていない。当たり前のことだったのだろう。

物語の最後は船がついに出港するところでおわる。ついにはもう日本の土を離れて、隠しきれない本音が出る。「孫市」はもう徴兵されなくて済むことに安堵し、「お夏」はもう送ることさえできない堀川への手紙を海へ投げ捨て、隠れるように泣き崩れる。

物語を読む私たちには、ブラジルでの移住生活が決して簡単なものではなかったことを知っている。船の上にいる人々が描いているような希望のある生活でもないことも想像できる。だからこそ、物語の中で接した彼らの手触り感のある葛藤が消化しきれない感情として残るのかもしれない。

選評では、素材・題材の面白さ、その上で一気に読ませる構成の良さが評価されている。第一回の候補作には、太宰治初め、高見順など著名作家の名前が並ぶ。その上で、蒼氓が評価され、2023年の今こうして出会えたことに私は感謝したい。

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