オンライン読書会 開催報告(2月18日)
今回の読書会は、参加希望者がおひとりだったので、色々とお話を伺ういい機会となりました。2人だけの読書会ということで、非常にリラックスしたムードで開始しました。
今回は、時間に余裕が生まれたので、タイマーを使って推し本の紹介や質疑応答をする時間を区切る必要はありませんでした。おしゃべりををするような感じで、推し本を紹介しつつ、話題がドリフトするのに任せていきましょう、と決めてから、本の話を始めました。
まず初めに話題に上ったのは、Mさんが前回紹介してくれた「乳と卵」の著者、川上未映子さん。私も、Audibleで先行配信されていた、「春のこわいもの」を読了したことをお伝えしました。
ちょうどAudibleに登録したタイミングで新着作品に上がっていたので、「お、これは推して頂いた作家さん!」とすぐに読み始めたのでした。
それから、話は「春のこわいもの」の感想へ。この作品で描かれているのは、「未知の感染症の爆発的な広がり」がじわじわと日常生活に入り込んできたころ。この作品では、「コロナ」と言う固有名詞を使わなかったことで、今読む人には具体的に、今後読む人の不安さにはその時に、不透明な未来への恐怖、見知らぬ日常が始まることへの不安、未来に明るい光が見出せない絶望感、モヤのかかったような焦燥感が感じられる作りだと思いました。それでいて、今現在の閉塞感や人々の焦りも見事に絡めとっていて、コロナ史としても残っていく作品だと思います。
そこから話は、身近に感じる分断について。
コロナの感染爆発の前から、正確には2018年の終わり頃から、社会情勢や人々のイデオロギーが、社会の分断を映しているように感じられたこと。そしてその分断は、実は身近て起こっていたこと。
政治や社会問題に対して、「自分と同じ側」だと思っていた人たちが、実は「あっち側」の人だったと知ったときのショック。今後の付き合いの中で、何を口に出して何に口を閉ざすか、という葛藤。
世界のどこに住んでいても、同じようなニュースを見ていたはずの友人が、自分と全く異なる世界観を持っていると知ることは、軽い恐怖でもあり、ある種の落胆でもあります。そして、そう感じる自分を、視野狭窄なのか、何かを誤解しているのか、と信じきれないもどかしさ。
身近だからこそ、意見が違うからこそ、話し合えない。そのモヤモヤ。
Mさんも私も、身近な交友関係の中での「断絶」を経験していました。
「激動の時代」という手垢まみれの表現はあれど、歴史は絶えず動いていて、世界のどこかではいつも何かが「激動」。でも最近の世界史は、さすがに特盛すぎないか、とも思うのでした。
あ、さてさて、私が用意していた推し本の話を忘れていました。
今回用意していたのはこちら。
「コンビニ人間」by 村田紗耶香
私はAudible で読了しました。本書のナレーターはあの大久保佳代子さん。彼女の、張りすぎない朗読が、ストーリーに意外なほどマッチして、ストーリーとナレーターのマッチングが絶妙でした。オーディオブックってこのマッチングも楽しみの一つですね。
「周囲の人と上手くやっていけない」具合の描写も、主人公の心の内も、どうしようもなく現実的で、だからこそすべてにルールが適用されるコンビニという世界の中でしか、彼女は彼女でいられない。
そこに悲壮感は全くないのに、主人公が生き生きとすればするほど、読んでいる私は何が善なのかわからなくなりました。
また、読んでいる間、コンビニがまるで清潔で有機的な生物のように感じてられるのも奇妙な体験でした。客をエサのように飲み込み、客から受け取り、客に与え、客を吐き出す。その流れは食物の摂取と排泄を思わせます。
そして自分の体に貯えられた養分(お金)を使い、商品を仕入れ、また客を呼び寄せる…このエコサイクルの中で、主人公はそのコンビニの体内で溌剌と働く細胞のように感じられたのです。
この、自分の見ている現実や、自分の足元が奇妙に歪む感じ、善悪やら常識やらがぺらっぺらに透けて見えて、どうしてこっちが正解だと思ったのか?自分の足が地面を捉えられなくなった瞬間に、音もなくねじ伏せてくるこの感じは、きっと村田紗耶香さんの持ち味なんでしょうね。クセになりそうです。
さすがのMさんは、村田紗耶香さんの著作をいくつか読まれているし、日英読みもされているので、感想を話し合えて楽しかったです。
読書会では、知らなかった本との出会いも楽しみですが、こうして同じ本を読んで感想を語り合うのも、また非常に楽しいものです。
変な小説、奇妙な読後感といえば、という話の流れで、私が引用したのは筒井康隆の「残像に口紅を」。
最近もTictokでバズってましたね。筒井さんさすがだわぁ。
筒井康隆は、中学か高校のころにドはまりした作家のひとりです。
その頃はまだ文学小説というよりはSFや実験的な作品、ジュブナイルの方が印象が強かったのですが、この「残像に口紅を」は、ストーリーというよりも小説の構成にまさに度肝を抜かれた一作。
筒井さんお得意のメタ的な構造の面白さと、一文字ずつ消えていくスリルで、何度も読み返した作品です(そして、何度読んでもストーリーは覚えていない)。
おっと、話がドリフトしてしまった…仕切り直して、お次はMさんの推し本です。ご紹介いただいたのはこちら。
「わたしのいるところ」by ジュンパ・ラヒリ
(英語版『Whereabouts』はこちら。)
本書にまつわる情報量が凄すぎで、まとめようがないくらいなのです。まず、、著者のジュンパ・ラヒリさんがものすごい。
ベンガル系インド人移民の娘としてロンドンで生まれ、3歳の時に家族とともにアメリカへ移住。アメリカ育ちで「アメリカ人」としての自己像を育むも、インド人としてのバックグラウンドもまとい、アンビバレンスを抱えたアイデンティティを持つようになります。
結婚相手はラテンアメリカ版タイム副編集長。ニューヨークのブルックリンに住み、2人の子を持ち、作家としてもピューリッツァー・ノンフィクション賞を獲るなど、アメリカで作家として成功していました。
が、のちに「イタリア語に恋をして」、家族と主にイタリアのローマへ移住。そこでイタリア語にますますのめり込み、ついにはイタリア語で長編小説を完成させたーーのが、本書です(そのバイタリティ、どこから湧いてくるの?)。
本書の主人公は45歳の独身女性。外国で、その国の言葉を使い、それでも異国人としての孤独を深め、ひとりの自分と向き合っていく。
本書のタイトルである「わたしのいるところ」のとおり、歩道で、本屋で、バルコニーで、ベッドで、海で……。それぞれの場所に散りばめられた彼女の孤独と旅立ちの物語。
彼女がアメリカで得たアンビバレントな自己と、外国語を習い外国に住むとう生活の中で、孤独に、自分自身とずっと対峙してきたことが伺えるような気がしました。
彼女とは全く比べものにはならないのですが、やはり外国語習得というのは根源的に孤独な作業。最後に必要なのは、自分の胆力だけです。どうしても、自分自身と向き合う時間が増えるもの、だと思います。
さて、つらつらとお話していたらあっという間に1時間経ってしまいました。なんと名残惜しい!!名残惜しいのですが、次の推し本は次回じっくり聞きたい!というわけで、ジュンパ・ラヒリさんの物語の余韻を残したまま、お開きとなりました。
参加人数が少ないと、それはそれで楽しく、発見も多い会となりました。次はどんな本を推そうかしら。また、いろんな読書好きさんにお会いできますように!
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